本人が初めて明かした「持病」の真相――安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」前編
2020/8/28(金) 22:46配信 文春オンライン
8月28日、安倍晋三首相が辞任の意向を表明、歴代最長を記録した長期政権が幕を閉じることとなった。会見では「8月上旬に潰瘍性大腸炎の再発が確認された。病気の治療を抱え、体力が万全でない中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはならない。総理大臣の職を辞することとした」と述べた。
安倍首相は第1次政権時の2007年にも、持病の潰瘍性大腸炎が悪化して退陣している。当時、自身の病状や秘めた思いを雑誌「文藝春秋」に明かした“独占手記”を特別に全文公開する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。(全2回の1回目/ 後編 へ続く)
出典:「文藝春秋」2008年2月号
■なぜ私は辞任を決断するに至ったのか
私は昨年(2007年)9月12日、内閣総理大臣の職を辞すことを表明し、9月25日に安倍内閣は総辞職いたしました。2006年9月の首相就任以来、私の目指す国づくりに期待を抱き、支持して下さった国民の皆さまを裏切る結果となったことは、誠に慚愧に堪えず、深くお詫び申し上げます。
昨年7月の参院選で自民党は大敗を喫しました。民主党が参院において第一党となり、いわゆる衆参のねじれ現象を引き起こしたため、福田康夫首相の国会運営に非常なご苦労をお掛けしております。また年金記録問題についても福田政権にさらなる十字架を背負わせることとなってしまいました。本来ならば、私が総理の座にとどまり、先頭に立って難局に立ち向かっていかなければならないのですが、その責務を断念してしまったことを痛切に反省いたしております。
すべてのマスコミが私が総理の座を「投げ出した」と報じました。結果的に所信表明直後という最悪のタイミングで辞任したわけですから、むしろ当然の批判なのかもしれません。しかし実際の私の胸中は「投げ出した」とは対極にあります。政治家にとって、総理大臣は理念と政策を実現するための究極の目標であり、厳しい選挙を重ね、苦労の末に辿り着いたその地位をそんなに簡単に投げ出すはずもありません。
では、なぜ私は辞任を決断するに至ったのか――。
9月12日の会見で私は、辞任の理由として、「テロとの戦いを進めていくには局面を転換しなければならない」と申し上げました。その後、入院中の慶應大学病院で行った会見では、「体調が悪化し、体力の限界を感じるに至り、もはや首相としての責任を全うし続けられないと決断した」と説明しました。当初、健康問題について言及しなかったこともあって、辞任の理由については様々な憶測が飛び交い、国民の皆さまに理解していただくための努力も十分ではなかったと今でも大変申し訳なく思っております。
昨年12月、私は官邸の元スタッフと一緒に東京八王子の高尾山を訪れました。途中、休みながらではありましたが、標高599メートルを踏破することができました。そして何より嬉しかったのは、登山中に出会った方々が、突然総理の座を去った私に対して、「お元気になってよかったですね」「心配してたんですよ」と声を掛けて下さったことでした。
辞任から3カ月、体調もほぼ回復し、当時の状況を冷静に振りかえることができるようになった今こそ、改めて国民の皆さまに、辞任に至る経緯について可能な限り率直に説明したいと思います。
■最初に異変が起きたのは8月5日のこと
昨年7月29日に行われた参院選は、自民党にとって、37議席という大変衝撃的な結果となりました。私も相当難しい戦いになるという覚悟はしておりましたが、選挙応援で全国を飛び回っていますと、後半は追い上げている手応えもあっただけに国民の審判は想像以上に厳しいものでした。
これまでも橋本龍太郎元総理や宇野宗佑元総理など、参院選の敗北が原因で職を辞したケースはありました。ただし、この時点では辞職するつもりはまったくありませんでした。政権選択選挙はあくまで衆院選であり、衆院選と3年ごとの参院選でその都度政権が代わる可能性があるというのでは、外交政策はもちろんのこと、安定した政権運営も難しくなります。そうした信念がありましたから、「ここで小泉純一郎総理から引き継いだ改革路線を変えてはいけない」と続投を決意しておりました。当然ながら、相当苛酷な状況が待ち受けていることは覚悟の上で、それに対峙していこうという強い気持があったのです。続投は誰にも相談せずに私自身の判断で決めました。
投票日の夕方には麻生太郎外相(当時)が公邸に訪ねて来られ、「総理が続投を決断するなら、私は支持します」と仰りました。麻生氏と入れ替わるようにやってきた中川秀直幹事長(当時)は「総理、続投されるんですか? 最後は総理のご判断ですが、それは茨の道ですよ」と仰りましたが、私の気持は揺らぎませんでした。
最初に異変が起きたのは、広島に原爆死没者慰霊式に行く前日でしたから、8月5日のことだったと思います。胃と腸に痛みを感じました。それが原因で食欲がまったくなくなってしまったのです。何を食べても体がなかなか受け付けない。味もほとんど感じられないし、美味しくない。それでも無理して食べると、ムカムカと気持ちが悪くなってしまうのです。嫌な予感がしました。
■初めて明かす「持病」の詳細
私はもともと「潰瘍性大腸炎」という持病を抱えております。これまで公にこの病気についてお話ししたことはありません。政治家にとって、病気はタブーであり、病名や病状が公になれば、政治生命を危うくすることさえあります。しかし、今回の辞任の理由をご理解いただくには、この持病についても包み隠さず告白すべきだと考えるに至りました。
潰瘍性大腸炎は厚生労働省が特定疾患に指定している難病で、いまだに原因は解明されておりません。初めて発症したのは17歳の頃でした。その時の衝撃は今も忘れることができません。尾籠な話をお許しいただきたいのですが、激しい腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだところ、夥しい量の下血があり、便器が真っ赤に染まったのです。この病気は精神的に落ち込みやすい病気だといわれています。下血により、多少貧血にもなりますし、何より、トイレに行くたびに鮮血を目の当たりにするわけですから、気持が滅入ります。
自己免疫疾患といって自分の免疫が異物と勘違いして自分の腸の壁を攻撃し、その結果、腸壁が剥落し、潰瘍となり、爛れて出血するのです。腸壁が刺激されるたび、30分に一度くらいの頻度で便意をもよおします。夜もベッドとトイレの往復で、到底熟睡などできません。内視鏡で大腸内を見たときも大きなショックを受けました。ボロボロに傷つき、はげ落ちた腸壁の映像の生々しさは、想像を超えていました。
■病名が分かったのは社会人になってから
初めての発症以来、年に一度はこの病気に悩まされてきました。だいたい2週間ほどでおさまるのですが、長い時は1カ月以上続くこともあります。最初の頃は医師の病名さえわからず、潰瘍性大腸炎であると診断されたのは社会人になってからでした。何の前触れもなく発症し、治るときは嘘のようにピタリとおさまるのが特徴です。体が冷えたり、ストレスが高まったときに発症することが多いようです。治療にはステロイドホルモンを使うのですが、これを一度使ってしまうと、量を減らしていくのが難しいのです。減らすスピードが早すぎると、すぐに再発してしまう。ただし、長く使いすぎると副作用も強い。顔がむくんでムーンフェイスになってしまうこともありますし、さらに骨粗鬆症のように骨ももろくなるといわれています。
今から10年ほど前、自民党国対副委員長を務めていた頃には、3カ月近く入院したこともありました。私の場合、発症すると腰痛を併発するのですが、入院当初は歩くこともできませんでした。しかも2カ月間にわたり口から物を食べることが一切できない。点滴だけです。当時65キロほどだった体重は53キロにまで減り、お尻の肉がそげ落ちて、寝ていて痛かったことを覚えています。腸に固形物が入ると、腸壁がすり切れ破れてしまうこともあり、そうなると大腸の全摘手術をしなければならないケースも出てくるからです。私が3カ月入院した際にも全摘手術が検討されました。
■全摘すると政治家としての活動に著しく支障が
この病気になると、大腸ガンのリスクが高くなるといわれているため、全摘手術にはガンの危機を取り除くメリットはあります。一方で、胃の場合、全摘しても十二指腸が代替することがありますが、大腸には代わる臓器がないため、トイレの回数の問題が出てくるのです。1日に何度もトイレに行かなくてはならないのでは、選挙運動など政治家としての活動に著しく支障が生じる。家内からは、「もう政治家なんて辞めてください」と涙ながらに訴えられたこともあります。当時、地元では、「ガンでこの先長くない」などという怪情報さえ囁かれました。それでも私は政治の道を諦めることなど考えられませんでした。
その後もときに発症することはありましたが、新薬の開発も進み、次第に症状をコントロールできるようになっていきました。そして官房副長官時代に発症したのを最後に、幹事長、幹事長代理、官房長官と充実した多忙な々を送ってまいりましたが、一度も再発に悩まされることはありませんでした。したがって一昨年9月には、この病気を克服することができたと考え、総裁選立候補を決意いたしました。
■外遊を契機に病状は一気に悪化
潰瘍性大腸炎に罹患したか否かは、血液検査で炎症反応を見ればわかります。昨年8月、腹痛を覚えたときには、すぐに主治医である慶應大学病院の日比紀文先生に診ていただきました。診断の結果は、「機能性胃腸障害」でした。ひとまず胸をなでおろし、すぐに潰瘍性大腸炎の発症を抑える薬も処方していただきました。ところが、この胃腸障害が一向によくならないのです。食欲不振が改善されず、お粥しか喉を通りません。それも難しいときには点滴に切り換えました。会食の予定もキャンセルできるものはお許しいただき、断れない場合は無理やり飲み込んでおりました。
参院選後には内閣改造をする予定でしたし、9月の臨時国会開会に向け所信表明演説の準備もしなければなりません。また、8月19日から25日までは、インドネシア、インド、マレーシアへの外遊も控えておりました。インドネシアではアジア政策についての大事なスピーチがあり、インドの国会でも演説の予定がありました。これらの準備しなければなりません。結局、お盆休みを返上して仕事をこなしていきました。今にして思えば、あの時点で2日でも3日でも静養していればよかったのかもしれません。
この外遊を契機に、病状は一気に悪化しました。機能性胃腸障害とは別に、ウィルス性の大腸炎に罹ってしまったのです。それ以後、激しい下痢が止まらなくなりました。晩餐会ではエスニック料理がしばしばテーブルを飾りましたが、基本的に残すことは失礼にあたります。無理して食べる努力はしたものの、結局かなり残してしまいました。
■「お友達内閣」批判に思うこと
帰国後もなかなか下痢は止まりませんでした。「辞める」という考えが初めて具体的に頭に浮かんだのは、そのころのことです。それでも帰国翌々日の8月27日には内閣改造が控えており、改造だけやって辞めることなど考えられません。すぐに弱気を振り払い、それからは「早く治ってほしい」と祈るような日々が続きました。改造人事については、出発前に9割方は決まっていたのですが、最後の1割が難航しました。安倍政権は「お友達内閣」との批判を浴びておりましたから、そうしたレッテルを払拭するような布陣を敷く必要があると考えておりました。
「お友達」といいましても、自ら目指す政策を実現していくためには、同じ志を持つ人たちで官邸を固めていくこと自体は当然だと思うのです。従来の派閥の推薦によってバランスをとるという手法こそが、むしろ批判されてきたはずです。第一次安倍内閣の塩崎恭久官房長官はじめ、副長官、補佐官ら、官邸スタッフ、関係の皆さまは大変有能であり、至らない私を最後まで支えていただいたことに感謝しております。
ただ、私が若いので、同志の顔ぶれも若い人が中心となる傾向はありました。そこで、内閣改造をする以上、変わったという印象をしっかり持ってもらえるような組閣が必要だと考えたわけです。いろいろな方がいろいろな意見を具申してきましたが、聞くべき部分は聞きながらも、最後は一人で決めました。改造内閣は納得のいく布陣だったと思います。
与謝野馨官房長官、麻生幹事長(いずれも当時)が官邸、党を仕切り、私が「蚊帳の外」に置かれているとの報道もありましたが、そんな事実はまったくありません。必要な報告はすべて受けておりましたし、最後の判断は私がしていました。ある官僚の人事をめぐって与謝野官房長官と対立し、それが辞任の引き金となったとの報道までありましたが、一官僚の人事で総理が辞任するなど100パーセントあり得ません。
■噴出した「政治とカネ」問題
9月1日、防災訓練の最中に遠藤武彦農水相(当時)の補助金不正受給問題の一報が飛び込んできました。私はすぐに与謝野官房長官、麻生幹事長と協議し、遠藤農水相からよく事情を聞くように指示しました。私はBSE問題発生当時、農水副大臣としての遠藤氏の活躍を高く評価していました。こうした形で辞職に至ったことは残念でなりません。補助金不正受給そのものは許されるものではありませんが、当時の「政治とカネ」の問題についての報道は、今とはだいぶ様相が違っていたように思います。もちろんそれも総理であった私の責任であることは言うまでもありません。
それまでも閣僚に疑惑が発覚した際の対応が後手に回ってしまっていたことは事実ですが、何よりも深刻な問題だったのは、マスコミとの間に必要以上に緊張関係をつくり、良好なコミュニケーションを持つことができなかったことです。もともと挑戦的なスローガンを掲げ、また、マスコミとは対時すべきときには対峙してきたということもあり、より反発を招いたのかもしれません。広報担当補佐官の世耕弘成氏には大変なご苦労を掛けてしまいました。私自身、実際にお会いして、自ら政策などについて説明した方には理解していただけることが多かっただけに、もう少し幅広く、言論人、マスコミの方とお目に掛かればよかったと悔いております。「政治とカネ」報道があそこまで燃えひろがっていった裏には、そうした背景があったのかもしれません。
抜け落ちてしまった「国民への謝罪の言葉」――安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」(後編へ続く)
「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2008年2月号
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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* 安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」後編 (「文藝春秋」 2008年2月号)