エースは、いま
特別編・桑田真澄さんインタビュー 無理をした 25歳がピークだった
2023年6月25日日曜日 中日新聞
2023年6月25日日曜日 中日新聞
高校野球で投手の故障対策が進む中、40年も前に登板過多のリスクを訴えた球児がいる。プロ野球巨人の桑田真澄ファーム総監督(55)。大阪・PL学園高時代に2度頂点に立った元右腕に、高校野球の課題を聞いた。 (聞き手・山内晴信)
-高1から、投手のけがのリスクに配慮していた。
1983年夏の甲子園で優勝投手となり、選抜チームの一員として渡米したのがきっかけ。現地の選手から話を聞き、スポーツ医科学の知識を活用していると知った。帰国後、関連するいろんな本を読んで実践するようになった。
-日本と米国は違った。
僕も中学までは投げ込め、走り込め、と言われ、1日2完投したこともある。でも米国選抜の選手たちは試合30分前に軽くジョギングして、体操とキャッチボールをするくらい。僕たちは練習中は水も飲んではいけないと言われていたのに、コーラを飲んでいて驚いた。逆に、向こうの選手は日本の練習を聞いて「そんなに投げるのか」とびっくりしていた。
-帰国して練習で変えたことは。
大会後のノースロー調整を提案した。当時は投げて強くなるのが当たり前。でも、目標は甲子園の優勝であって、そのために何が必要かと逆算して考えた。中村順司監督(当時)には「自分や他の投手が壊れたら勝てませんので練習法を変えたい」と話した。
-他にも提案したことは。
-高1から、投手のけがのリスクに配慮していた。
1983年夏の甲子園で優勝投手となり、選抜チームの一員として渡米したのがきっかけ。現地の選手から話を聞き、スポーツ医科学の知識を活用していると知った。帰国後、関連するいろんな本を読んで実践するようになった。
-日本と米国は違った。
僕も中学までは投げ込め、走り込め、と言われ、1日2完投したこともある。でも米国選抜の選手たちは試合30分前に軽くジョギングして、体操とキャッチボールをするくらい。僕たちは練習中は水も飲んではいけないと言われていたのに、コーラを飲んでいて驚いた。逆に、向こうの選手は日本の練習を聞いて「そんなに投げるのか」とびっくりしていた。
-帰国して練習で変えたことは。
大会後のノースロー調整を提案した。当時は投げて強くなるのが当たり前。でも、目標は甲子園の優勝であって、そのために何が必要かと逆算して考えた。中村順司監督(当時)には「自分や他の投手が壊れたら勝てませんので練習法を変えたい」と話した。
-他にも提案したことは。
音楽を聴きながらの練習や、2~3時間と短時間集中型の練習。僕は入学直後に全く上達しなくて、投手をクビになった時期がある。その後、打撃と守備力で野手としてメンバー入りした。メンバーの練習は2時間ほど。短いので集中力も体力もあって劇的にうまくなった。それで運良く投手に戻れたが、あの体験があったから長時間練習は無駄だと思った。
-中村監督の反応は。
「じゃあ、やってみよう。その代わり、甲子園に出られなかったら元に戻すよ」と。その後も甲子園に出場でき、短時間練習は卒業するまで続いた。入学当時は朝から晩まで投げ込み走り込み。これを3年間続けたら壊れるなと思った。プロでエースになるという夢も持っていたので、壊れない方法を提案した。
-甲子園では連投もあった。痛みを覚えたことは。
今振り返ると痛みだったのか、ただの張りだったのか分からないが、特に夏の大会は意識がもうろうとしながら投げていた。小、中、高、プロと僕より才能がある選手はいっぱいいたが、壊れて辞めていった。壊れるのは一瞬。張っているな、肩肘がおかしいな、と思いながら登板して、バーンって1球で終わってしまう。
-40歳まで現役を続けられたのは、高校時代にノースローなど無理をしなかったからか。
いや、十分無理をした。高校時代にピッチスマート(米国の投球数の指標)にのっとって投げていたら、もっとプロでも勝てたと思う。本音を言えば25歳ぐらいがピークだった。小さいころから肩や肘を酷使すると、その年齢くらいから退化していくように思う。
-日本高野連が導入している「1週間で計500球」の制限について。
ワールドベースボールクラシック(WBC)では、肉体的にも精神的にも出来上がったプロの選手が球数制限をしており、最大でも1週間で200球ぐらいしか投げない。なぜ学生がそれ以上投げるのか。普通に考えたらおかしい。
-若年層の肩肘を守っていくには。
高校野球で連投した経験と、スポーツ医科学の専門家の意見を真剣に聞くべきだ。米国では子どもからメジャーリーガーまで体を守る取り組みがあるが、日本はさまざまな大人の都合で子どもが犠牲になっている。甲子園は日本の大事な文化であり、プロ選手の供給源。野球界全体で考えていかなければ、今は人気があっても野球はマイナースポーツになる恐れがある。
-2019年の岩手大会決勝で、大船渡高の佐々木朗希(現ロッテ)が登板を回避し、チームは甲子園を逃した。
驚いたけど、国保陽平監督(当時)は勇気ある行動をとった。指導者として一番大事なのは、やらせることではなく止めること。根性論や精神論ではなく、選手たちの体を守るルールが整備されていれば誰も非難されない。1週間500球の制限を見直し、小手先の改善策ではなく、大会日程の拡大や運営方法の改善など改革が必要だ。
くわたますみ
大阪府出身。PL学園高でエースとして活躍し、1年夏から5季連続で甲子園に出場。1986年にドラフト1位で巨人に入団。米リーグでもプレーし、2008年に引退。10年3月、早大大学院修了。現在は巨人ファーム総監督。
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用、及び書き写し