「新潮45」休刊で失われたのは何か…「思想空間」保証されるべきもの 2018.9.28

2018-09-28 | 文化 思索

門田隆将
2018年09月28日 09:21
 「新潮45」休刊で失われたのは何か
 一昨日、私は「新潮45」の休刊問題を取り上げて、『国民は“内なる敵”とどう闘うのか』と題して、岡山で講演をさせてもらった。
 話をした私自身が驚くほど反響が大きかった。「是非、インターネットでも発信してください」と聴衆の方々から頼まれた。この休刊問題に関して、さまざまな論評が飛び交っているので、前回につづいて、あらためて意見を述べさせていただこうと思う。
 まず大切なことは、記事や書籍には、「百人いれば、百人の読み方がある」ということだ。そして、どんな読み方をしようと、その人の自由であり、言論と表現の自由と共に、その思想空間もまた保証されるべきものである、ということだ。
 私が、「新潮45」8月号に掲載された杉田美脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』という論文を読んだのは、今年の夏、すでに世間の批判が巻き起こってからだった。
 タイトルにあるように、この論文は国や自治体、あるいは、マスコミの「LGBT」に対する「支援の度が過ぎてはいないか」と問題提起したものである。
 「百人いれば、百人の読み方がある」と言ったとおり、私の読み方はほかの人とは違っているかもしれない。なぜなら、私は日頃から、安倍政権の「少子化」に対する無策ぶりについて“怒り”を持っているからだ。
 よく出演させてもらっている読売テレビの「そこまで言って委員会」で、昨年、私は、少子化対策として「子育て支援金」を設け、「国は第1子に百万円、第2子には3百万円、第3子には1千万円を出すべきだ」と主張したことがある。
 このまま少子化が続けば、2070年には日本の人口は、「6581万人」に半減することが統計上、明らかになっている。つまり、「少子化の縮小再生産」である。
 「未来の日本の姿」として、これをどう受け止めるかは、日本人それぞれによって異なるだろう。私は、これを打破するために日本の最重要課題として、時の政権それぞれが少子化に対して取り組まなければならない、と思っている。
 そのために、多くの女性に取材をさせてもらった上で、効果のある少子化対策として前述の「子育て支援金」が必要だと考えた。これを私は、未来の納税者の数を「増やす」という意味で、「納税者倍増計画」と名づけ、講演会その他でも、よく披露させてもらっている。
 もちろん、かの池田勇人首相の「所得倍増計画」を意識したネーミングだが、政策としての必要性を考えれば、あの時代の「所得倍増計画」より、はるかに重要な施策だと私は考えている。
 しかし、私がこの案を披露したら、番組では「桁(けた)が小さすぎます。第1子には1千万円、第2子には2千万円出すべきです」と竹田恒泰氏から批判を受けてしまった。現実的な施策としては、私の方が正しいとは思うが、要は、それほどのドラスチックな方法でなければ、「納税者倍増」は実現しないということではないか、と思う。
 しかし、これほどの長期政権となりながら、安倍政権はアベノミクスによって経済の数字こそ好転させたものの、少子化に対して、あまりに「無策」すぎる。
 そんな思いを持っている私は、杉田論文を読んで、「へえ~」と驚いてしまった。杉田氏は、安倍首相の押しで自民党議員として国会に返り咲いた人物であり、その意味では「安倍系列の政治家」だからだ。
 その人物が、「LGBTへの支援の度が過ぎていないか」と、強烈に非難している。裏を返せば、少子化に対して、「あまりに無策すぎないか」という意味である。
 前述のとおり、「百人いれば、百人の読み方」があり、そして、どんな読み方をしようと、その人の「自由」であり、言論と表現の自由と共に、その「思想空間もまた保証」されるべきものである。
 同じ読み方をした人は少ないかもしれないが、「これは、安倍政権の少子化無策に対する猛烈な批判だ」と、私と同じように思った人もいるだろう。もちろん、杉田氏は安倍系列の政治家だけに、そういった直接の文言はない。しかし、少なくとも私にはそう感じられた。
 ページにわたる長文の論文の中で、「差別だ」と非難に晒された箇所で、杉田氏はこう記述している。

 行政が動くということは税金を使うということです。例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない。つまり、「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要綱を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 周知のように、この部分で杉田氏は猛烈な批判を浴びた。「これはLGBTへの差別だ」と感じる人もいれば、私のように「これは政権や行政機関の少子化無策に対する猛烈な批判だ」と受け取る人もいるだろう。要は、「百人いれば、百人の読み方がある」ということである。
 その意味では、「これはLGBTへの差別だ」と感じ、それを批判する人の「自由」もまた認めなければならない。しかし、「百人いれば、百人の読み方がある」ということを理解した上で、言論・表現の自由の一翼を担う出版社には、いうまでもなく、この批判に対して「対処の仕方」がある。いや、出版社としての「使命と責任」がある、と表現した方がいいかもしれない。
 それは「筆者と言論空間を守る」という絶対原則だ。しかし、今回、新潮社はその大原則を捨てた。「百人いれば、百人の読み方」があり、そして、どんな読み方をしようと、その人の自由であり、言論と表現の自由と共に、その思想空間もまた保証されるべきものである、という根本への理解と使命を「捨てた」のである。
 私は杉田論文を読んで、前述のように杉田氏が、「少子化無策」に対して、あるいは、それへの支援に度が過ぎている行政や、それをアト押しするマスコミに対して激しい怒りを持っている人物だと思ったが、「LGBTへの差別主義者だ」とは思わなかった。
 しかし、それは「百人いれば、百人の読み方がある」という通り、私だけの感じ方であり、人に強要するつもりも、同意を求めるつもりもない。それは、私の自由だからだ。言論と表現の自由が守られている日本では、自由闊達にLGBTのことも議論すればいいだけのことである。
 だが、「これはLGBTへの差別だ」と声を上げ、その自由な言論空間を圧殺しようとする勢力に、新潮社は「白旗」を掲げてしまった。かつて、どんな圧力にも負けない毅然とした社風を誇った新潮社。その中で思いっきり仕事をさせてもらった私には、「なぜ新潮社はこうも見識を失ったのか」と思うだけである。
 前回のブログでも書いたように、非難の風を真っ向から受けることを恐れない新潮社には、多くのエピソードがある。元週刊文春の名物編集長、花田紀凱氏と昨年12月に出した対談本『週刊文春と週刊新潮 闘うメディアの全内幕』(PHP新書)でも、そのうちのいくつかを紹介させてもらった。
 1997年、神戸の酒鬼薔薇事件でFOCUSが犯人の少年の顔写真を掲載して新潮社が日本中からバッシングを受け、店頭からFOCUSばかりか、週刊新潮まですべて撤去されたことがある。
 児童文学作家の灰谷健次郎氏をはじめ、作家が作品を新潮社から引き上げる騒動に発展し、社内でも、今回と同様、出版部の編集者を中心に「大批判が巻き起こった」ものである。
 しかし、その頃の新潮社には、元週刊新潮編集長・山田彦彌氏、元FOCUS編集長・後藤章夫氏という編集出身の両常務がおり、外部の作家に動かされて安っぽい正義感を振りかざす編集者たちを二人が“一喝”して、いささかの揺らぎも外部に見せることはなかった。
 言論や表現の自由は、それ自体が民主主義国家の「根本」であり、たとえ反対する人間や政治勢力が大きかろうと、それをどこまでも守らなければならないという「毅然とした姿勢」が会社に貫かれていたのである。
 今回、社内で「外部に向かっての謝罪」を要求する編集者たちの突き上げを食らって、役員たちが右往左往し、ついには、「休刊」という恥ずべき手段をとったことに対して、私は、ただただ呆れるだけである。
 新潮社の幹部の中には、自分で判断することもできず、外部の執筆者に相談して、「謝罪の上、新潮45を廃刊にするのが適当でしょう」とアドバイスされ、そのことをご丁寧にツイッターで「暴露」までされていた人がいた。
 私が気になるのは、新潮社の社員がツイッターで、あるいは、外部のマスコミで、自らを「自分は差別主義者ではない」という安全地帯に置き、「言論・表現の自由」の重さも自覚しないまま、綺麗事(きれいごと)の発信や発言をつづけている人間がいることである。
 彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
 言論・表現の自由がいかに大切かということの本質を、18世紀に生きたこのヴォルテールは語っている。要は、たとえ自分の意見とは違っていても、その人の言論や思想は守らなければならないということであり、それは同時に、既述のように「百人いれば、百人の読み方がある」ということを認める、ということでもある。
 言論と表現の自由が守られている日本では、LGBTのことも、今後、自由闊達に議論していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するような風潮をつくってしまった。
 世の中に対して「超然」としていた新潮社がその矜持を捨てた今、日本のジャーナリズムが、大いなる危機に立っていることを感じる。
 嬉々として今回の事件を論評する新聞の社説や記事を読むと、暗澹(あんたん)とさせられる。しかし、圧力に屈しない毅然としたジャーナリズムの本来の道を、微力ではあるが、これからも進みたいし、守っていきたいと心から願う。

 ◎上記事は[BLOGOS]からの転載・引用です *強調(=太字)は来栖
---------------
〈来栖の独白 2018.9.28 Fri〉
 長い歳月を経て、門田隆将氏のもの(上記)を読んだ。「新潮45」休刊につき様々に考えコラムを読む中で、門田氏のコラムに出会ったのだった。私の考えに近かった。
 休刊は、してはならないことだと思う。様々な意見があってよい。その意見を戦わせる「場」が必要なのだ。その場を無くしてはいけない。
 門田隆将氏の『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮文庫)を読んだのは、2006年8月の事だった。読んだと云っても、その本を購入した主要な目的であった[第11章 光市母子殺人被害者「本村洋氏」の闘い]は、その僅か3頁めで胸が痞え、読めなくなった。そこには、被告(現在は死刑囚)の実名が書かれていた。事件当時、少年であったのに。私は目を疑い、門田隆将という著者を唾棄したい気持に襲われた。
 もはや12年も以前の事である。
...............


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。