【介護社会】
<俺しかおらんのや>(1) 妻の命、この手で
中日新聞2009年12月9日
白無垢(むく)姿で澄まし顔の花嫁の隣で、スーツの新郎はかしこまった表情を浮かべていた。色あせたカラー写真に納まった一組のカップル。1971(昭和46)年、三重県四日市市のスタジオで撮影されたその写真は、幸せに満ちた2人の時間を切り取っていた。
「もう会えんのか」
三十数年ぶりに対面した初々しい姿を、男性はじっと見つめた。七三分けになで付けられていた頭髪はすっかり薄くなり、61歳という実年齢より老けて見られることも少なくないという。
ことし5月、ほぼ寝たきりの妻=当時(56)=を死なせた。承諾殺人の罪に問われたが「長年にわたる介護で精神的疲労があった」と、裁判所は執行猶予付きの温情判決を言い渡した。
釈放され4カ月ぶりに戻ったわが家。4畳半と6畳の2間だけの家がやけに広く感じた。「ただいま」。返ってくるはずのない「おかえり」の声に思わず耳を澄ましていた。
4つ下の妻とは40年ほど前、互いの郷里宮崎県で知り合い、一足先に働きに出ていた四日市市に呼び寄せた。働きづめで、式を挙げる金も暇もない結婚当初。「写真だけは撮っとかないかん」という知人の忠告で、街なかの写真館で記念の写真を撮った。一男一女をもうけ、高度成長の時代を2人で懸命に生きてきた。
バブル時代、とび職だった男性の手取りは月40万~50万円に上るほどだったが、世界的な不況にあおられたことし3月末、20年間勤めた会社を解雇された。最後にあてにしていた職場にも就職を断られた。
通帳を見つめると「葬式代をのけたらいくらも残らん」。ベッドの妻に語りかけた。
「もうどうする、おかあさん、あの子のところいくか」
それは9年前、病死した祖母の後を追うように自殺した高校生の長男。妻は決断をゆだねるように自分を指さした。生活保護の申請も、嫁ぎ先から日々顔を見せる娘への相談も「まったく思い浮かばなかった」。働きづめの人生が導いた唯一の答え。妻も同じ気持ちと受け止めた。
「働かんとお金もらうてそんな、自分であかんちゅうか、そんな感じがあったな」
雨の夜、妻の首にビニールひもを掛けた。「今から行くよ。ごめんな」。妻がうなずいた。夢中だった。
「今度は自分の番や」
自家用車の助手席で、自分の首にビニールひもを巻いた。救急車のサイレンが聞こえてきた。妻に手をかける直前、電話で「もう死ぬしかない」と伝えた遠方の姉が通報したのだろうか。
遠のく意識の中で聞いたサイレンの音が、今も耳の奥に残っている。
◇ ◇
仕事一筋で趣味は家での晩酌。団塊世代の人生は還暦を過ぎ、妻の介護と不況の追い打ちに、もろくも崩れた。四日市市で、元とび職の夫が10年間にわたる介護の末、妻と心中を図った事件。介護を決意した夫は「俺しかおらんのや」と親族に語っていた。責任を一身に背負う夫は、周囲に助けを求めることができなかった。事件の背景を追う。