オウム教祖、麻原彰晃の「神格化」を止める手立てはない 「殉教者」とされる可能性が・・・

2018-04-17 | オウム真理教事件

「グルが神になる日」死刑執行秒読みの波紋 
 オウム真理教をめぐる一連の事件で、死刑が確定した教祖、麻原彰晃(本名・松本智津夫)ら13人の死刑執行が秒読み段階に入った。執行には慎重論も根強いが、その最たる理由は「教祖麻原の神格化」である。グルが神になる日はやって来るのか。議論の核心を読む。

オウム教祖、麻原彰晃の「神格化」を止める手立てはない
2018/04/16 06:03 小島伸之(上越教育大教授)
 今年1月、最高裁がオウム真理教の元信者、高橋克也の上告棄却を決定したことをもって(無期懲役確定)、オウムによる一連の事件(坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件)に関する刑事裁判がすべて終結した。
 共犯者全員の裁判が終了し刑が確定してから死刑囚の死刑が執行される慣例があるが、高橋の裁判が終結したことにより、オウム真理教事件における死刑囚の刑の執行が可能となった。
 3月14~15日には、教祖麻原彰晃こと松本智津夫をはじめとする13人の死刑囚のうち中川智正・新実智光・林(現:小池)泰男・早川紀代秀・井上嘉浩・横山真人・岡崎(現:宮前)一明の7人が東京拘置所から死刑の執行が可能な大阪・名古屋・仙台・広島・福岡の各拘置所・支所に移送された。
 その移送が共犯死刑囚における死刑の同日執行の慣例を前提に、オウム真理教死刑囚の同日執行に備えるものであるという推測から、いよいよ近づいているとの見方が広まっている。
 近代以降の日本において法と新宗教の摩擦の例は枚挙にいとまがなく、刑事裁判において有罪判決を受けた宗教者は多数存在するが、宗教の創始者(教祖)の死刑判決及びその執行の例は、ほとんどない。
 著名教団創始者の死として、1945年の創価学会創始者、牧口常三郎の獄死を想起する向きもあるかもしれないが、牧口の死は治安維持法違反並びに不敬罪裁判中の栄養失調による獄中死である。
 小規模な宗教集団においては、死者6人を出した1995年の福島悪魔祓い殺人事件の主犯とされた祈祷師、江藤幸子の死刑が2012年に執行された例はあるが、一定規模以上に教勢を伸ばして社会的に知られた教団の教祖が死刑判決を受けた例はオウム真理教事件以外には存在しない。
 このことは無差別テロを含むオウム真理教による一連の犯罪が近代史上においても稀有な例であることを示すものでもある。
 他の先進国(共産主義国を除く)に目を向けても、教祖の死刑は、アメリカのカルト集団「ファミリー(マンソン・ファミリー)」指導者チャールズ・ミルズ・マンソンが1972年に死刑判決を受けた例(死刑制度廃止により終身刑に減刑後、2017年獄中死)がある。そして、同じくアメリカのモルモン系カルト小集団の教祖ジェフリー・ラングレンが1990年に死刑判決を受けた例(2006年執行)など、少数が目にとまる程度である。
 また、1844年に起きた末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の創設者ジョセフ・スミス・ジュニアの死は、反逆罪容疑での収監中に暴徒に襲撃されて死亡したものである。
 さらに、第二次世界大戦後に世界を驚かせた宗教集団教祖の衝撃的な死としては、1978年の人民寺院の創設者ジェームズ・ウォーレン・“ジム”・ジョーンズ、1997年の「ヘヴンズ・ゲート」(UFOを信仰するカルト)創設者のマーシャル・アップルホワイトの死などが知られているが、いずれも信者を巻き込んだ集団自殺によるものであった。
 1993年のセブンスデー・アドヴェンチスト分派の「ブランチ・ダビディアン」の教祖、デビッド・コレシュ(本名:バーノン・パウエル)の例も教団の武装化に対する強制捜査中の火災による焼死だった。
 また、2010年のカナダのカトリック系カルト集団「アント・ヒル・キッズ」の教祖、ロック・タリオの死は、終身刑で服役中に獄中で他の囚人により殺害されたものであり、いずれも死刑によるものではない。
 つまり、仮に麻原の死刑が執行された場合、一定規模以上の宗教集団の教祖に対する死刑執行という点で、近代先進諸国の歴史上においても稀有(けう)な機会が到来することになる。
 こうしたことから、来るべき麻原の死刑執行が、オウム後継団体などの信者らによる麻原らの神格化をもたらすのではないか、また、報復的テロ活動や死刑執行前の教祖奪還に向けた実力行使が生じるのではないかという懸念の声が上がっている。
 たしかに、そのような可能性は否定できないであろう。しかし、そうしたリスクをもって、麻原らの死刑執行を回避するとすれば、つまり「教祖」がゆえに死刑執行を慎重にするならば、逆に「教祖」の死刑執行が宗教集団の指導者であるがゆえに早められるような事態と同様、法の下の平等の観点から問題が生じることになる。
 ただ、オウム真理教に関しては、國松孝次警察庁長官狙撃事件など未解決の「謎」も残っている。もし、死刑囚らからそうした「謎」に関する有益な社会的・国家的情報が得られる機会があったとすれば、これまでに高度な政治的・行政的判断として「司法取引的手法」が用いられたかもしれない。
 しかし、今日に至る、長期にわたる裁判などの経過を踏まえれば、現段階で改めて有用な情報が得られる可能性は高くないように思われる。
 また死刑廃止論の観点から、今回の事件を「利用」する論調にも与すべきではない。制度としての死刑廃止の是非は、今回の死刑執行が伴うリスクとは切り離して、立法論的に検討すべきであろう。
 再審請求中の死刑囚の権利保護に関する国際法的な視点はひとまず措くとすれば、死刑廃止論を、現行法を前提に振りかざすことは立憲主義(死刑制度は判例上合憲とされている)や法治主義の重視とは相容れない。
 残る問題は麻原が心神喪失の状態にあるか否かである。これまで、拘置所における麻原の異常行動が報じられてきたが、それが詐病か否かについて判断する具体的で確かな情報を得る手段は、我々には存在しない。
 最終的には法務省の判断によることになるが、仮に麻原が心神喪失の状態にあるとされれば、刑事訴訟法上彼の死刑執行は停止される。13人という共犯死刑囚の多さも関わり、共犯者同時執行の「原則」をこの場合あてはめないとしても、麻原を除外して他の共犯者のみの死刑を執行することが、事件の性質上妥当なのか否かという判断の余地は残る。 麻原が心神喪失状態にないとすれば、オウム死刑囚の死刑執行に対する法的障壁はないことになる。執行に伴って懸念される報復テロや教祖奪還の違法活動の可能性に対しては、警戒警備を厳にすることによって対応するより他ないであろう。
 ただ、後継団体などの信者による麻原らの死刑執行後の神格化については、それは人間の内心の自由に属する領域に関する事柄であり、神格化を他律的に防ぐ手段はそもそも存在しない。
 さらに言えば、麻原らの死刑が仮に今後も執行されず、後に彼が老衰や病気によって獄死したとしても、「殉教者」とされる可能性がゼロになるわけではない。我々の社会が自由な社会であるためには、神格化の可能性とそれに伴う社会的リスクを警戒しつつも許容するしかないのである。(敬称略)

 ◎上記事は[IRONNA]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2018.4.16 Mon〉
 今頃になって気付いた。私は、オウム真理教について何も知らなかった。地下鉄サリン事件などについては少しは知っているが、オウム真理教という宗教の教理、教義について、皆目知らない。こんなことではいけない。数多くの若者、とびきり優秀な若者が道を求め、それに応えた教団であった。彼ら、真理を求めた彼らを魅了した教理とは、どんなものだったのか。麻原彰晃という教祖は、どのような道を説いたのか。私は何も知らず、事件のみで教団を捉えていた。
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死刑執行後「教祖麻原の遺骨」=教団にとって、宗教上有力な武器 誰が引き取るのか  
麻原彰晃を「不死の救世主」にしてはならない 上祐史浩(「ひかりの輪」代表) 2018/04/16
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1 コメント

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世界終末論と新興宗教 (あやか)
2018-04-17 18:23:37
麻原教祖の死後、残党たちによって神格化される事はあり得るでしょう。しかし、私たちに出来ることは「あなたがたの思想は間違っていますよ」と、根気よく彼らに言うしかないと思います。また、政府は躊躇することなく麻原教祖たちを処刑すればよいと思います。
 宗教の教祖が処刑されたことは、近代国家ではほとんどないと言うことらしいですが、かまいません。
日本は、『偽りの宗教』には毅然とした態度を取る、ということを世界に宣言すればいいのです。

私は、オウム真理教の教義については、よくわかりませんが、だいたいの事は推測できます。
たぶん彼らの信仰?は、『世界終末論と、そこからの救済論』だと思います。
つまり、『近い将来、世界は(神の怒りにより)滅亡し、人類の大半は死に絶え、ただ自分たちの「宗教」を信じる者だけが生き残って、この世に「地上の神の王国」が建立される』という思想です。
このような教義の新興宗教は沢山ありますが、もちろん、教義として述べるだけなら違法ではありません。
ただし、オウム真理教の場合は、「サリンを散布することによって」、強引に「世界の終末」を実現しようとしたんですね。当然、破壊行為であり、凶悪犯罪です。!!

 ただし、私は、法律的犯罪はしていなくても、「世界終末論と地上の神の王国論」をのべる宗教は、健全な宗教ではないと思います。。。。あきらかに、市民的理性から逸脱しています。
 何が「健全な宗教」かと言うと、私にも断言はできませんが、
やはり、「国民としての伝統や市民倫理を大切にし、ひたすら謙遜な態度で、信仰による人格形成をめざす事」ではないでしょうか?

たとえば、「新約聖書」の「ルカによる福音書」や「パウロやペテロなどの書簡集」
は、そのような健全な信仰に貫かれていると思います。(私がいうのも、おこがましいかも知れませんが。。。)
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