小沢氏不起訴は相当 類い稀なるポピュリズム「検察審査会」=実にくだらないもの

2010-05-21 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

小沢氏を再び不起訴 東京地検
日経新聞2010/5/21 17:17
 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る事件で、政治資金規正法違反容疑で小沢氏を再捜査していた東京地検特捜部は21日、再び不起訴処分とした。再捜査で小沢氏本人や元秘書3人から再聴取するなどした結果、政治資金収支報告書の虚偽記入について、小沢氏と元秘書らとの共謀を裏付ける証拠はないと判断したとみられる。
 小沢氏の不起訴は今年2月に続き2回目。不起訴を受けて、東京第5検察審査会が2度目の審査に入る。検察審が再び「起訴すべき」と議決すれば、裁判所が指定する弁護士が強制的に起訴する。今後は、検察審の再度の判断が焦点となる。
 同事件で特捜部は2月、衆院議員、石川知裕被告(36)ら小沢氏の元秘書3人を規正法違反(虚偽記入)罪で起訴。一方で、小沢氏を嫌疑不十分で不起訴処分とした。その後、検察審査会が今年4月、小沢氏を「起訴すべき」と議決していた。
 特捜部は今月15日から18日にかけ、小沢氏本人や石川議員、元会計責任者の大久保隆規被告(48)、元会計事務担当者の池田光智被告(32)から再聴取していた。
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郷原信郎:小沢幹事長再度の不起訴処分について
5月21日コンプライアンス研究センター長定例記者レク
 今日、小沢氏の再度先ほどネットのニュースで不起訴処分が出たということが報じられていました。
 今回の検察審査会の起訴相当議決を受けて、検察が再捜査をした末にどういう処分を行なうかに関して、再度の不起訴処分になることは確実だと思っていました。同じ不起訴でも起訴猶予の場合と嫌疑不十分の場合とは全然意味が違うわけです。犯罪事実は認められるが、情状を考慮して起訴を猶予すべきだという検察の判断について検察審査会がそれは不当だと、起訴すべきだと言った場合には、そういう意見を受け入れて、処分を見直す余地は十分にあるわけですが、嫌疑不十分ということで不起訴にしたということは、検察としては起訴するに足る証拠がないと判断したわけで、それと基本的に同じ証拠関係のままであれば、起訴するという判断は同じ検察の判断としてはあり得ないわけです。ですから、関係者の再度の事情聴取を行なって、基本的に証拠関係は変わらないということで不起訴になった。当然の結果だと思います。
 問題は、依然としてあまり新聞、テレビなどでは報じられてないのですが、検察審査会の議決で起訴相当とされた被疑事実というのが、当初の検察の捜査で焦点になっていた収入の問題、小沢氏個人から4億円の現金が陸山会に入った、その4億円について収支報告書に記載されていないという問題ではなく、不動産の取得時期と代金の支払の時期について、実際とは2カ月半ずれた記載が行なわれているという期ズレの問題を起訴相当としたにすぎないということです。
 今後、検察の不起訴処分を受けて、検察審査会がまた再度審査を行なうことになるわけですが、そこでは1回目の検察審査会の議決で起訴相当とされた事実が期ズレ問題に過ぎないということがまさにポイントになるんじゃないかと思います。ここをきちんと報じていただかないと、今回の再度の検察審査会の審査において何が焦点になるのか、何が重要なのかというところが世の中に理解されないのではないかと思います。
 今後、検察審査会で2回目の審査が行なわれますが、その審査の対象は当然この期ズレの問題です。検察審査会がほかの事実について、検察が石川議員を起訴した収入面の問題とか、そういったことについて審議するのは、それは勝手ですけれども、それは1回目で起訴相当とされてないので、仮にそれについて起訴相当だと言ったとしても、2回の起訴相当議決が出たということになりません。強制起訴になりません。ですから、この件についていろいろ新聞、テレビなどで騒がれている2回の起訴相当で強制起訴になるとすれば、1回目と同じように、この期ズレの問題......不動産の取得時期と代金の支払の時期が2カ月余りずれていたという問題について、もう1回検察審査会が起訴相当の議決をする、ということしかあり得ないわけです。
 そうなると、検察審査会のそういう判断の前提として、政治資金規正法というのはどういう目的の法律で、政治資金規正法で裁かれる、処罰されるべき行為はどういうことなのかということをしっかり理解した上で審査員の人たちが起訴すべきかどうことを判断してもらう必要があります。第1回目の審査では明らかにその点の理解が不十分だったわけです。ですから、この次の検察審査会の審査の中ではそこの点についてしっかりとした説明が補助弁護士から、そして検察官の側からきちんと行なわれるかどうかというところが重要です。
 当然のことなんですが、政治資金規正法が目的としている政治資金の収支の公開というのは、そこで公開すべきものは何なのか、何が一番重要なことなのかと言えば、それはその政治家や政党の政治資金がいったい誰の資金によってあるいはどういう企業の資金の提供によって賄われているのかということ。そして、その資金がどのように使われているのか。それは政治資金規正法上、収支の公開の対象になるべきもっとも重要な事実です。ですから、それらの点について公開すべき事実を隠しているとか、ウソを書いているということであれば、あえて罰則を適用してまで厳しい処罰をするべき事件ということが言えるわけです。
 私がこの件について以前からずっと指摘してきたように、そもそもこの4億円の収入の不記載ということ自体も、これがほんとに不記載なのかどうかということも問題ですが、仮にそれが不記載であったとしても、身内のお金がぐるぐるっと陸山会との間で回った、あるいは出たり入ったりしたというだけのことであって、どこかの企業とか、どこかの個人から政治資金の提供を受けていたことを隠したということじゃないかぎり、それ自体悪質な政治資金規正法違反で罰則の適用の対象とは言えないわけです。
 ましてや、不動産を取得したことも、代金を支払ったということも収支報告書に書いているのに、その時期がたった2カ月余りずれたということだけであれば、これに対して罰則を適用すべきだという判断は常識ではあり得ません。その辺がきちんと検察審査会の審査員に理解してもらえるような説明を補助弁護士も検察官も行なわないといけないと思います。検察官は当然、今回はしっかりとした説明を行なうと思います。前回は少しその説明が不十分だった可能性がありますが、今回は改めてきちんと基本的なところから説明すると思いますが、どうもこの前の議決のときの補助弁護士さんは、あまりそのところが理解されてなかったんじゃないかと思えるような議決の内容でした。今回はもっとしっかり政治資金規正法を理解されている弁護士が補助弁護士として関わる必要があるんじゃないかと思います。
 今回の検察の不起訴処分でどういう事実が対象とされたのか。そこがほとんど報道されていないのですが、一回目の検察審査会の議決で起訴相当としたのが期ズレ問題だけですから、期ズレの点についてだけしか今回の不起訴処分の対象になっていないはずです。検審で起訴相当とされた被疑事実について再捜査すればいいわけですから。そうだとすると、2回目の検察審査会は、検察が再度不起訴にしたことに対する再度の審査だから、今度は期ズレの問題についてだけ審理することになります。その期ズレが起訴相当だと言うんであれば、それは起訴強制になるでしょう。しかし、それは常識では考えられない。それだけの問題だと思います。
 そういう、今後の検察審査会の審査のポイントがなぜきちんと報じられないのか。まったくわかりません。報じるのが当然のことを報じないというのは、これまで、企業不祥事などで、マスコミが企業の追及にさんざん使ってきた「消極的な隠蔽」そのものじゃないですか。重要な事実を、真実を、報道する、伝える義務があるのに、それを何らかの意図で、敢えて報じないとすると、それは隠蔽そのものでしょう。

 この問題に関連して、小沢氏側が検察審査会に対して上申書を提出することを検討しているということが報じられていますが、法律上は、上申書の提出というのは定められてないと思いますが、上申書が提出されれば、それを検察審査会の審査員の人たちに読んでもらい、被疑者側の言い分も十分に理解した上で、議決をしてもらうということ。これはある意味では必要なことだし、そういうふうに上申書が取扱われることを否定する理由はまったくないと思います。
 以前のように、検察審査会の議決に法的拘束力がないという、そういう時代であれば、検察審査会の議決というのはあくまで検察官の処分が適切であったかどうか、正当であったかどうかということを判断するだけですから、その審査の中で被疑者側が「ああしてくれ」「こうしてくれ」ということを口に出す余地は本来ないという考え方も十分あり得たと思います。しかし、検察審査会法の改正で今は検察審査会の2回の議決で強制起訴になるということで、まったくその法的効果が違ったものになっているわけですから、そういうような効果を本当に生じさせてもいいのかどうかということについて、被疑者側の言い分が上申書という形で出ているのであれば、それを審査員の方々にもちゃんと読んでもらうというのは必要なことじゃないかと思います。
 1つの考え方としては、あくまで推定無罪なんだし、裁判にかけられたって有罪かどうかは最後は裁判で決まるんだから、そのときに裁判所で言えばいいじゃないか、上申書なんて、そんな早い段階で検審に出す必要ないじゃないか、という考え方もあり得ると思います。しかし、日本では少なくともこれまで公訴権、起訴の権限を検察官が独占していることが前提でしたが、起訴をされるということが非常に大きな意味を持って、それ自体で政治的、社会的にも被疑者、被告人が大きなダメージを受けるということが今まで刑事司法においてずっと続いてきたわけです。それが今回ももし起訴強制となったときには、これは検察官の起訴じゃないから、検審の議決による起訴だから、そんなものは結論はまだまだ先に出るんだと。裁判が続いている間はあんまりそういう先走ったものの見方はしないようにしよう、というふうに世の中が受け止めるかといったら、おそらくそうじゃないと思うんです。
 今の状況からすると、起訴強制ということになった段階で、そのこと自体で結論が出たような扱いをする、ほとんど推定無罪......無罪の推定が働かないような、そんな世の中の論調にならないともかぎらないし、その可能性が強い。そうだとすれば、この検察審査会の審査の場で被疑者側の言い分、主張も十分に踏まえた判断をしてもらうというのは、ある意味ではバランス上重要なことではないかと思います。
 そういった検察審査会での補助弁護士などの説明や検察官の説明、そして一方で被疑者側の上申書などが出されたりしたとすると、そういったものを踏まえて最終的に検察審査会の審査がもう一回行なわれて、その結果、起訴相当の議決が出るのか、それとも今回は不起訴が相当ということで収まるのか、ということが今後最大のポイントになってくるわけです。
 その点に関しては一つ、ちょっと問題があるんじゃないかなと思えるのが、今回の検察審査会の第1回目の議決が11対0だったということが、議決が出た日に早々と報道されているということです。私はこれは非常に問題なんじゃないかと思います。裁判員制度で言えば、3人の裁判官と6人の裁判員がいったいどういう評決をしたのか、有罪の評決したか、無罪の評決をしたか、死刑が相当だと言ったか、無期でいいと言ったかという、そういう評決の中身は絶対に表に出ないこととされて、厳重な守秘義務が課されているわけですが、それは検察審査会も同様です。
 それが今回のように11対0だということが、こんな早々と表に出てしまうと、この検察審査会の審査員が今回、この11人のうちの6人は交代して5人が残ったということになるとこの次、検察審査会の新たな11人による審査が行なわれるときに、元からのメンバーの5人は、これは全員起訴相当意見だということが全部わかってしまいます。これは改めて白紙から11人みんなで対等の立場で議論をしようとする場合には、非常に大きな支障になるんじゃないかと思います。そういう意味で、この検察審査会の審査の中身、その意見の内訳についての秘密というのはしっかり守られる必要があるのであって、こんなものが議決の当日に出てしまうというのは、とんでもないことだと思います。

 類い稀なるポピュリズム「検察審査会」=実にくだらないもの 

今週のポピュリズム〜「絶対権力者」と「市民目線」<その1>
宮崎学 2010-05-03 (月) 13:45
 平成22年4月27日に議決された小沢一郎民主党幹事長に対する東京第5検察審議会の決定は、類い稀なる「ポピュリズム」であった。
 同審査会が発表した「議決の理由」の中には、次のように書かれている。
「絶対権力者(筆者注:小沢一郎氏のこと)である被疑者に無断でA・B・C(筆者注:逮捕された元秘書等の関係者)らが本件のような資金の流れの隠蔽工作等をする必
要も理由もない。」
さらに「近時、『政治家とカネ』にまつわる政治不信が高まっている状況下にあり、市民目線からは許し難い。」
 この「絶対権力者」、「市民目線」という二つの言葉を私はポピュリズム的表現の最たるものと考える。
 そもそも、検察審査会なる制度は、時によっては、その対象となる人物の自由を束縛する可能性を持つ決定を行うことのある制度である。
 個人の自由を制限する決定を行う際は、当然のことながら、予断や偏見を極限まで排除すること、感情に流されないことが原則となる。そうでなければ、リンチを容認するのと等しい制度となるからである。
 さて、中世のヨーロッパでもあるまいに「絶対権力者」というような時代錯誤のレッテルを貼ったり、「市民目線」というポピュリズムむき出しの表現によって示される「世間」への迎合を「自白」するような空疎な内実がこの議決である。そしてそれがこの社会を動かそうとしている。
 ところで「市民目線」が貫徹した社会とは一体どのような社会なのだろうか。それは個性が徹底的に排除されたデオドラントで無機質な社会のことである。ところがこの自明の理とも言える今回の「議決」に見られる「言葉」の羅列を批判することもなく容認する空気がある。
 この国と社会は実にくだらないものとなった。
今週のポピュリズム~「絶対権力者」と「市民目線」<その2>
宮崎学 2010-05-10 (月) 16:04
 検察審議会が小沢一郎氏に対して行った議決が、根底的な誤謬を含むものであることは前回指摘した。
 今回は、検察審査会のこの見え透いた根本的な誤謬を何故、誰もが批判できないのかという問題を考えたい。
 それは、この国の成り立ちと深く関わるところがあると私は考える。
 2006年1月22日付の朝日新聞紙上で、柄谷行人は、私の著書の評者として次のようなことを書いている。
(中略)
 『通常、社会は、個別社会の掟で運営されており、掟ではカバーできないときに法が出てくる。ところが日本社会では、そういう関係が成り立たない。掟をもった自治的な個別社会が希薄であるからだ。著者によれば、その原因は、日本が明治以後、封建時代にあった自治的な個別社会を全面的に解体し、人々をすべて「全体社会」に吸収することによって、急速な近代化をとげたことにある。
 ヨーロッパでは、近代化は自治都市、協同組合、その他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。社会とはそうした個別社会のネットワークであり、それが国家と区別されるのは当然である。しかるに、日本では個別社会が弱いため、社会がそのまま国家となっている。そして、日本人を支配しているのは、法でも掟でもなく、正体不明の「世間」という規範である。』
 この「世間」という、あいまいなものがこの国を支配している、だからこそ、「市民目線」という言葉に適格な批判的反応ができないのである。
そして問題なのは、この検察審査会の議決が反小沢、反民主党のメディア・スクラムの主柱の一つとなっていることである。
 次週では、「沖縄問題」をめぐるポピュリズムについて考えることとする。


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