【介護社会】<たすけ合い戦記> (1)「施設造る」妻の決断 (2)心のケア、自身重ね

2010-01-03 | 社会

【介護社会】
<たすけ合い戦記>(1) 「施設造る」妻の決断
中日新聞2010年1月1日
 かつて一家4人が夕食を囲んだテーブルで、2人だけの話し合いが始まった。
 「お父さんのためにも施設を造りたいの。協力して」。2007年夏、医師の原智紀(32)が岐阜県富加町の実家に帰省すると、母・美代子(62)の決意表明が待っていた。父・孝幸(60)の介護を任せきりにしていることに後ろめたさを感じつつも、「素人には無理だ」。美代子も「助け合うのが家族でしょう」と譲らない。
 激論からほどなく、美代子は独断で小規模多機能型居宅介護施設の設計図を発注。智紀が勤務する大学病院の医局の上司に「親子で施設を開きたい」と手紙も送り付けた。図面を見せられた智紀も「分かった。やるよ」。母の気迫に根負けだった。
 今春、隣町の同県関市郊外に「恵みケアセンター」とグループホーム「恵みハウス」がオープンする。施設長は長年夫を介護してきた美代子。長男の智紀は運営団体の理事長になり、施設の隣に診療所を開く。
 養護教諭だった美代子の生活は02年、会社員の孝幸が脳梗塞(こうそく)で倒れて一変。社会復帰した直後に襲った脳内出血で孝幸は言葉も失い、寝たきりとなった。
 夫の入院先。以前勤めた小学校の元校長とばったり顔を合わせた。寝たきりの妻を抱える元校長がぽつりと言った。「ここに何年いられるか。次の施設を探すのが大変だ」。その意味を美代子も思い知らされた。
 美代子がリハビリを続けたくても、孝幸の症状に改善が見られなければ転院を促された。なぜ移らなければいけないのかよく分からないまま、病院と施設計5カ所を転々。頼みの綱の特別養護老人ホームは待機者がいっぱいで、いつまでたっても夫に終(つい)の棲家(すみか)を見つけてあげられなかった。
 「ずっと居られる施設が近くにあればどんなに助かるか」
 素朴な思いが、やがて自ら地域密着型の介護施設をつくり、孝幸を受け入れるという夢にたどり着く。大冒険の背中を押したのは、夫のひと言だった。
 ある日、テレビで雪のニュースが流れ、孝幸が急に泣き始めた。美代子があ行から発声し、右手が動く孝幸に合図してもらうのが夫婦の会話。浮かんだ言葉は「ふ・ゆ・た・い・や・に・か・え・よ」。一家のタイヤ交換はずっと夫の役割で、それができない悔し涙と分かった。「こんな状態でも家族を心配してくれるのね」。夫への尊敬が、勇気を与えてくれた。
 手元には孝幸が障害者になって下りた保険金。そこに、銀行から借金し、夢を実現する。1人の介護者から事業者へ。もう後戻りできない。
 孝幸は今、家から車で40分離れた同県可児市の介護施設で暮らす。美代子は開業準備をしながら毎日通い、励ましたり身の回りの世話をしたりする。「施設のオープンが楽しみ?」と問い掛けた夜。家族の元へ戻る日を待ちわびる夫は、ためらわず「YES」の右手を上げた。 (文中敬称略)
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 介護保険制度が導入された2000年から、10年間で介護殺人や心中事件は400件を超えた。家族のきずなが薄れ、その果ての孤独が招く悲劇は人ごとではない。介護の「介」には、両側からたすける、という意味がある。戦場のような介護の現場でも、独りではないことに気づき、介(たす)け合い、護(まも)り合っていく人たちの姿があった。それぞれの「戦記」を紹介する。
 連載にご意見をお寄せください。〒460 8511(住所不要)中日新聞「介護社会」取材班。ファクス052(201)4331。Eメール shakai@chunichi.co.jp
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【介護社会】
<たすけ合い戦記>(2) 心のケア、自身重ね
中日新聞2010年1月3日
 若年性のアルツハイマー病を患い、介護を15年間続けてきた母が昨年12月に亡くなった。
 認知症介護研究・研修大府センター(愛知県大府市)研究員の鈴木亮子(43)は空っぽになった心のまま、研究者を志す転機となった自らの修士論文を読み返した。
 認知症介護者の心理過程を追うため、インタビューした女性たち。「いっぱい勉強させてくれた」「後悔はない」。夫や母をみとった心からの感謝。すがすがしい表情が脳裏によみがえった。
 まだ、そんな心境にはなれない。ただ、愛する家族が家族でなくなっていく苦しみを持つ人に、今なら寄り添うことができる。
 母が発症した当時、鈴木は20代。ごく普通の会社員だった。50代半ばの母が「誰かが財布を取った」と言うようになった。認知症と診断されたとき「何もかも、終わった」と自分が思った。
 退社を決意し、そこに失恋が重なった。平凡でも幸せな生活、仕事、結婚の機会…。母を奪っていく病気が、自分の人生まで壊していく。ただ、涙が流れた。
 夜中に家を飛び出す徘徊(はいかい)を繰り返すなど、母の症状は急激に悪化した。施設介護に踏み切った後「もう会えないのかと思った」と母は泣いた。自責の苦しみは今も癒えない。
 34歳で大学の編入試験に臨んだ。「いったい何がしたいの」。面接官に答えた。「本当に苦しかったとき、自分の気持ちを整理するために話を聞いてくれる人はいなかった」。だから、私がその人になりたい、と。
 臨床心理士の資格を取り、認知症の患者や介護者の心をケアする研究者になった。母を介護する傍ら、講義や演習、心の相談に取り組む日々を得た。
 研究者になっても、忘れずに心に留めていたことがある。
 失恋直後。隣で眠っていた母が夜中に泣きだした。それが2、3日続いた。「また認知症の症状かな」。そう思いながら尋ねると、何も言っていないのに、分からないはずなのに、声を絞りだした。
 「亮子が、かわいそうだ」
 母が母でなくなった、との絶望の中ではっとした。お母さんは、お母さんなんだ-。
 脳の一部の機能が失われても、感情は最後まで残る。修士論文の女性たちも、肉親の認知症を受け入れるきっかけとなった似たような場面を、宝物のように覚えていた。
 現在、認知症の患者や家族を診る臨床心理士はほとんどいない。介護の制度には、カウンセリングも組み込まれていない。
 ならば、道を開いていこう。導かれるようにここまで来たいまも「心の奥底には、ずっといつもの母がいた」。そのことをはっきりと、苦しむ人たちに伝えられる自分がここにいるから。 (文中敬称略)


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