ニュースは、白柳誠一枢機卿が昨年暮れの30日死去した、と伝えた。一瞬虚を衝かれ、寂しさと取り付く島もないような空虚が私を襲った。
白柳師の死去は、枢機卿というよりも東京大司教でいらした日本カトリック教会の一時代の終焉を告げていた。あの輝かしい時代。白柳大司教がいて相馬司教がいた。カトリック教会が活力に満ちた「躁」の時代だった。
今は、どうか。世界が「鬱」の時代に入ったのと呼応するように、教会も「鬱」の時代にすっぽりと嵌り込んでいる。日本の修道会には若い人の召命がない。どの修道会も高齢者ばかりで、閉鎖や統合が進んでいる。司祭不足のため私の所属する小教区でも、かつては2回あった主日のミサが1回となった。主任司祭のいない教会もある。
作家五木寛之氏はその著『歎異抄の謎』(祥伝社新書)のなかで、次のように云う。
“先日、アメリカ本土の米軍基地で、高級将校が銃を乱射し、数十人の死者と30人以上の負傷者をだしました。オバマ大統領の来日が、そのために延期されたほどの衝撃的な事件でした。
私が気になったのは、その将校が、精神科の軍医だったことです。
2001年9月11日、いわゆる「9・11」以後のアメリカは、まちがいなく鬱の時代に突入しました。ニューヨークにそびえるツインタワー・ビルの崩壊する映像は、はっきりとそのことを世界にしめしたのです。
戦争というものの姿が、あの日以来、一変したといっていい。
それまでの戦争は、いわば「躁の戦争」でした。巨大空母から発進する攻撃機が、爆弾とミサイルの雨をふらせる。圧倒的な火力で敵陣を制圧し、はなばなしく地上戦を戦う。
そんな「躁の戦争」の時代は、もう完全に終わったのです。
あらたに登場したのが「鬱の戦争」です。「鬱の戦争」とは、テロとの戦いのことです。
敵がどこにいるかが見えない。敵は味方のなかにひそんでいるかもしれない。一般市民にまぎれこんでいるかもしれない。
戦車で攻撃するわけにもいかず、核兵器も使えない。疑心暗鬼のなかで、見えない敵と戦うしかない。それが「鬱の戦争」です。テロとゲリラこそ、鬱の時代の戦争の典型的な姿でしょう。
「鬱」の時代は、すべての分野にあらわれてきます。
成長と開発は、「躁の経済」です。それに対して、エコと環境問題は「鬱の経済」にほかなりません。
20世紀は自動車文化(モータリゼーション)の時代でした。スピードとパワーを競うF1レースは、まさに「躁の工学」の象徴でした。トヨタをはじめ日本の有力なメーカーも、次々とF1からの撤退を発表しています。
そしていまやエコカーと、音もなく走る電気自動車が人気を集めています。
航空界では巨大なスーパージャンボから、効率的な中型ジェット旅客機へと業界の視線が移ってきました。”
昨年、司法の世界でも、裁判員裁判やそれを睨んでの公判前整理手続き、被害者参加制度、附帯私訴等、司法改革と云えば聞こえは良いが、「省エネ」という「鬱」の時代が始まった。時間・労力・体力を費やす精密司法から、短期決着を旨とする核心司法へ舵を切った。事件が如何に複雑で重大なものであっても、事件の背景等、被告人の養育環境にまで遡っての原因解明、鑑定は極力省略される。
事件の因ってくるところ(つまり社会や人間)について考え、それを参考に我々人間が未来をどのように生きてゆくのかを考えるよりも、起きてしまった結果を重視し、目の前(被害者参加制度)の感情に応えることが優先されるようになった。命よりも大切なものがある、命をかけて償うことが正義である、と言われるようになった。かつては「命は地球よりも重い」などと言われた命だが、この上なく軽いものとなった。人間存在を軽く扱う「鬱」の時代は、年間3万人超の自殺者を生み続けてもいる。
時代の申し子のような裁判員制度であるが、日本カトリック中央協議会(司教団)も昨年、見ごと鬱的対応で終結させた。
【裁判員制度】聖職者の辞退に理解求める カトリック団体
産経ニュース2009.9.11 14:40
カトリック中央協議会(信者約45万人)は11日、同会で「司教ら聖職者(計約7600人)が裁判員裁判に選ばれた場合は辞退することを勧める」と合意したことについて理解を求める文書を最高裁の竹崎博允長官に提出した。
文書には、裁判員の身分が、世界のカトリック信者共通の“法律”にあたる「教会法」に定められた「聖職者は国家権力の行使にかかわる公職に就くことを禁じる」とする規定に抵触することなどが説明されている。
同会は6月に「聖職者には過料を支払ってでも裁判員裁判に参加しないことを勧める」ことなどを盛り込んだ公式見解を表明していた。一般信者については各自の判断に委ねるという。
躁の時代を過ぎ、すっかり体力がなくなったカトリック官僚の実態を垣間見た気がした。「世界中に福音を宣べ伝えよ」と言われたイエスに背を向け、教会法を楯に保身を決め込んでいる。過去のエントリと重複するが、いま一度考えてみたい。
〔1〕文書によれば、「聖職者」「一般信者」という区分けをしているが、これは妥当か
福音を生きるのに、聖職者・一般信徒の区別などあり得ない。人は、神からの呼びかけによって福音を生きる。神からのものに、区別など存在しない。例えば歎異抄にも、次のような記述がある。
“「聖人の御智慧・才覚ひろくおわしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まったく異なることなし、ただ一つなり」とご返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげれば、法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善心房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、(略)”
(上の部分、五木寛之氏の私訳より)
親鸞さまが「わたしの信心も、法然上人の信心も、同じひとつのものである」とおっしゃったに対し、法然の弟子の中から「いくらなんでも善心房(親鸞)と法然上人との信心が同じだというのはおかしいではないか」と声があがった。親鸞さまはこたえられた。「法然上人の広い知恵や学識と、わたしのそれが同じだなどと申しているのではございません。ただ、仏のちからで浄土に往生させていただく信心についてはまったくことなることはない、と申しているのでございます」上人の前でそれぞれの主張を説明したところ、法然上人はおおせになった。「善心房の申すとおり、両者の信心は同じものである。なぜなら、もともとわたしの信心は、阿弥陀如来から賜ったものだからだ。わたしの信心も、善心房の信心も、ともに阿弥陀如来から賜ったもの。そのことになんのちがいはない。それゆえ、わたしとちがう信心をもつという者は、法然が参ろうとする浄土と同じところへ行くことはまずできないだろう」
〔2〕「教会法」か?イエスのメッセージか?
司教団は裁判員制度への関与につき、「良心的な判断と対応に際しては、以下の公文書を参考にしてください。」として以下を挙げている。
“死刑制度に関して、『カトリック教会のカテキズム』(2267番)では、ヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』(56番)を引用しながら、次のように述べています。「攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました』」。また、日本カトリック司教協議会も、司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持しています。”
裁判員裁判が死刑をも選択しなければならない案件を抱えることを司教団は承知している。ならばなぜ使徒職は、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会」のために、裁判員裁判を福音宣教の場としないのか。
かつて日本カトリック教会をリードした相馬司教の口癖は、「お役にたてるなら」であった。死刑確定を目前にした勝田清孝との縁組に際し、保証人となってくださるようお願いにあがったときも喜んでくださり「俺、役にたっているかな」とおっしゃった。「明日のない人(の命)をもだいじにする、それがマザー・テレサのしたことだ。あんたは、彼女と同じことをしているよ」と、とんでもない(勿体ない)ことまでおっしゃった。相馬司教の信条は、いつも「人の役に立ちたい。小さくされた人の役にたちたい」だった。「役に立ちたい」、それは、イエスの「仕えられるためではなく、仕えるためにきた」とのメッセージそのものだ。
相馬司教を喪った私は、昨年暮れ、またも敬愛する大司教を喪った。混迷の時代、闇が一層その濃さを増した。玄冬である。
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「裁判員制度」について
- 信徒の皆様へ -
日本カトリック司教協議会は、すでに開始された裁判員制度には一定の意義があるとしても、制度そのものの是非を含め、さまざまな議論があることを認識しています。信徒の中には、すでに裁判員の候補者として選出された人もいて、多様な受け止め方があると聞いています。日本カトリック司教協議会は、信徒が裁判員候補者として選ばれた場合、カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考えません。各自がそれぞれの良心に従って対応すべきであると考えます。市民としてキリスト者として積極的に引き受ける方も、不安を抱きながら参加する方もいるでしょう。さらに死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否したい、という方もいるかもしれません。わたしたちはこのような良心的拒否をしようとする方の立場をも尊重します。
2009年6月17日日本カトリック司教協議会
良心的な判断と対応に際しては、以下の公文書を参考にしてください。
1.「信徒は、地上の国の事柄に関してすべての国民が有している自由が自己にも認められる権利を有する。ただし、この自由を行使するとき、自己の行為に福音の精神がみなぎるように留意し、かつ教会の教導権の提示する教えを念頭におくべきである」(教会法第227条)と定められています。また、第二バチカン公会議が示すように教会は、キリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励します。地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の務めです。キリスト教的英知に照らされ、教導職の教えに深く注意を払いながら、自分の役割を引き受けるようにしなければなりません(『現代世界憲章』43番参照)。
しかし裁判員制度にかかわるにあたり、不安やためらいを抱く場合は、教会法212条第2項で「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由を有している」と述べられているように、司牧者に相談することもできます。裁判員として選任された裁判については守秘義務がありますが、裁判員であることや候補者であることを、日常生活で家族や親しい人に話すことは禁止されていません。
2.死刑制度に関して、『カトリック教会のカテキズム』(2267番)では、ヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』(56番)を引用しながら、次のように述べています。「攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました』」。また、日本カトリック司教協議会も、司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持しています。
なお、聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員に対しては、教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる」の規定に従い、次の指示をいたしました。(修道者については第672条、使徒的生活の会の会員については第789条参照)
1.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員の候補者として通知された場合は、原則として調査票・質問票に辞退することを明記して提出するように勧める。
2.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員候補を辞退したにもかかわらず選任された場合は、過料を支払い不参加とすることを勧める。