京アニ放火殺人、青葉被告の再犯防止支援は「やれることはやっていた」のに、なぜ防げなかった? 犯罪学の研究者が語る「刑務所の実情」
京都アニメーション放火殺人事件で36人を死亡させ、死刑判決が下った青葉真司被告(45)。青葉被告が刑事事件を引き起こすのは三度目で、放火殺人事件前は再犯防止施策の対象となり、手厚い支援を受けていた。にもかかわらず、なぜ事件は防げなかったのか。私たちはどんな教訓を引き出せるのか。再犯防止に詳しい立命館大の森久智江教授(犯罪学)に聞くと、コミュニケーションの困難を改善できない刑務所の問題が見えてきた。(共同通信=武田惇志、石井達也、遠藤加寿)
―なぜ青葉被告の再犯を防げなかったのでしょうか。
―どこか問題があったのでしょうか。
再犯防止を考える時、犯罪学の立場からは「犯罪からの離脱」という考え方があります。本人の特性を変えるのではなく、犯罪に至るような生活をしてしまっている背景や経緯を見直し、本人がこの先どういう生活をしたいのか考え直すものです。ただ刑務所に入る刑罰では本人の問題は解決しないのです。
そのため、刑務所の中の生活、処遇のあり方を考え直すべきだと思います。
刑務所は、他者とトラブルになりやすい彼のような「処遇困難者」に対しては、どんどん隔離する方向を採ります。所内での事故を防ぐのに回避的な方策を採らざるを得ないわけです。
それと、必ずしも彼に限った話じゃないですが、刑務所から出てこられた人は、他者と人間関係を築くのに困難を抱える傾向があります。刑務所では雑談もできませんから。ちょっとでも勝手に話をすると、懲罰の対象になってしまう。そうすると通常の人間関係を築くのは、現在の刑務所では難しいと思うんですね。
▽「刑務所太郎」が意味するもの
―刑務所で人間関係を築くのは、それほど難しいのでしょうか?
海外の研究者と話していて、日本の刑務所に関して一番驚かれるのはその点です。「こんなに外の世界とかけ離れた生活をしていて、社会復帰できるのか?」と。
例えば、ある元受刑者と話していた時に聞いたのですが、配偶者からよく怒られるそうなんですね。聞いてみると、彼は何かをするたびに逐一、配偶者に報告しているらしい。「今からトイレに行く」とか「買い物に行く」とか…。刑務所の時に習慣づけられていた行動です。
「刑務所太郎」という言葉がありますけど、それぐらい刑務所の異質な環境になじんでしまう。
島根あさひ社会復帰促進センター(島根県浜田市)では、犯罪を起こした当事者同士のコミュニケーションを図る「治療共同体(TC)プログラム」に取り組まれています。ただ、島根以外では行われていません。
▽「拘禁刑」で変わる刑務所の処遇
―そうした処遇のあり方は変化する見込みはありますか。
受刑者の「改善更生を図る」ことを理由に刑法改正がなされ、2025年から懲役刑と禁錮刑を統合した「拘禁刑」に変更されます。これによって、受刑者の社会復帰に資するような処遇が求められ、コミュニケーションを重視しなければならなくなります。
また、2023年に起きた名古屋刑務所での暴行事件で、刑務官同士のコミュニケーションや職場風土の問題も指摘されています。
以前、ある研修の際に、自治体職員や刑務所の職員の方々と一緒に新しい再犯防止策を考えようとアイデアを出し合ったことがありました。その時のやりとりで、刑務官の方々が持つ固定観念の強さを痛感したんです。
例えば、ある福祉職の方が出したアイデアに対して、刑務官の方は「それは無理なんですよ」と応じたんですね。それで「なぜ無理なんですか?」と聞くと、「いや、だってやっぱりそれは…」みたいな。本人の中では、これまでの経験上、実行は難しいとの感触があるんでしょうけれど、なぜそれが駄目なのか第三者から聞かれた時に「決まりだから」とか、「前例がないから」以上のことがなかなか具体的に議論できないのです。
まず刑務官同士の自由なコミュニケーションや職場風土をつくっていかないと、受刑者のコミュニケーションを活性化させることなんてできそうにないですよね。
▽居場所と仕事があればよいか
―青葉被告には「孤立」の問題があったとたびたび指摘されています。出所後の支援では、孤立化を防げなかったのでしょうか?
海外でも孤立は大きな犯罪要因になっていると言われていて、日本でもそうです。2016年に再犯防止推進法ができて、政策課題として明確に再犯防止が位置づけられ、その中でも孤立が問題とされました。そこで重要とされたのが「居場所」と「出番」です。
つまり、その人がいられる場所と何かしらの仕事や役割(出番)を持つことが大事だと言うことですが、仕事と住む場所さえあればどうにかなるという話ではないです。その点では、青葉被告はある程度サポートされていたわけですから。
―では、何が足りなかったでしょう?
自分のことを率直に話せる場があったのか、ってことですよね。彼の人生の中で、今回の事件で逮捕されてやけどの治療を受けるまで、そのままの自分が大事にされるとか、認められる経験がなかったわけですよね。
他者とコミュニケーションを取る際に、自分のことをストレートに話すことが、彼にとってはハードルが高かったんだろうなと思います。
▽支援者は親や友達ではない
―被告を支援した行政職員や訪問介護士らとの付き合いでは満たされなかったのでしょうか?
現場で支援者がしばしばぶち当たる悩みの一つですが、支援者は友達や親のようには関われないです。仕事でやってることなので。当然、プロとして線引きがあることは正しいことだし、そうあるべきなんです。
だから、何かしら違う場を用意していかないといけない。
例えば、滋賀県大津市で知的障害のある青年たちが中心になって作った、性に関する悩み解消へ向けて仲間同士で学習・相談ができるグループがあります。そこで、異性と話す時にどうすれば相手に嫌な思いをさせないですむか考えたり、一緒に遊びに行って友達をつくったりとか、そういう活動をされています。
何かしら同じような悩みや困難を抱えた人同士で、自分のことを話せる場が青葉被告にも必要だったのかもしれません。
犯罪学においても近年、アルコールや薬物依存症者のグループワークでなされてきたような、当事者同士のコミュニケーションが改めて重要視されています。支援者では分からない部分が当事者にはあるからです。
2000年代からは自分の物語を自分で語る「ナラティブ」アプローチが注目され始めました。自身のことを客観視して、自分のストーリーがどうやってできあがってきたのかを、他人との語りの中で確認していくことには大きな意味があると考えられています。それが、犯罪の領域でも機能するのでは、と注目されたんです。
青葉被告の場合も、前科がある人たちや、虐待の被害経験がある当事者らと話す場が持てていたら、よかったのかもしれません。
▽コミュニケーションを取ろうとするそぶり
―そもそも、コミュニケーションとは何でしょうか?
コミュニケーションは「対等」であることが大事じゃないですか。LINEを送るのもコミュニケーションの一つだけど、一方的に大量に送りつけられるのは、スパムですよね。
会話のキャッチボールですね。つまり、相手の話を聞いてかみ砕いて、自分の中で生まれる内的会話を、相手にどう伝わるか考えつつ返して…。簡単に言えば、相手の言っていることを丁寧に聞き取って、自分の言いたいこともきっちり相手に伝える。
―被告は事件前、小説をネットに投稿したりしていたけれども、周辺の人たちとコミュニケーションを取ろうというそぶりはあまり見受けられず、すぐにあきらめてしまった感じがあります。
そうですね。表現活動をしている人の中にはコミュニケーションが苦手な方は結構いますよね。でも(もっと読まれるためにコミケ等で新たなコミュニティーに参加するとか)別のツールを使うなどして、もっとうまく自己表現できる方法はあったと思いますが、それも、育った環境とか周囲の関係性との中で学習していく部分があるので、彼の場合、そういう可能性も限られていたんだと思いますね。
―青葉被告は放火殺人事件の後、献身的な医療者らによってやけどの先端医療を受け、「死亡率95%」という状況から救命してもらいました。
病院の中ですごく信頼できる医師や看護師がいて、話もできたと言っていましたね。彼の場合はすごく特殊な経過をたどったと思います。身柄を拘束されるまでの間に、医療者とのかかわりがあり、人間関係について自分を客観的に見つめる時間があったということでしょう。たいていの容疑者や被告は、裁判までにそうした状況に置かれることはありません。
―公判には、被害者参加制度によって複数の遺族が参加しました。遺族の問いかけに、青葉被告は「申し訳ない」と口にする場面もありましたが、“逆ギレ”する場面もありました。
こういうことがあります。元受刑者に「公判の時に被害者がいらっしゃっていましたが、覚えていますか?」と聞くと、ほとんどの人は「覚えていない」と答えます。自分がこれからどういう刑罰を受けるか分からない緊張状況のなかで、適切なコミュニケーションを取ることには難しさがあるのだと思います。
―また被告には、裁判長に制止されても話し続けるなど、対話というよりモノローグ(独白)の印象がありました。
これまで、自分の話をきちんと聞いてもらえた意識が乏しいんでしょうね。そういう人にとって、発言の機会が来た時に「今、しゃべらなきゃ」となってしまう。ある種の強迫観念だと思います。
▽「被害者支援庁」をつくれないか
私の研究者としてのキャリアは、被害者と加害者の関係を重視する「修復的司法」から始まっています。最初に研究したのは英国の制度でした。
英国が被害者と加害者の“対話”を組み込んだ制度を作りました。導入前は、ただ対話場面をつくれば何か良いことがあるんじゃないかと考えられていたんですが、実際には対話以前のことが重要だったのです。
対話までに、(1)支援者が、被害者・加害者双方とかなり密なコミュニケーションを取る(2)両者がちゃんと対話に向き合えるような生活のサポートがある、これらのことがあって初めて、不安なく自主的な対話に入れるようになります。
だから対話は、最後のセレモニーに過ぎません。修復に向けてのひとつの方法でしかなく、事件の背景にある当事者のさまざまな問題へのサポートを追究する方が大事です。これは制度を始めてみて分かったことです。 ―現状の被害者支援には問題があるんでしょうか? 法廷で被害者が被告に質問できる日本の被害者参加制度は、それも対話になりうるのかもしれないけれど、まず対話以前に刑事手続きとは別個の生活支援を確立すべきです。 国は被害者支援に本気で取り組むのであれば、お金はかかるけれども、諸外国にあるような「被害者支援庁」を作るべきなんですよ。 被害者が被害に遭った時に、警察や検察とは違うルートですぐに支援団体につながって、被疑者・被告人とは関係なく一貫したサポートを受けられる体制を作らないと、いつまでたっても刑事司法と結びついた形でしか支援を受けられないわけですね。日本のように警察庁主導で被害者支援をリードするのは、その点で問題があると思います。
刑事司法と結びつかせないということは、裁判の決着や刑期の終了が支援の終わりを意味しないという点でも重要です。災害の被災者もそうですし、DV(ドメスティック・バイオレンス)などさまざまな被害を受けた人が、その原因に関わらず突発的な事情で生活が立ちゆかなくなった時、彼らを支援しようと動く社会になっていくべきでしょう。
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森久智江さん 1977年福岡県生まれ。九州大法学部、同大学院(法学修士)を経て、2009年から立命館大で教壇に立つ。主な研究分野は犯罪学、刑事政策、少年法、刑事訴訟法。 ※共同通信の取材班では、読者からの情報提供や体験談などを募集しております。こちらにお寄せください。shuzai.information@kyodonews.jp
最終更新:47NEWS
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です