大阪教育大付属池田小学校児童殺傷事件 宅間守 『殺人者はいかに誕生したか』長谷川博一著

2016-06-08 | 死刑/重刑/生命犯

『殺人者はいかに誕生したか』「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く 長谷川博一著 平成27年4月1日発行 新潮文庫(この作品は2010年11月新潮社より刊行された) 

 第1章 なりたくてこんな人間になったんやない 大阪教育大付属池田小学校児童殺傷事件 宅間守
p21~
「モンスター」から託された言葉

----気質異常も、無罪とすべきだけど、世の中を成り立たせる為には、罰しやな仕方が、ない。それらの僕のいいたいことを大衆が、耳を傾けるように、先生の力で頑張って書いてほしいのです。僕の最後の自己顕示欲です。

 こうはっきりと書かれた便箋が、私の手元にあります。手紙の主は、当時「モンスター」と称された、大阪教育大付属池田小学校児童殺傷事件を起こした元死刑囚の宅間守です。
 文中にある「気質」とは、先天的に持っている行動特徴のことを意味します。彼の手紙の文言は、自分の犯罪は生まれ育った異常が原因だと主張していることになるのですが、気質だけで残忍な犯罪が生まれることはありません。彼は「気質」という(p22~)言葉を誤用していました。(略)
 2001年6月8日、37歳の彼は、小学校の開いていた通用口の前に車を停め、刃物を持って校内に入り、校舎1階にある低学年の教室に押し入って子どもたちを次々に襲いました。1,2年生の児童8人の命を奪い、教員も含めた15人にけがを負わせました。
 現行犯逮捕されて裁判を受けたのですが、反省の気持ちを表に出すことは一切なく、それどころか遺族や社会を罵倒するような辛辣な言葉を吐き続けました。(略)
 裁判では、遺族への侮辱的発言によって退廷させられたこともあります。
 2003年8月28日に死刑判決を受けるのですが、判決前に騒ぎ、退廷中の朗読になったため、本人は判決文を聞いていません。その後、弁護人が行った控訴を自ら取下げ、2003年9月26日に死刑を確定させます。「確定後半年以内に執行しなければならない」と定めた法律(刑事訴訟法第475条)を楯にして、刑の早期執行を訴え、(p23~)翌年9月14日に異例の早さで死刑は執行されました。
 私は、死刑判決が出されてから死刑執行までの間に、15回の面会を重ねました。そして彼の居直る姿の傍らに見え隠れする本音を、少しだけ見ていくことになったのです。(略)
 彼は「宮崎勤のほうがマシや」と私に言いました。「親父が自殺しとる」と。1988年から1989年にかけて連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤(第2章)は、裁判中に父親が自殺しました。この事実はまぎれもなく、「自分の息子が起した罪」であることを父親自身が認め、引き受けていたことを物語ります。
 これとは対照的に宅間守の父親は、「もう勘当した(25歳当時)やつのやったこと。わしには関係ない」「死刑しかないと思っとる」と公言し、酒に溺れる日々を送っていました。大罪を起してもなお「自分の息子」とした父親。かたや、「縁のない他人」として突き放した父親。死刑を目前にした彼の語りの中に、「親を確認したい子どもの気持」の存在が読み取れました。
p24~
 母親については、「あれはただのあほや」と言い放ちました。(略)
「おふくろは資産家の出で、金を持っとった。それを親父が吸い取って、酒を浴びとった」
「離婚も、ようせんかった」(略)
 私はドメスティック・バイオレンス(DV)についてたずねました。すると「(母親は)毎日、殴られよった。壁は血だらけになっとったな」と、その激しさを淡々と語りました。小さな男の子には、機嫌に任せて荒れ狂う父親を前にして、なすすべがなかったことでしょう。
 同時に彼は母親に対して、自分を精神病院に閉じ込めて出そうとしなかったことへの強い恨みも抱いていました。
p32~
 詳しくは触れられませんが、彼の妻は死刑廃止論者で、当初は死刑を考える彼を認めていませんでした。それを知っている彼は、「〇〇さん(妻)には本気で話せへんのや」と私にこぼしていました。私は妻に、「結婚した以上、あなたは運動家ではなく、妻なんですよ」と言い、二人が真の夫婦になれるよう間接的に励ましていました。長い葛藤の末、妻は夫の気持ちを受け入れるようになっていきました。そして彼が「やっと、〇〇さんに本音が言えましたわ」と照れ笑いしながら話せるようになって、その段階で用いるようになったのが「分かちがたく」の理論だったのです。
p38~
 思い返せば、彼が事件を起こす前に、いくつもの理不尽なことが彼を襲っていたのでした。そこに「味方」がいて、その人たちとの接触があったら、あの日のことは起きていなかったかもしれない・・・・・。私はどの事件も、一連の不幸な出来事が連なることで引き出された偶然なのだと考えています。
 詳細は記せませんが、彼にとっての主な引き金は、あるとき婚姻関係にあった妻による、不同意堕胎でした。彼は出産を強く望みましたが、知らないうちに妻が中絶手術をしてしまったのです。(略)この事態はまるで、彼を生んだ両親の考え方が対立したことのコピーです。そのことを何度も話す姿から、強い憎しみだけでなく、彼の中の悔しさが伝わってきました。父親の暴力の中で育った彼は、自分の息子をまともに育てることに憧れを抱いていたからです。
p39~
 彼にも過去、「敵」ではない人がいました。
「まともやったのは、一人くらいやなぁ。中学1年の担任や」
 のちにこの担任とは二人目の妻として結婚をしています。
 1人目の結婚相手は19歳年上の看護師でした。しかし彼が医師を詐称していたこと等が知られ、12日後に協議離婚しています。次の20歳年上の恩師との結婚は4年間続き、別の事件を起こしたことがきっかけで離婚しました。翌年、44歳年上の女性と養子縁組をしました。(略)
 年上の女性のもとへ走るという特徴から、彼の「母親なるもの」への希求と混乱が垣間見えます。母親なるもの、つまり息子として絶対的な味方が、本当は欲しかったのではないか・・・。(略)
 3度目の結婚で初めて同世代(2歳年上)の女性と籍を入れるのですが、ここで先の堕胎の1件が起き、翌年に彼女は離婚調停を起しました。調停成立のわずか4か月後、別の3歳年下の女性が妊娠したのを契機に4度目の結婚をしますが、やはり5カ月で離婚となりました。

p46~
 死刑執行
 少しでも罪に向き合ってもらいたいという目的をもった面会を続けながら、同時に、彼にいつ執行の日がきてもおかしくないとの認識は常にありました。「それ」を意識することは、「モンスター」と称された彼にとっても同じだったかもしれません。
 ある日の面会で、彼はこう吐露しました。
「朝、目が覚めたか覚めないかうつうつしてるときにな、夢っちゅうか、空想するねん」
「台に乗せられて、袋をかぶされて、首に縄かけられてしばらく待っとるねん。なかなかボタン押してくれなくてな。待っとる間がすごく長いんや。早くしてくれたほうがいいわ。そしたら急に底が抜けて、そのまま肥溜に落ちて糞まみれになって、驚いて目が覚めるんや。全身が汗だらけになっとる」
 死刑の早期執行を望みながらも、明らかに心中ではその時のことが気になっているようでした。
p47~
 私は「執行のこと、考えることがある?」と尋ねました。
「朝、いつもより早い時間に看守の足音がすると、ついに来たかなって思う。そのまま通り過ぎて、ああ違ったわ、って・・・」 
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〈来栖の独白〉
 昔、名古屋拘置所の首席の言ったことが思い起こされた。「朝の巡回も、大変神経を遣います。定刻より少し時刻が違っても、彼ら(死刑囚)、動揺するんです」。
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  47NEWS  共同ニュース 
宅間死刑執行当日の状況要旨
  宅間守死刑囚と獄中結婚した妻が、19日文書で明らかにした死刑執行当日の状況は次の通り。
 9月14日午前9時40分ごろ、自宅を大阪拘置所の職員が来訪。家の中には通さず、マンションの1階に下りる。職員が口を開こうとした瞬間に最悪の光景が目に浮かび、思わず両手で耳をふさいだ。「本人はキリスト教の教戒を受けているが、奥さんもキリスト教の方なんですか」などと質問される。
 すぐ後に「今朝、きれいに逝きましたよ」と聞かされる。何がなんだか分からないまま、路上に座り込み大声で泣いた。  「なぜこんなに早いんですか?刑確定からまだ1年ですよ。異例じゃないですか?」と質問すると「法務省が慎重に慎重を重ねた検討の上での結果です」と言う。
 その後、拘置所に電話し弁護士同伴で拘置所に行くことをいったんは許可されたが、主任弁護士ではないことを伝えると「認められるのは主任弁護人のみです」と厳しい口調で反論され、結局、午後2時すぎに1人で入る。
 拘置所3階の応接室のような部屋に案内され「遺体はどこにあるんですか?早く会わせてください」とお願いしたが「もうしばらく待ってください」と言われるばかりで、いら立つ気持ちが抑えられなくなった。
 「彼の最期はどうだったんですか」と聞くと「『最後にたばこが吸いたい』と言ったので吸わせました。吸い終わった後に『ジュースが飲みたい』と言ったので飲ませました。終始、取り乱すことなくきれいに逝きましたよ」と聞かされる。
 泣きながら「死んでその人のいったい何が矯正され、更生されるんですか」と聞くと「矯正とは『罪を反省し、謝罪の気持ちを持つということ』だと思います」と言われた。
 「矯正局とは人間の更生に力を貸してくださる場所ではないんですね」とあらためて聞くと「それ以上はお答えできません」と言われた。
 裏門のそばの車の中に安置されたひつぎが目に飛び込んできた瞬間、大声で泣いた。1人の若い刑務官が駆け寄って来て「最後に、奥さんにあてて『ありがとうって、ぼくが言ってたって伝えてください』って言ってました」と口早に小さい声で私に伝えた。
 守の最期の言葉を伝えるためだけに、わざわざ駆け寄ってきてくれた若い刑務官に対し、感謝の気持ちでいっぱいになった。
 「ありがとう」と必死でその刑務官に伝えようとしたが、言葉にならず、何度も心の中で「ありがとう、ありがとう」を繰り返した。「こんな若い人までも執行に立ち会わされたのか」と思い、また違う涙があふれてきた。
 別の職員にせかされ、最初に通された3階の応接室に戻った。埋葬許可証のような書類を手渡され、そこには「死因・その他 死亡時刻・8時16分」と書かれていた。 2004/09/19 17:05【共同通信】 
 
 ◎上記事は[47 NEWS]からの転載・引用です
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〈来栖の独白〉
>「死んでその人のいったい何が矯正され、更生されるんですか」
 「獄中結婚した妻」の浅薄な死刑廃止論。このような表層の吹っかけ論状態ゆえ、死刑廃止が実現しないのも自明。聖職者・法曹・・・死刑廃止運動群像のなかで私を感動で震わせてくれた人は一人もいない。皆、諳んじた小手先の死刑廃止論で止まっている。人間性がない。
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* 宮崎勤、宅間守、小林薫らが残した難題 死刑囚を最も知る男が見た「死刑の穴」(日刊サイゾー2008/12/13)
* 元死刑囚と接した弁護人と面会者の苦悩 池田小事件 20年 2021/6/8 
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