エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

本田哲郎司祭は、なぜ 「日曜ごとに教会に来なくていいんだよ」 と言うのか?

2015-07-14 01:45:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 先日の「こころの時代 宗教・人生」、「釜ヶ崎で福音を生きる ~神は小さくされた者の側に~」(2015,7,5放送、2015,7,11再放送)での、本田哲郎司祭の言葉は、聖書の理解を深めるために、すなわち、キリスト者として生きる上で、またとないチャンスとなりました。それは、さっき翻訳したばかりの、Young Man Luther 『青年ルター』p211 と関係します。ルターはここで、熱心な信者たちが、教会生活を真面目に、熱心にやることに、否定的でしたね。司祭や牧師ならば、「教会生活を真面目に、熱心にやってください」と言う方が普通でしょ? それを否定するとは、ルターは異端だ、日本的に言えば、村八分だ、というように、宗教改革の時も現実に言われたわけどすね。でも、歴史は、ルターに軍配を上げて、村八分にすべきだと皆が思った、ルターの教えの方が「正解」だったわけですね。

 それでも、フランシスコ会の日本管区長まで務められた司祭である、本田哲郎司祭も、礼拝を否定するのは、いかがなものか、と感じる人もいるはずですね。本田哲郎司祭は、先の番組で、ルターと同じようにことを、言ってましたからね。今日のタイトルの言葉は、本田哲郎司祭がおっしゃることを正確に記せば、「『お互いに大切にしあいなさい』という新しい律法1つ守れば、別に、日曜ごとに教会に来なくていいんだよ」ということです。さらに「無宗教でも大丈夫、場合によっては、反宗教でもいい、…ただ、『人を人として大切にする』(ということがあればいい。)そこに尽きるわけですよね」と言います。

 素晴らしいですね。礼拝には形がないことを教えてくれますね。エリクソンが教えてくれていることと同じです。さっきのルターの言葉に擬えて申し上げれば、「自分ができることをするように」などと人に薦めなくてもいい、計画を立てて、罪を犯さないようにしなくてもいい、日曜ごとに礼拝を守らなくってもいい、収入の限度まで献金せずともいい、ありのままでは謙遜とも平安とも感じなくたっていい、という訳でしょ。

 そんなものはどうだっていい。どこまでも大事なのは、最も大事なのは、「お互いに大事にしあう」ことだけ。しかし、また、その行動を選択する際の目印、行動原理が大事ですね。それは、本田哲郎司祭によれば、ギリシア語の σπλαγχνιζομαι スプランクニツォマイ、「はらわたを突き動かされる」ということです。これは英語にすると、com-passion 普通は「同情」とか「憐れみ」とかと、訳されてしまいます。でも、これはもともとは、「passion(十字架の)苦しみを com共にする」、という意味であることを忘れてはいけませんね。これは、本田哲郎司祭の言葉を借りれば、「人の苦しみを『ほっとけない』と思う気持ちだ」と言います。

 私どもは、「人の苦しみを『ほっとけない』と思う気持ち」を目印にして、行動し、生活していきたいものですね。

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