二村嘉一のネオジャパニズム

 世界の中で生きて行く、私達の創る新しい日本の形とは

過去を振り返って。

2007年05月04日 04時12分40秒 | 日記・エッセイ・コラム
 皆さんこんにちはお元気ですか?
 今日の名古屋は晴れています。気温ももう完全に春を通り過ぎ、初夏の兆しです。窓を網戸にして、風の動きを肌で感じつつ、太陽の低い日差しを浴びています、今は午前7時20分です。清々しい気分で過ごしています。
 昨日は、夜寝る前に、「情報の歴史の読み方」を読んでいましたが、子供の頃に読んでいた図鑑のさらに深く踏み込んだ内容で、童心に帰りつつ、とても楽しく読んでいます。本格的な百科事典をお持ちの方もいらっしゃるでしょうが、子供の頃は場所が無かったので、コンパクトな子供用の図鑑を読んでいました。そのせいか小学校の授業は、退屈で面白くないと感じていたのですが、今思えば、小学校の授業は基礎学力で、本の図鑑は、参考書のようなものであったのかもしれません。
 あの頃は、まさか大学まで勉強するとは思わなかったので、毎日の宿題等はサボっていました。そのせいか、漢字が書けなくて、困っています。ワープロソフトでは書けますが、ペンでは書けません。 
 また高校時代には、微分積分等あったのですが、文系コースへ進んだので、2年からはまったくといっていいほど、数学を習っていません。なので当然文系の私学へと進学しました。もし誤って、経済学部へ進んでいたらと、今思うとぞっとします、そろばんも苦手だったし。今は携帯に電卓がついている時代だから、助かります。
 今思うと勉強をなめていたと思いますね、特に学校の勉強。塾に通っていたし、そのおかげで、高校に進んでも、成績は上位でしたが、2年ぐらいになって気が弛んで、遊びほうけていて、暴走族ではないですが、バイクに夢中になって、どっちかというと、片岡義男の世界が好きで、オートバイを無免許で走り回っていた時期があります。確かあれは、本田のCBR400Fでした。
 そして3年の5月ぐらいから受験勉強をして、偏差値45の中京大学法学部へと進みました。 
 あの頃は喫茶店でバイトしていて、そこで知り合った名城大学法学部の大学生と、高校生ながら、ディスコで遊んでいて、その人はいわゆるあの当時のインカレのサークルをやっていたので、大学生ってこんなに楽しいことしてるんだと思って、進学を決めました。また当時は、DCブランドが流行っていて、オシャレにも興味があったし、自由な時間を得る為にはと思ってもいました。
 そして当時は愛知学院とか、名城は、中京よりランクが上で、一応両方の商学部を受験したのですが、中京は法学部を受験して中京は受かったのですが、名城と愛知学院は落ちました。今はなんだか中京がランクが上がってきたようですが、当時は挫折感を感じて、むしゃくしゃしてバイトと不純異性交遊をしていました。
 そのおかげで、一年生のときに単位を取らずに、二年から三年生に進学するときに留年して、また就職活動もままならずに、4年生のときにも単位をたくさん取らなくては、卒業できない状態だったので、TOYOTA系のカローラ店のディーラーに就職が決まったのですが、もっとでかい仕事に当時は憧れていたので、研修期間が終わって、家から遠い、豊田店に配属が決まったのですが、態度が悪いといって、解雇されてしまいました。TOYOTAの本社なら頑張ろうって気持ちになったけど、ディーラーしかもカローラ店なんてと思っていました。なのでまあ仕方ないかと思うのですが、その後急激に不景気になり、いわゆる、バブルの崩壊後の時代を迎えることになったのです。
 そのままディーラーで働いていたら、 Mika Yoshida さんと話が合ったかも知れませんが、今となっては後の祭りです。
 今日も Mika Yoshida さんが元気で幸せであることを祈りつつ今日は失礼致します。
 それでは。

 勾玉の翡翠の意味を知りたるを携帯電話清らかに鳴る

 風を切る風を追い越すバイクにて暑き夏の日光り輝き

 古の人々もまた文様に花の柄した布を纏て

 God bless you!