2015年7月11日(土)
今、第三冊目の本の執筆中であります・・・。
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キリスト教禁教はやむを得ない国防策だった
しかし、宣教師がヨーロッパからもたらした「キリスト教」は、古代に人間キリストが説いた、モーセの律法に従う正しい人の道とは大きく異なっていた。
キリストの死後、数世紀を経てから聖書として一人歩きを始めたヨーロッパ由来のキリスト教は、教会制度として体系化し、長い歴史のなかで権力者に都合の良いような解釈で広がっていった。外交軍事の思惑と絡み合い、勢力拡大や侵略の道具に利用されるようになり、人間キリストが説いた教えとは異なるものになっていったのだ。
隣人愛と平和を説く真のキリストの教えには、日本人の精神性の拠り所となってきた神社仏閣の破壊などという発想はないはずではないか?
真のキリストの教えに従う宣教師なら、日本の内乱の悪化を招く武器の輸出の手先などにはならないのではないか?
当初は宣教師たちとも積極的に交流し、キリスト教に理解を示していた豊臣秀吉が、やがてバテレン追放令を出し、キリシタン教弾圧に乗り出し、徳川政府もキリスト教から国を閉ざしたのは、宗教を隠れ蓑にした、列強の日本侵略計画に気づいたからだった。
しかし、国のリーダーとして禁教政策に転じた武将たちも、心の中では、イエス・キリストの教えを善しとしていたのではないか、と上森は想像する。
豊臣秀吉は「複数の妻を持つことさえ禁じなければ入信してもよい」と公言していたと伝えられるし、国防のためにやむなくキリシタンを弾圧はしたものの、心情的には、イエスの教えは否定していなかったに違いない。
秀吉がこよなく愛した茶道も、実はキリシタンの儀式から発達したようで、これは茶道の大家も非公式には認めている事実だそうだ。
茶室への入り口が潜り戸なのにも意味がある。聖書にある「狭き門」の象徴。『新約聖書』マタイ伝第七章には「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」、とある。
茶の湯はキリスト教の聖餐式の再現で、茶は聖杯、お菓子は聖なるパンの代用。茶室は隠れキリシタンの密会の場だったのだ。そういえば、熱心なキリシタンだった高山右近は、優れた茶道家としても名を残している。
秀吉は朝鮮出兵に際しても、小西行長などキリシタンの武将で軍を組織したそうだが、ならば、秀吉の朝鮮出兵の目的は一般の歴史書が書くような侵略目的ではなかったのではないか、という疑いが上森の頭の片隅に巣くった。本当に戦い隣国を支配する目的だったのなら、優れた武将の秀吉が、「殺すなかれ、隣人を愛せ」というキリストの教えを守るキリシタンの兵士を戦場に送り込むはずはない。
出兵したキリシタンの武将が、茶道に使う茶器をつくる名工人たちを朝鮮から日本に連れ帰っておかげで茶道がさらに発展した、というのも、戦国時代にしては悠長な話だった。
戦国時代のお城も、みな、聖なる幾何学で結ばれる
新しい場所に「行かされたり」、何か新しい知識を「学ばされたり」したときには、その意味を地図上で確かめるのが、上森の習性だ。
高槻に行った後にも、上森は、高山右近の足跡や、戦国時代から江戸時代にかけての政治地図に目を向けてみた。
すると、予想した通り、点と点を結んだ線は、新たな聖なる幾何学を描き出した。
高槻や、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城は、地図上で、ちゃんと、古代からの精神の系譜を示していたのだ。
平安京は、実は、モーセの子孫である秦氏らの秘された尽力により、古代イスラエル人の失われた聖都エルサレムを模し、イエスの生命の樹=カバラの法則に従って建造されていた。
それと同様に、安土城も大阪城も、古代から伝えられてきた、何か秘密の法則に従って、しっかりと位置決めされて、建てられていたのだ。
・・・と、今執筆中であります。
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神河町にあるイエス・キリストの墓と、天狗岩を結んだライン上に安土城がありますが、・・これは偶然でしょうか。
織田信長は天狗と呼ばれていたイエス・キリストのお墓も、天皇家の秘密も全て知っていたのではないでしょうか。