K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

自信

2009-01-31 08:57:00 | メンタル
人に優しくなった。

そう思う。



昔はこうじゃなかったんだ。
今だから懺悔したいのだけれども、やっぱり無駄に知識や批判力がついてくると、
どうしても人が愚かに見えてしまって仕方がない時期がある。
だからテレビを見たりして、どうして人はこう何も分からないんだ、とか、
時には友達に対してさえも、心の中ではバカにしたりしてたことがある。

でも何でかって今になって考えてみると、
多分、自分に自信がなかったからだと思う。
だから、他人を下げることでしか、自分を見いだせなかった。

怯えてた。
人が自分よりも優れていることを認めるということに。

怖かった。
他人を認めるということは自分を否定することであるように感じていた。

今さら気づくのは遅いってわかっているけど、
はっきりいって最低の人間だったと思う。



でも今はちがう。
ここ一年で、少なくともここに来てからは、
はっきりと自分が変わっていくのが分かる。

自分に自信がついた。

人より優れているとかそういうことじゃなくて、
確かに、自分の中に、自分がいる。
そして、今は自分の中の自分に絶対的な自信がある。
自分の中の自分は、前に進む力がある。

時には挫折することもあるかもしれないけど、
それでも決してあきらめない、くじけない、自分の中の自分がいる。

だから、他人を下げることではなくて、
自分を上げることで、
自分の中の自分を追求することで、
自信を見だせるようになったのだと思う。





今日ある友達と話した。
あまりお喋りな方ではないKだけど、今日はずっとしゃべり倒してた(笑)
あういう友達には、これから二度と巡り合わないかもしれない。

だから、大切にしたい。心からそう思った。

あいつには悪いことしちゃったけど、
今からでも、きっとまだ遅くないよな?







追伸
・テンプレート戻しました。やはりこっちの方がKらしいや(笑)
・コアなこと書かないって前の記事でいったけども、やっぱりちょくちょく書くかもしれません。心の整理は大切なことなので。

2009-01-28 07:09:37 | お知らせ/挨拶
テンプレート変更してみました。

月。

月っていいよね。
文化ごとにその意味が違う。
けど、きっと月自体に意味があるのではなくて、
私たちが自分たちのコンテクストで月を解釈するところに意味が生まれるのだろう。

いろんな形で解釈される中で、
それでも、それを超越したように見える存在。

主役を太陽に譲りつつも、
その背後で異彩をはなち続けている。


かっこいいねぇ。

下ネタの季節

2009-01-27 09:13:36 | どうでもよいこと
そういえば一週間前くらいに、日本の年下のかわいこちゃん(このブログは教えてない)と
電話をしていた時のことでありました。


その時、Kがノリノリで料理ができることを自慢をした結果、その友達が、

「すごいね!私の彼氏にしてあげてもいいよ。」(←もちろん冗談ですが)

っていってくれたので、舞い上がったKはつい、

「Kくんは料理は作っても、子供は作らないぞ。」

と軽く下ネタを言ってしまいました。

そしたら、あぁ哀しいかな。。。(和風)
ドン引きされた上に、その後ブチ切れられましたw


う~ん、そんな大した下ネタじゃなかったと思うんだけどなぁ。


まぁでもKもそんな時期なんでしょうな。
子供が必ず反抗期を経験するように、
Kにも必ず下ネタ期というものが訪れるのかもしれません。

さらに、英語ではウィットの利いた下ネタがいえるほどレベルが高いわけではないので、
日本語で会話しているときには、
ここぞとばかりに下ネタをいいたくなるのかもしれません。


でもKは悪くないだろ~、明らかに。
だって減るもんじゃないんだしさ。
本気じゃないんだし、流してくれれば済むことじゃんかね。
そんなに引くことかいな。


あ、でも分かった!


やっぱり女子ウケのいい下ネタも考えなきゃいけないってことだよね!?
(←だったら最初から言うなよって感じですがw)
でもこれ難しいなぁ。



・・・(考え中)・・・



「ヘイ、マドモワゼル。この私にパイピーを揉ませるというのはいかがかな?」



・・・



だめだ、これでは亀仙人と同じレベルだ(笑)



しかし爽やかに下ネタが言えるようになったら、Kの紳士レベルもアップするよな~




そんな想いをはせる、下ネタの季節。
(←かっこいい!)

春節

2009-01-26 09:34:45 | ヒト
最近は毎日のように更新が続いております。
「芸能人かっ!」
と自分に思わずツッコミを入れたくなるKであります。

しかし、みなさんがブログを見てくれているからかどうか分かりませんが、
ブログを頻繁に更新すると、日本の友達から全く連絡が来なくなる傾向があります。
「このやろー、ブログもう書いてやんねぇぞ」
とすねつつも、なんやかんやで書くことが多い今日このごろであります。



さてさて、今日は「春節」のお祝いパーティーに行ってきました。
まぁ日本では聞きなれない方も多いでしょう。
しかし、中国、もしくはその他のアジア圏では春節というのはとても重要な祝祭なのです。

では春節とは何でしょうか。

まぁ一言でいってしまえば、旧正月のことです。
つまり、旧暦に即したお正月のことを指します。
日本では歴史的に早くから西洋化が進んだせいもあってか、
今では旧正月は非常にマイナーなものとなっています。
しかし中国では、元旦よりも春節の方が大切にされており、
一年で最も重要な祭日とされているそうです。

現に今日、中国のテレビを見ていたら面白かったのは、
まぁ権威主義体制の国ということもあるのでしょうが、
まさに国を挙げての式典が行われていて、
トレーニングをされた女性や子供が集団でダンスや歌を繰り広げていました。
まさにナショナリスティックって感じです。


まぁそんなこんなで、Kも春節のお祝いパーティに行ったわけです。


ここで、疑問を持つ方もいるでしょう。
「なんでお前、日本人なのに中国のお祝いパーティ行ってるんだ?」
と。


それはKにもよく分かりません。


知っての通り人見知りのKですが、なぜか外国人コミュニティに好かれることが多く、
あるコミュニティにK一人混ざることが少なくありません。
特に中国人コミュニティとは仲が良く、
そして文化が近いせいもあってか、Kも一番安らぐのです。


というわけで今回の春節のパーティにも全員中国人の中、Kは参加したわけであります。


まぁ何にせよ、やっぱ中国人の作る中華料理はうまいね。
「こんな食いきれねぇだろ」
ってくらいの料理が出てきて、盛大に祝っていました。

でもあの味は日本人には出せないよなぁ。






日本では中国のことを嫌いな人が多いけれど、
そして中国でも日本のことを嫌いな人が多いけれど、
いつか両国とそこに住む人々が、お互いに尊敬し、愛し合いながら、
暮らせる日が来たらいいなぁと、


一人妄想にふけるKなのでした。。。

一般化の意味

2009-01-25 03:42:16 | 論理/思想/理論
例えばある友達がこう言ったとしよう。

「日本人って和を大事にする人たちだよね。」

あなたはこの友達の意見を批判したい。

さて、何といえばよいだろうか?








(シンキングタイム)








はい、答えは固まりましたか?

もしあなたが、

「日本人のすべてが和を大事にするわけじゃないよ。」

と批判したとしたら、残念ながらその批判はかなり弱いといえます。


***


今回のトピックは一般化について。
一般化とは何らかの自然現象や社会現象を大まかにつかむために、
一定のモデル化をすることです。

別に学問の世界だけではなくて、
人間である以上、私たちは日常生活で一般化という手段を多様しています。

「この学校のやつらってよ~、・・・だよな。」
「やっぱりジャニーズは格好いいなぁ。」
「だめだ、イギリス人の飯はまずすぎる。」
「なんで女って結婚結婚うるさいのかね!」
「Kはすべての女の子を愛してやみません。」

とかは一般化の例の一部です。
なぜ私たちが一般化を使うのかというと、
おそらく一般化なしでは多様な現実を理解できないからです。
だから、一般化という手段は私たちにとって、とても重要な知的活動の一つだといえます。



なので、もうおわかりですね。
最初に挙げた、
「日本人って和を大事にする人たちだよね。」
というのも一般化の一つです。

この一般化を批判するには、
反例を上げるだけでは弱いのです。
なぜなら、一般化というのは、「概してこうだ」といっているだけなので、
いくつかの例外は織り込み済みだからです。

だから、例えば、
「でも、AちゃんもBくんも和なんて大事にしない。
だから全ての日本人が和を大切にするわけではないよ。」
って言ったところで批判にはなりません。


ではよい批判とは何か。
それには主に二通り考えられます。


第一に、この一般化自体が的を得ていないことを指摘する。
例えば(真偽は別として)、
「今の日本人は和などは考えない。なぜなら、西洋化の過程で個人志向が加速しているからだ。」
もちろんこれを言うには一定の証拠が必要なのは言うまでもありませんが、
論の方向性としてはOKです。


第二に、この一般化が過度の一般化であることを指摘する。
例えば、日本人の和を大切にする人と、そうでない人の割合が、
5:5や6:4くらいの場合は、
「日本人って和を大事にする人たちだよね。」
という命題は成り立たないといってよいでしょう。
なぜならこれは、過度の一般化(overgeneralization)といえるからです。


みなさんの批判はどうでしたか?


今回は比較的やさしいトピックでしたが、
学問的にこれをやるにはなかなか難しいものがあります。
様々に論拠を確定しなければならないからです。

何はともあれ、この一般化はいろんなところに転がっています。
例えば、その視点から新聞を見てください。
これはおかしいんじゃないか、
という記事であふれていますよ。(笑)

後悔と出会い

2009-01-24 01:15:27 | ヒト
今日はKの中で二つの重要な事が起きました。

「後悔」と「出会い」。


まず、なぜ後悔したかというと、自分から逃げたからです。
目の前の壁から逃げた。
こういう時の後悔は身を切るように痛い。

けど、こんな時に考えることは一つ。

この後悔を意味のある後悔にしなければならない。
多分ね、
これから先に同じ後悔をしないように努力し、
結果として同じ後悔をしなくなった時、
初めてこの後悔は意味を持つのだと思う。

だから、この痛みと悔しさをバネに、
何が足りなかったのかを認識して、
その不足を絶対に妥協せずに克服しなきゃいかん。


でなきゃ後悔の仕損になっちゃうでしょ?


絶対に・・・・


成し遂げてみせる。






対照的にもう一つは、とてもよい出会いがありました。

ある日本人のAさん。

残念なことに、ここの日本人はとても知的レベルが低いって
前に書いた覚えがあるけど、
彼女は違うとはっきり分かる。

彼女はとても知的で、
英語もKよりうまく、
非常にコミュニケーション能力に長けている。


Kにないものをたくさんもっている。


本当に久々だったなぁ。
尊敬できるって思える人に出会ったのは。


いるんだねぇ、こういう人も。





世の中は広い。



久々によい出会いだったと思いました。

「頭がよい」を考えるの補足

2009-01-22 20:00:09 | 能力
↓を読み返したら、かなりえらそうなことを書いていましたね。

もしKが自分の頭のよさを自慢しているとか、
Kが自分を頭がよいって思ってる、って誤解されると嫌なんで一応補足しておきます。


はい、そんなことは全く思っていません。


相手の論理を批判することと、
自ら論理を構築することは本質的にちがいます。

前者は一定のトレーニングを積めば誰でもできますが(だからKでもできる)、
後者はなかなかそうはいきません。

だから最後に書いたのは、
後者をもって「頭がよい」ことの基準とすべきと言ったわけです。


Kはその点全然、修行不足です。
ホントにだめポです。
ま、一応誤解されないための、補足でしたっと。

栄養ドリンク

2009-01-22 18:49:06 | ライフ
イギリスには、Red Bull(赤い雄牛)とかBlue Bolt(青い稲妻)とかいう名前の
Kがレポート執筆時に常用していた栄養ドリンクがあるのですが、
今日イギリス人に、
「あんま飲みすぎると心臓発作起こすよ」
っていわれました。


早くいってくれよ・・・


ちょっと最近は体を痛めつけすぎたかな・・・

皆さんは健康には気をつけて。

「頭がよい」を考える

2009-01-22 10:30:13 | 能力
頭がよいとか、賢いとかって日常でよくいわれるけど、それらの定義は人それぞれだ。

そういえば一年近く前、友達と頭がよいってどういうことかって語りあった覚えがある。
あの時は明確な答えが出せなかったけど、多分今なら自分の答えが出せる気がする。

特に「頭を良くすること」は今のKの目標の大きな一つなので、
ここで少し考えてみたい。





まず明確にせねばならないのが、何のための頭の良さかということだ。
ある目標への「頭の良さ」は、違う目標に関してほとんど役に立たない場合がしばしばある。
例えばIQがものすごく高い物理学者が有能な政治家になれる保証はどこにもない。
なぜなら、この二者に要求される「頭の良さ」の質は全く異なるからだ。
つまり、頭を良くすることの目標を明確にしなければ、
何をもって「頭が良い」というのかを考えることができない。

これに関してはもちろん人それぞれで全くかまわないのだが、
ここではK個人の利益に基づき、
「社会問題を分析するための頭の良さ」と定義することにする。


ではそのための「頭のよさ」ってなんだろうか?


1.学歴
これは多くの人にとって、「頭がよい」ことの指標の一つだろう。
もっとも分かりやすく、目に見える基準だからだ。

でもかねてから言っているように、学歴というのはたいがい一つの試験の結果に過ぎない。
だから学歴をもって「頭がよい」というならば、
頭のよさは英語や数学や国語の成績によって定義されることになる。
しかし、この成績がよいということが社会問題の分析にどれほど役に立つのかは疑問だ。

もし仮に上記の成績が社会問題の分析に役に立つと見なしたとしても、
学歴と頭が良いことの間には相関関係が成り立つにすぎない。
(すなわち、学歴が高いということが頭がよい「可能性」が高いということ)
だが、学歴があることによって「頭がよい」と保証される因果関係は成り立たない。
(すなわち、学歴が高い人が皆「頭がよい」というわけではないということ)


2.知識
これも頭がよいという時に多くの人が連想することだろう。
確かに、多くの知識を持っているということは、
社会問題を考える上で重要といえるかもしれない。
だがこれにも二点ほど問題がある。

第一に知識の質である。
つまり、①何を②どの程度深く知っているのかということである。
これを考えないまま、単に雑学王のような人を頭がよいと見なすことはできない。

第二に、上記をクリアしたとしても、
知識があることは頭がよいための必要条件ではあっても十分条件ではない。
ちょっと専門的にいえば、
頭が良い→知識がある、は成り立つといってよいかもしれないが、
知識がある→頭が良い、は成り立たない。

これはある命題の逆は成り立たないという論理学の基本でもある。
(ちなみに対偶は成り立つといってよいので、この命題はある程度的を得ているといってよい)


3.要領の良さ
これは上記二つに比べればある程度的を射ている。
つまり、要領がよい→頭がよい、は一定の条件下で成り立つ。

その条件とは何か。

上記のように今回の頭のよさは社会問題を分析する上での頭のよさなので、
その問題の本質をすばやく吸収し、自分のパースペクティブを出さなければいけない。
その意味で要領がよいというならば、これはKのいう頭のよさにかなり近い。

が、たいてい世間でいわれる要領のよさというのは、
もっと単純な仕事や勉強の仕方をすばやく吸収できる、という意味で使われることが多い。

それができることと、Kのいう頭の良さの間には因果関係は成り立たないし、
どれほどの相関関係が成り立つかも疑問だ。


4.論理的正確さ
正直、現段階ではこれが結論のように思う。
なぜなら論理的であることとKのいう頭のよさには、
おそらく因果関係が成り立つからだ。

まぁそんな小難しいことを抜きにしても、
この「論理」を使えば、誰が何をどれほど理解しているのかをいとも簡単に見抜ける。
要は、見かけは理屈っぽい人でも、本当に頭がよいのか、ただの知ったかなのかが、
論理を注視することではっきりと分かる。
これは例えば友達とかだけではなくて、有名な学者や政治家などの場合にも適用できる。

まぁこれには専門的なトレーニングが必要なので一朝一夕に身につくものではありませんが。
(←自慢w。Kも苦労したんですよ。)


だから、Kは基本的には論理性の指標によって
ある人が頭がよいかを判断しているのではないかと思う。