好きな形容詞が三つある。
logical, global, hungry、だ。
logical.
前回記事と重複するが、
第一に、とにかく論理(演繹・帰納)に厳格さをもたせること。
実用的な観点からいえば、
仮説を立案して検証するプロセスを、
疑義がはさめない程、厳格かつ説得的に行うということである。
第二に、仮説というものは、
必ず無意識的に何らかの前提条件を置いている。
「Aという前提があるから、解決策/解決すべき問題(仮説)はBである」
といった具合にである。
この隠れた前提条件Aを意識化し、常に疑いの目を向け、
既存の仮説を変更/破壊し、よりよい仮説を生み出していく必要がある。
そうでなければ、B(仮説)はありきたりのものしかでないだろう。
まとめると、仮説としてはあらゆる可能性を検討し、
一番もっともらしいものに対して、厳格なlogicをもって検討する。
これが価値のある知的生産の在り方だと思う。
global.
日本は特殊だ。
もちろん、地球上の全ての地域に一定程度の特殊性はあるにしても、
日本社会は、グローバル社会から一種の隔絶状態におかれたまま今日に至っている。
だから、グローバルでは常識なことは、日本で非常識であったり、
その逆もまた然りである。
そのことを意識したうえで、
敢えて日本が特殊な道をゆく、ということならまだいいが、
ほとんどの日本人が自分がグローバルであるのかどうか意識しないし、
そんなことを考えるのは意味がないと思っている。
典型的な「日本村」である。
もちろん、日本の特殊性がいろいろな意味で強みとなっていた過去なら、
良かったのかもしれないが、今はそれが弱みとなっている。
(典型的には、日本の労働生産性の低さを見れば一目瞭然)
だからこそ、グローバルスタンダードに照らして、
日本での所与の常識を、「当たり前」と思わないマインドが必要である。
hungry.
最後にして、最も大切にすべきである。
なぜなら、logicalでglobalであっても、
結果を残せなければ意味がない。
そのためには、やや精神論的ではあるが、
結果に対して邁進する必要がある。
たまに、何かをする際に「態度」や「姿勢」が大事だという人がある。
個人的には、こうした価値観は大嫌いである。
大切なのは結果であって、「態度」や「姿勢」のようなプロセスには、
何の意味もないし、何も生み出さない。
本当の意味で自分が価値のある存在になるためには、
結果にhungryになること、がどうしても必要である。
とちょっと過激なことを書いてしまいましたが(-_-;)、
いずれにしても上記の三つの形容詞は大切にしたい。
この三つの形容詞の被修飾語となれるような人が、
うちの職場には一人いて、
いつかその人みたく自分がなれればよいと、
日々邁進したいと思います。
logical, global, hungry、だ。
logical.
前回記事と重複するが、
第一に、とにかく論理(演繹・帰納)に厳格さをもたせること。
実用的な観点からいえば、
仮説を立案して検証するプロセスを、
疑義がはさめない程、厳格かつ説得的に行うということである。
第二に、仮説というものは、
必ず無意識的に何らかの前提条件を置いている。
「Aという前提があるから、解決策/解決すべき問題(仮説)はBである」
といった具合にである。
この隠れた前提条件Aを意識化し、常に疑いの目を向け、
既存の仮説を変更/破壊し、よりよい仮説を生み出していく必要がある。
そうでなければ、B(仮説)はありきたりのものしかでないだろう。
まとめると、仮説としてはあらゆる可能性を検討し、
一番もっともらしいものに対して、厳格なlogicをもって検討する。
これが価値のある知的生産の在り方だと思う。
global.
日本は特殊だ。
もちろん、地球上の全ての地域に一定程度の特殊性はあるにしても、
日本社会は、グローバル社会から一種の隔絶状態におかれたまま今日に至っている。
だから、グローバルでは常識なことは、日本で非常識であったり、
その逆もまた然りである。
そのことを意識したうえで、
敢えて日本が特殊な道をゆく、ということならまだいいが、
ほとんどの日本人が自分がグローバルであるのかどうか意識しないし、
そんなことを考えるのは意味がないと思っている。
典型的な「日本村」である。
もちろん、日本の特殊性がいろいろな意味で強みとなっていた過去なら、
良かったのかもしれないが、今はそれが弱みとなっている。
(典型的には、日本の労働生産性の低さを見れば一目瞭然)
だからこそ、グローバルスタンダードに照らして、
日本での所与の常識を、「当たり前」と思わないマインドが必要である。
hungry.
最後にして、最も大切にすべきである。
なぜなら、logicalでglobalであっても、
結果を残せなければ意味がない。
そのためには、やや精神論的ではあるが、
結果に対して邁進する必要がある。
たまに、何かをする際に「態度」や「姿勢」が大事だという人がある。
個人的には、こうした価値観は大嫌いである。
大切なのは結果であって、「態度」や「姿勢」のようなプロセスには、
何の意味もないし、何も生み出さない。
本当の意味で自分が価値のある存在になるためには、
結果にhungryになること、がどうしても必要である。
とちょっと過激なことを書いてしまいましたが(-_-;)、
いずれにしても上記の三つの形容詞は大切にしたい。
この三つの形容詞の被修飾語となれるような人が、
うちの職場には一人いて、
いつかその人みたく自分がなれればよいと、
日々邁進したいと思います。