K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

大切にしたい形容詞

2011-03-06 22:39:28 | 能力
好きな形容詞が三つある。

logical, global, hungry、だ。


logical.
前回記事と重複するが、
第一に、とにかく論理(演繹・帰納)に厳格さをもたせること。
実用的な観点からいえば、
仮説を立案して検証するプロセスを、
疑義がはさめない程、厳格かつ説得的に行うということである。

第二に、仮説というものは、
必ず無意識的に何らかの前提条件を置いている。
「Aという前提があるから、解決策/解決すべき問題(仮説)はBである」
といった具合にである。
この隠れた前提条件Aを意識化し、常に疑いの目を向け、
既存の仮説を変更/破壊し、よりよい仮説を生み出していく必要がある。
そうでなければ、B(仮説)はありきたりのものしかでないだろう。

まとめると、仮説としてはあらゆる可能性を検討し、
一番もっともらしいものに対して、厳格なlogicをもって検討する。
これが価値のある知的生産の在り方だと思う。


global.
日本は特殊だ。
もちろん、地球上の全ての地域に一定程度の特殊性はあるにしても、
日本社会は、グローバル社会から一種の隔絶状態におかれたまま今日に至っている。
だから、グローバルでは常識なことは、日本で非常識であったり、
その逆もまた然りである。

そのことを意識したうえで、
敢えて日本が特殊な道をゆく、ということならまだいいが、
ほとんどの日本人が自分がグローバルであるのかどうか意識しないし、
そんなことを考えるのは意味がないと思っている。
典型的な「日本村」である。

もちろん、日本の特殊性がいろいろな意味で強みとなっていた過去なら、
良かったのかもしれないが、今はそれが弱みとなっている。
(典型的には、日本の労働生産性の低さを見れば一目瞭然)

だからこそ、グローバルスタンダードに照らして、
日本での所与の常識を、「当たり前」と思わないマインドが必要である。


hungry.
最後にして、最も大切にすべきである。
なぜなら、logicalでglobalであっても、
結果を残せなければ意味がない。
そのためには、やや精神論的ではあるが、
結果に対して邁進する必要がある。

たまに、何かをする際に「態度」や「姿勢」が大事だという人がある。
個人的には、こうした価値観は大嫌いである。
大切なのは結果であって、「態度」や「姿勢」のようなプロセスには、
何の意味もないし、何も生み出さない。

本当の意味で自分が価値のある存在になるためには、
結果にhungryになること、がどうしても必要である。


とちょっと過激なことを書いてしまいましたが(-_-;)、
いずれにしても上記の三つの形容詞は大切にしたい。

この三つの形容詞の被修飾語となれるような人が、
うちの職場には一人いて、
いつかその人みたく自分がなれればよいと、
日々邁進したいと思います。

語学か数学か

2010-08-14 19:52:24 | 能力
こんにちは~

Kは完全に夏休みモードに入っておりました。
マレーシアのペナン島というところでダラダラしたり、
伊豆にダイビングに行ったりと、
相当遊び呆けていたので、仕事をする気に全然なりません。

ですが、時というのは無情(≠無常)なもので、月曜日から働かなければならないようです。
ウップス。



さてさて、Kの会社では目先の仕事をしているだけでも何らかのスキルは付くと思うのですが、
自分にとって望ましいスキルをつけようと思うと、
やはり仕事以外で自主的に勉強しなければなりません。

んでもって、長期的な視野でみた場合、現時点でやるべきことは語学と数学であると思っています。

語学に関しては、Kの目標がグローバルな展開と密接に結びついているから。
少なくとも英語に関してはマストでメンテナンスが欠かせません。
問題はその他に中国語を本格的にやるかどうか。

数学は経済を理解するためにどうしても必要だと思ったから。
社会を的確に分析するためには、やはり今までの知識では限界があって、
お金や物のうねりを理解できないとどうしても厳しい。
そのためには経済学に関して少しは知っておく必要があると思っているんだけど、
勉強していくと数学なしでは理解が一般人レベルに留まってしまう。



さて、この中国語と数学。
どちらを次の一手とするか。
どちらが自分にとって重要なスキルにつながり、目標に近づくことができ、
ひいては社会への貢献や改善を最大化しうるか。

うーむ。
自分のコアコンピタンスは語学能力ではない以上、
やはり数学にすべきか。

成長したからこそ・・・

2010-05-19 00:26:05 | 能力
最近、頭の処理スピードが格段に上がった気がする。
それはそれで嬉しいことなのだけど、成長した時に過去を振り返ると、
昔の自分はなんてアホだったんだろうって少し情けなくなる。
そんな感覚が、ここ数年続いております。


思えば、一年前はイギリスにいたんだよね。
あの時はまだまだ未熟で、今のような処理能力があれば、
ちゃっちゃとレポート片づけて、他の楽しいことも多くできたんだろう。
そんなことを考えると少し悔しい。


でも、きっといつも夢中になって頑張ってたから、
今そういう「よい後悔」ができるのだろう。


そう思うことで一件落着!


・・・ってわけにはいかず笑、
やっぱもっと友達に優しくできだだろうし、
旅行もできただろうし、他の何かにチャレンジできたかもしれない。
くやしいなぁ。

リーダーシップ

2010-04-12 22:48:44 | 能力
何となく、ひっかかる一日だった。


今日グループワークがあって、Kがリーダーとなって取りまとめをした。
結果は良かったと思う。
研修の講師によると時間以内にまとまったのは、Kの会社が初めてらしい。
(とはいえ、K以外の班もまとまっていたので、Kの自慢にはなりませんが。)

個々の能力は高い。
これに関しては疑いようもない。
けど、Kも含めた皆が個人技につっぱしって、
最後は強引にまとめたという感じをぬぐいされない。


個人技が強いのは良いことだが、
グループワークの醍醐味は1+1+1+1+1を10にも100にも出来るところにある。
どんなに優秀だって、個人で出来ることはたかが知れている。

だから、個人技で強引にまとめたグループワークは、
グループワークって呼べないんじゃないかって思う。


当然、リーダーのKが上手くまとめなければならなかったんだけど、
その能力を全然発揮できなかった。
思えば、今まで自分の能力をいかに高めるかということには必死だった一方、
他人の能力をいかに高めるかということには全く無頓着だったなぁ。

もちろん、Kはリーダーって柄じゃないし、リーダーになりたいってわけでもない。
けど、リーダーシップは今後あらゆる局面で求められるだろう。
それにKの長期的目標に照らし合わせれば、必須のビジネススキルとなるかもしれない。


日本はリーダーシップに秀でた人材が少ないといわれる。

けど、日本人だからってのは、きっと言いわけにはならないんだろうねぇ。

行動力の問題<再考>

2010-04-08 22:41:25 | 能力
人の能力を「モレなくダブりなく」分けるというのは、何とも悩ましい問題です。

とりわけ「ダブりなく」はできても「モレなく」は難しい。

それは「~力」と題された、何とも如何わしい書籍が
店頭に並んでいることからも明らかだと思います。
「そんなものまで能力として扱うんですか!?」
なんて思うこともしばしば。
人の能力の分類にモレがある証拠です。


とまぁ話は若干それましたが、
Kも度々能力というものをいくつかに分類して考えてきましたが、
その分類方法に正解はありません。
いかようにも分類できます。

とはいえ、個人の総合力を定量的に図るためには、
ある程度の包括性は担保されていないといけない。

そんな折、この前ある能力診断をしました。
それは、能力を行動力・洞察力・思考力・閃きの四つに分類するという中々の優れもの。


そして衝撃の結果が!!??


Kの場合、洞察力・思考力・閃きは優れているんだけれども、
行動力は全くないという結果に
いやね、最初は三つも良いんだからいっかって思っていたんだけど、
だんだん行動力のなさというのが、結構致命的な欠陥であるように思えてきたのです。


確かに、勝負どころでは、
少なくとも(感覚的に)7-8割の勝算が得られるまで高めてから勝負するという
習慣が身についていたような気がします。
もちろん、それはそれで悪いことじゃないんだけれども、
毎回それをやっていたら時間がかかりすぎる。
特にリスクが低い状況では、
何も考えずに「とりあえずやってみる」という積極性と行動力が必要なのだが、
それがあまりできていないのではと思うのです。


あまり伝わってないかもだけど、これはKにとって大問題。


可能な限り早く解決しよう

自分を好きになり、人を好きになる。

2010-04-05 22:52:20 | 能力
物事に「本質」というものがあるかどうかは議論の分かれるところかもしれません。

まぁしかし、ここでは「本質」というものがあると仮定して、それを
「あらゆる諸要素をまとめ上げる最上位概念として高度に抽象化された概念」
と定義するならば、
コミュニケーションに関する本質とは、
「自分を好きになり、人を好きになる」という極めて単純なことかもしれない。


こう見えてKは結構人見知りだということは前々から書いてきたけど、
その都度どうすればコミュニケーション能力を上げられるか
という点について結構考えてきました。
しかし、これについては人それぞれの見解があるので、
何をすれば良いのかあまり分からなかったという経緯があります。
笑顔になりましょうやら、挨拶をしましょうやら、、、
まぁ一つ一つは分かるんだけど、
このようなコミュニケーションの諸要素を全て意識していたらノイローゼになってしまう笑。

そんな折、最近気付いたのは、
そうしたコミュニケーションの技術的側面に本質はないのかなぁと。
本質はもっと心の部分にあって、自分と人を好きになれば、
おのずと技術という外形的な部分にも表れるのではないかと思うようになってきたのです。


「自分を好きになり、人を好きになる」


非常にシンプルで基本的なこと。
けど、そんなことをどっかでおざなりにしてきたのではないかなぁと、
最近気付かされました。

長い間研究者をしていましたから、
どうしても自分や人に批判的になってしまうという一種の職業病みたいなものがあります。

もちろん、だからといって批判の精神を捨てればよいという単純なものではなく、
自分と人への尊敬とうまく共存させていかなきゃいけないのではないかと、
思うこのごろであります。


これがなかなか難しいんだけどね。

新聞を読む

2009-11-22 01:59:29 | 能力
こんにちは。

そろそろ本格的に修論を書かねばということで、少し時間がなくなってきました。
ちょっと前までは、政治・経済などについて、いろんな本をまったり読んだりしていたのですが、
最近はその時間を論文に当てなきゃいかんと思っています。

とはいっても、新聞だけは読みます。
どんなに忙しいビジネスマンでも流石に読むでしょう。

そう、毎日読むのです。

なので、最近考えているのは、実は様々な本や雑誌を読むよりも、
新聞の「読み方」を少し変えてやることで、
自分の知識や分析力を飛躍的に向上できるのではないかと思うのです。

言いかえれば、一番自分の見識を広げる近道は、
「たまに読む」本や雑誌ではなく、
「毎日読む」新聞にあるのではと思ってます。


では、短い時間の中で、新聞をいかに効率的に読むか。


もちろん人それぞれでいいのですが、
Kは新聞を読む中で、「一つ」だけ疑問を見出してそれを調べる、ということをしています。
二つ以上やると時間を食うので、一日「一つ」にしています。
(どうしても二つ以上ある場合は、その疑問を書きだしておいて、後日にします。)

なぜか。以下のようなメリットがあるのではと思います。

①疑問を見つけようとする姿勢で新聞を読むために、自然と分析的に読むようになる。
(=分析力強化)
②見出した疑問を自分で調べることにより、記憶に定着しやすくなる。
(=知識量の拡充)
③定着した記憶は、その他の知識と「つながる」ことにより、日本や世界が次第にマクロに見えるようになる。
(=物事を構造化できるようになる)

まぁこんなとこでしょうか。

但し、大きすぎる疑問はだめです。
例えば、「世界経済は今後どうなるか?」、「アフガン情勢の今後は?」
などの疑問を調べたら日が暮れてしまいます。(暮れても分からないでしょうが笑)

適度に小さい疑問を積み重ねて行って、
それが次第に有機的につながればいいなぁと思っています。

と、えらそうなこといっても、
まだKもダメダメなんだけどねぇ・・・

好奇心が止まらない

2009-11-13 17:32:49 | 能力
最近、好奇心には二通りある気がしている。


一つは、専門分野に対する深い理解を求めるという意味での好奇心で、
もう一つが、幅広い知識とその知識間のつながり・構造に対する好奇心だ。


研究者としては前者の好奇心が強くあるべきだと思うが、Kはその点全くといってよいほどない。
本当に研究者の才能は皆無ですわ、と最近思っています。

けど、逆に後者の意味での好奇心は、最近ますます強くなっているので困る。
特に政治・経済・国際問題・経営などなど、
分かれば分かるほど分からなくなっていく感覚が楽しくて、好奇心が止まらない。

なんと表現していいのか。

「分からない」ことが、何だか嬉しいのだ。(アホみたいですが)

でも、これが最近の悩みのタネなのです。
なぜなら、全く論文が進まないからだ。
「なぜ?」と思いだしたら、最後。
とことん調べないと気が済まない。

もちろんそれが自分の専門分野に限られているならいいのですが、
Kの場合、主に専門分野外のことに興味を持ち始めている始末。


昨日なんて、専門のことを放ったらかしにしてたから、
また先生に怒られちゃったよ。

トホホ

さて、どうしたものか。

集中力と行動力!

2009-10-28 12:34:16 | 能力
本当は認めたくはないが認めざるをえないことは、
集中力と行動力が二流のレベルに留まっているということだ。

特に留学していた頃のことを反省する度にそれが痛感されて、本当に嫌になる。

留学時にもっと成果を挙げられたとするならば、いったい何が足りなかったのかと考えると、
最終的に集中力と行動力の二点が決定的に欠如していたという結論に達せざるをえない。

具体的には、まず集中力が足りなかったために、
①研究において満足のいく成果がでないことが度々あった。
②研究を効率的に行うことができなかったために、研究以外の課外活動に従事することができなかった。

そして、行動力が足りなかったために、
①研究以外の課外活動において、留学ならではの十分な刺激を受けることができなかった。
②語学能力が自分の理想よりも伸びなかった。

この二点は連関している。
すなわち集中力があれば、効率的にレポートを完成させ、他の活動に割く時間を作れたはずなのだ。
そして行動力があれば、研究以外の時間帯を最大限に利用できたはずなのだ。

全く思い返すと自分にあきれるばかりだな



けど後悔ばかりしていても意味がないので、
これからこの自分の弱点を克服するためにどうするかを考えねばならない。
中長期的にみれば、この二つの能力はあらゆる能力値の向上を支える本質的な能力だからだ。

「向上」はいかなる時も忘れちゃいかんよ、ホントに。

自分アセスメント

2009-07-23 08:05:17 | 能力
帰国まで二週間をきり、何となく英国が名残惜しい今日この頃です。
さて、このblogも帰国に伴い終了するので、
これから帰国までの期間は今までのことを振り返りつつ、
最後のまとめをしたいと思います。

その第一弾は、具体的に自分がどう変わったか、ということ。
項目別に振り返っていきたいと思います。

1.研究・地頭

全体的にどうでしょう、70点といったところでしょうか。
その場その場において、やれるだけのことはやったつもりだし、
将来の目的に整合性のある研究ができたと思う。

ただその反面、自分の不甲斐無さにずっと悩まされ続けてきた。
めちゃくちゃ努力したつもりなのに、全然評価されなかったこともある。
とにかく成果を上げることを最優先としてきた俺にとって、
それがものすごく心に痛かった。
「なんで?俺ってここまでなのか?」って、何回も何回も心の中で思った。
一人で葛藤しながら、何もかも投げ出したいと思ったこともあった。
ただそれでも、不細工に目標に執着してきたことに、
きっと意味があったのだと、今では思う。

「どうすれば、もっとよくなる?」
「どうすれば、あいつみたいにスマートにこなせる?」
「どうすれば、もっと上を目指せる?」

そういうことを毎日のように考えていくうちに、
自分の論理思考力も計画遂行能力も、帰国前と比べて格段に上がったと思う。

だからこそ、今となっては、
「なんて昔はバカだったんだ」とか、
「なんであの時、こうしなかったんだ?」
とか思って、やりきれなくなる時もあるけど、
それはきっと後悔じゃなっくて、成長なんだと思うようにしている。
毎日できる限りのことをやった成果なんだからね。

研究も、それに伴う地頭も、もちろんパーフェクトとは程遠かった。
でもパーフェクトじゃなかったことに、きっといつか意味を見いだせるんじゃないかと思う。

2.語学

これは、80点くらいかな。
基本的には当初の目的は達成できた。
今は人とあまりコミュニケーションをしていないので若干落ち気味ですが、
ノンネイティブとして英語力は可能な限りまで上げたと思います。

リーディングやライティングはネイティブと同程度にできるようになったし、
スピーキングやリスニングも、ノンネイティブとしては納得のレベルまで達した。

ただ気がかりなのは、当初の目的に挙げていた中国語が最近全然できていないこと。
さすがに、今は他のことを優先しなきゃいけないので。
でも、友人とも約束したので、いつかは使いこなせるようになればと思っています。
これは帰国後の課題として取っておくことにします。

3.人間

これは最も抽象的で分かりにくいけど、
どこまで自分とその目的のために好ましい方向に変わったかという観点からすれば、
100点あげてもいいんじゃないかと思います。

これに関しては、上記の二項目と違って、変わろうと意識していたわけじゃありません。
でも英国という環境の中で、ずっと一人で戦っていくうちに、
自分の器とキャパシティがものすごく変化していくのが分かった。

自分のコアがぶちのめされて、また再構築して、また壊されて・・・
ってやっていく内に、自己の本質に近づき、
また同時に他人を心から認められるようになった。

今までそれは自信がついたからじゃないかと思っていたし、
それはこのblogでもたびたび言ってきたけど、
それは半分当たっていて半分はずれているように思う。

自信というのは本質的に相対的なもので、
基本は他人との比較によって生まれるものだと思ってきたけど、
今の俺の「それ」は何となく違うからだ。

う~ん。

すまぬ。これ以上はうまい言葉が見つからない。



とりあえず、明暗あったけど、結構頑張ったんじゃないかなって思います。