K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

有休

2011-05-25 15:53:03 | 日本情勢
有休をとってしまった~
しかも明日も。

ごろごろしてまつ。

愚かな群れ

2011-03-27 23:21:23 | 日本情勢
日本人は群れるのが好きでたまらないようだ。


「群れ」を作るということが、
目的合理性に照らして合致していようとしなかろうと、
そんなことは関係がない。

あたかも「群れ」を作ることそのものが目的であるかのように、
あるいはそれが生物的な本能とでもいうべきかのように、
群れを作らずにはいられない。

日本人の社会にはそんな圧力がある。


当たり前のことだが、ある方向に行く推進力という点では、
群れは個人に勝るが、別の方向に曲がる転換点においては、
個人の力が強くないとどうしようもない。

そして現在の日本社会や多くの日本企業は、
新たな方向に舵を切るべき転換点にある。

しかし、そんなことはおかまいなしに、
「出る杭」は打たれ、
全ての人材を均質化しようとする。


そんな日本社会に強い憤りを覚えるが、
もっと憤りを覚えるのは、
それを所与として、当たり前として感じている、
日本人の知力のなさについてである。

テレビの時代の終焉とメディアの多様化

2011-03-15 23:40:09 | 日本情勢
地震でしたね。

白ひげの力でしょうか?

まぁどうでもいいKの妄想は置いといて、
本題に入ります。



テレビの時代が終わる。

一昔前は、費やす時間にしても、信頼性にしても、
テレビは第一のメディアであった。
だからコンテンツとしても端末としても、
テレビはメディアの中で第一の存在であった。

しかし、ここ10年間くらいで、
このトレンドが終焉を迎えつつある。
テレビに費やす時間が減少しているということは、
統計情報から分かっている。
またアンケート等からテレビメディアへの信頼性が落ちていることも、
よく言われていることだ。


では代わって、どのメディアが、
今後10年間くらいの中核的な位置を占めるのであろうか。
コンテンツとしてはネット情報が中心になるのだろうが、
端末の観点からは、
スマートフォン、タブレット端末、PC、
等が考えられるが、確信を持ってどれとは言えない。

おそらく、人のライフスタイルに合わせて、
情報をとる端末は多様化していくのだと思う。
同時に、ゆるやかに、
PCやテレビ等の「オールドメディア」から
スマートフォンやタブレット等の「ニューメディア」に移行するだろう。


このトレンドから言えることは、
(当たり前だが)人は「いつでもどこでも」を求めるということだ。
現代人のライフスタイルは、昔と比べて、
外で過ごす時間が多くなっていることを考えると、
スマートフォンやタブレットの方が便利なのは明らかだ。

そう考えると、付加情報をつけるという観点からいえば、
(例えば)テレビは絶対スマートフォンに敵わない。
オールドメディアにポータブル性はなく、
結局家にいる時しか情報にアクセスできないからだ。
その意味では、おそらく「スマートテレビ」の需要は、
限定的にとどまるだろう。
別の言い方をすれば、テレビのコモディティ化は止まらず、
価格は値下がり続ける。

まぁ情報ではなく、画面に付加価値をつけるという意味で、
3DTVはあるが、流行るだろうか。
これも他の端末の模倣可能性が高いことを考えると、
前途は暗い。


いずれにしても、今後10年は支配的なメディアは現れず、
多様化の方向に進む。
そしてより長期トレンドとしては、
移動端末に需要が移るだろう。


そして、コンテンツ企業にしろプラットフォーム企業にしろ端末企業にしろ、
メディア変化の波に迅速に乗れる企業と乗れない企業では、
今後大きな差が開くに違いない。

最近の諸事情

2010-06-30 22:52:12 | 日本情勢
Kの能力に問題アリ!?
と改めて思う一日でした。

①思考力
完全に低下していた。
原因は完全に寝不足なのだが、それでも最低限の思考力は確保しておきたいものだ。
特にKはどうやら人より多くの睡眠を必要とするらしい・・・
まったくもって煩わしい。

②コミュニケーション能力
前からずっと言い続けていることなのだけど、相変わらず人見知りです。
とりあえず先の展開は気にせずに、「話しかけてみる」をモットーに頑張ります。

③調査票の言葉
調査票(アンケート)使った調査では、
ちょっとした言葉づかいが社会を正しく切り取れるかどうかの分かれ目となる。
そんなことを改めて思い知らされました。
言葉は認識を形成し、また認識が言葉を形成する。
双方向性があるのだなあと。


明日は今日より数倍高い生産性を確保したい。

地域活性化と問題の定義

2010-05-18 00:22:00 | 日本情勢
結構前になるけれども、GWに青森に行ってきた。
リンゴのイメージの強い青森だけれど、実は海鮮等の特産品が多く、しかもおいしくて驚いた。
けど逆にいえば、この「驚いた」ことが問題なのだと感じた。
例えば、北海道なら元々おいしいことが分かっているので、そんなに驚かないだろう。
青森県においしい特産品があると知らなかったからこそ「驚いた」のである。



まぁ前置はさておき、青森に行ってから地域活性化とは何だろうと考えるようになった。
実は地域活性化が成功した事例というのは、
全国自治体数が1700くらいあることを鑑みれば、そんなに多くない。
打ち手を適当に(思いつきで)打ったら成功した、って事例がほとんどだろう。



そもそも、この「地域活性化」という言葉は厄介である。
地域活性化から想起されるイメージは人それぞれであり、定義が難しいからだ。

より厳格に定義するには、まず目指すべき姿を特定することが必要である。
その上で現状を分析し、目指すべき姿とのギャップを把握する。
このギャップを「問題」という。
したがって、目指すべき姿が特定できないと、解決すべき「問題」が見えないということになる。
当然「問題」が見えなければ、有効な解決策(地域活性化の施策)が打てない。

多くの自治体の抱えている課題はここにある。
ビジョン(=目指すべき姿)がない。
だから地域活性化と言われても何をすべきか分からない。


世界の有名な地方都市には「カラー」がある。
少なくともある程度は、自分たちが目指すべき姿が分かっているからであろう。
そうした方向性があるのは、国の力もあるし、地域の仕組みも作用していると思う。
(綿密に調査していないので、はっきりとは言えませんが)



いずれにしても、地域が目指すべき姿を打ち出さずに、
その場しのぎの振興策を打っていくのは、何となく危なっかしく思えるのは気のせいだろうか?

現代の日本的組織とは?

2010-05-01 02:10:38 | 日本情勢
日本的経営というと、一般的には終身雇用・年功序列・企業別組合を指す
というのは周知の通りである。
まぁ、企業別組合にはそれほど触れられることはないと思うので、
終身雇用制と年功序列制をもって日本的経営ということが多い。
(やや乱暴ではあるが・・・)

バブルがはじけて日本経済が沈没する中で、
この終身雇用制と年功序列制が、日本の競争力を削ぐ源泉だと言われてきた。
逆に、雇用流動性を高め、成果主義を導入した企業こそが強いのだと言われてきた。
Kも基本的にはそう考えていたのかもしれない。

けど働いてみて、実情は少し違うのかなって思うようになった。
やはり、日本人には個人主義を前提とした契約労働制と成果主義は合わないのではないかと思う。


日本では、良くも悪くも、歴史的に「個」が十分に発達してこなかった。
だから個人のアイデンティティーは「個」の中でなく、集団に属することが多い。
つまり、「~に属する人間」ということで自分を自分と認識できるということだ。

結果として、人が最も多く時間を過ごす団体、
すなわち「会社」が多くの日本人のアイデンティティーの一部となっている。
だから日本の「会社」に属する人々のコミュニティーは、
個人主義が発達している西欧各国に比べて相当程度に密である。
全人格的に結び付けられた互恵関係といっても、あながち誇張ではないだろう。
逆に成果で結びつけられた契約関係では、どうしても日本人は不安を覚える。


このように人格的に結びついた組織としての日本的会社は、
やはり人を簡単に切ることも出来ないし、成果だけで人を評価することも難しい。
「能力の結びつき」ではなく、あくまで「人の結びつき」なのだ。
こうした組織の特徴は、高い忠誠心と強固な団結力である。

一方で、競争原理がうまく働かず、
怠惰になったり没個性的になったりというデメリットもある。
結果として生産性が下がることもしばしばだ。



余談だが、イギリスにいた頃、
フッドという行政組織論の第一人者の本を読んだことを思い出した。
彼によると、人間の組織は文化的に以下の四つの分類しかないという。
①ヒエラルキー型
②水平横断型
③個人主義型
④カオス型
この分類でいけば、伝統的な日本の会社は①、欧米のは③ということになるだろう。



日本に個人主義は合わない。
かといって、現状の年功序列と終身雇用に裏付けられたヒエラルキー型では、
高い生産性の実現は難しいかもしれない。
ではどうするか。

答えは②?
団結力や忠誠心は保持しつつ、横のつながりを強化し、上下関係のしがらみを打破する。
それでいて、安心して働けるような組織環境を体現する。
そんな形の組織は可能だろうか?


例えば、個人ではなく、横の協力関係に基づいた成果主義は比較的な馴染むのではないか?
そんな浅はかな考えはもっていますが、正直まだよく分かりません。

日本市場の幻想

2010-03-15 20:57:52 | 日本情勢
英国に留学していた時のことだ。

友達に「なぜ日本人は留学しないの?」と問われたことがある。

もっともな疑問だ。
Kの留学中、中国人やインド人は多かったが日本人の留学生はほとんど見かけなかったからだ。
単純な人口では中国やインドの方が多いが、
留学することができるほどの富裕層はまだまだ日本人の方が多い。
それなのに何故いないのか。

その時Kはこう答えたことを覚えている。
「日本人は別に留学しなくてもやっていけるんだよ。」
もちろん文化の差や家庭的・言語的要因など他にも理由はあるだろうが、
「留学しなくても大丈夫」という安心感が一番大きいのではないだろうか。

そして友達はいった。
「いいね。日本人はうらやましいよ。」
もちろん彼は皮肉で言ったわけではないが、少し複雑な気持ちになったのを覚えている。


***


なぜ日本人は留学しなくてもやっていけるのか。

その答えは1億2千万を有する巨大な成熟市場にある。
この数字は世界の人口比では50分の1にも満たない。
それでも、(特に昔)日本市場は大きな意味を持っていた。

なぜなら、かつては企業がターゲットとする市場は、
一定の経済力のある中間層以上に限られていたからである。
そのため、北米、ヨーロッパ、そして日本を中心とする一部のアジアが有力市場であり、
その他の地域の人々は資本主義の論理から大方排除されていた。

だから1億2千万の市場は相対的に非常に大きな意味を持っていた。
そしてこの市場の中であらゆる日本企業が成長した。
一部の大企業を除けば海外進出をする必要も差し迫ってはなかった。
(あるとしても海外は労働力の供給のためにあり、最終消費地はあくまで日本であった。)
だから、供給と需要を基本的に日本市場で回すことによって
日本企業と日本経済は発展することができた。
このような状況は、しばしば「ガラパゴス諸島」とか「パラダイス鎖国」
と揶揄されてきた。


しかし、今、少なくともこれからに関しては、それは幻想である。


日本市場は相対的にどんどん小さくなる。
新興市場が大きくなるからだ。
新興市場に迫る資本主義のうねりは、新中間層と呼ばれる人たちだけでなく、
BOP(ピラミッドの底辺)に属する人たちも飲み込もうとしている。
そして、こうした拡大するグローバル市場で勝てる企業が、今後競争力をつけることになる。
日本企業とて、この流れに逆らうことはできない。


そうなったらどうなるか。


日本企業が未来の競争に勝てるかどうかはまだ不透明である。
しかし、勝とうが負けようが、グローバル競争で勝てる人材が必要となるのは間違いない。
言い換えれば、そうした人材に市場価値がつき、そうでない人材との格差ができる。
日本人という国籍によって豊かさを謳歌できる時代はもう来ない。


***


だからその時、Kは複雑な気持ちになった。

自分も日本人だから、仲間がこれからも豊かな生活をしていてほしいという気持ちはある。

でも日本人はこんな大事な時代に内向きになりすぎだ。
どこをみても、「何か分からないけどチャレンジしてみよう」って
気概のある人をほとんどみかけない。
これには一抹以上の不安を覚えてしまう。

・・・

さて、なんとかならないものだろうか。

経済政策を見る視点

2010-03-02 00:54:52 | 日本情勢
経済政策というのはよく耳にする言葉であるが、
その範疇にはあらゆる種類の政策を含むために全容を把握しにくい。
そこで、この記事では経済政策(特に日本の経済政策)を見るためのKなりの視点を整理したい。
尚、中央銀行による金融政策はここでは扱わない。


経済政策とは何でどうあるべきか。
これについて、Kは三つの視点から見るようにしている。


第一に、財政健全化の視点。
これは直接的には経済政策といえないかもしれないが、
経済と強い関連をもつことを勘案すればこの視点は重要である。

財政健全化とは、①歳入を増やし、②歳出を削ることである。
歳入増加に関して、例えば消費税が重要である。
消費税はその他の税よりも安定的収入が得られる反面、
民主主義社会においては国民の支持を得にくい。
なので、選挙の度に低い消費税を公約した政党が当選し、
財政健全化への道が遠のくという「消費税の罠」に陥る可能性も否定できない。
現在の政府も消費税を少なくとも四年間は上げないことを公言しているので、
今後その他の税による歳入増加の議論がなされるだろう。

また歳出を削るという側面も重要だ。
特に昨今では公務員が目の敵にされているので、
公務員制度改革や独法改革などが歳出削減の中心となっている。
これは消費税などとは異なり国民の賛同が得やすい反面、
その削減量には上限があり、また削減対象を間違えると国力低下を招きかねない。


二つ目の視点は、景気対策である。
このことを指して経済政策と呼ぶ場合も多い。
(中央銀行ではなく)政府の行う景気対策は、支出と規制に関するものに分けられる。
政府が支出を行うことによる景気対策は、公共工事から子供手当まで多様である。
この点について考えるべきは乗数効果が見込まれるかということ。
つまり、政府の支出に対して何倍もの景気浮揚の効果があるかということ。
例えば、子供手当はほとんどその効果はないと思う。
一方、最近若干議題に上がっている法人税の減税は効果的だろう。

次に規制を緩和すること。
規制とは政府の重要な役割の一つで、人々の行動をある一定の方向に導くことである。
それが経済政策の一環となるのは、
ある種の規制が企業の競争力を阻害している可能性があるからである。
逆にいえば、緩和すれば競争力を高められる規制もある。
小泉政権の反省からか現政権ではあまり議論に上がっていないようだが、
規制改革は非常に重要な経済対策となりうる。
また前者と違って支出も伴わないので、今後間違いなく議論となるだろう。


第三に、分配の視点である。
分配はそれ自体では景気対策とならないことが多いが、
社会を経済的な側面から安定させるという意味では経済政策の一環と考えてよいだろう。
特に重要なのは、経済的なセーフティネットの議論である。
規制緩和を続けて競争社会を目指せば、格差を広げてしまう恐れがあるからだ。
(もうすでに格差社会かどうかはさておき。。)
例えば、デンマークのような国は、厚いセーフティネットと共に強力な競争政策を行っている。
それを日本が目指せばよいという単純なことを言うつもりはない。
ただし、誰が経済政策の利益を享受するのかということを考えるためには、
経済的な分配政策も、経済全体のパイを拡げる景気対策と同様に注視する必要がある。


この三つの視点の強弱と組み合わせ如何で、経済政策の特徴は大体説明できるように思う。

以上、雑観。

クイズ番組の危うさ

2010-01-23 19:13:56 | 日本情勢
クイズ番組ブームである。
多分、若いころの勉強を思い出して楽しみたい大人に加えて、
子供の教育にとって有用だと考える家族層にうけているのではないかと思う。

もちろんそれを楽しむこと自体を否定する気はない。
けれど、クイズ番組ブームは日本全体の教育の傾向を反映している気がしていて、
もしそうならば日本の将来にとって非常に危ういと感じている。


クイズ番組と日本の教育を見ると、両者に共通しているのは「知識の追求」だ。
良くいえば暗記、悪くいえば丸覚えである。
確かにバラエティの感覚からいえば楽しいかもしれないが、
それが現在もしくは将来有用かといえば、答えはほとんどNoであろう。

言うまでもないことかもしれないが、インターネットが普及した現在において、
知識はほんの数秒で手に入る。
言い換えれば、知識があふれる情報社会の中では、「暗記人間」には市場価値が薄い。
それ自体では他の人材と差別化できず、希少性がないからだ。

例えば、「1985年に締結されたドル安に誘導するための国際上の合意は?」
と問われて「プラザ合意」と答えられてもあまり意味がない。
インターネットで調べれば誰でも分かるからだ。
そうではなくて、より重要なのは、それがなぜどのように起こり、
後世にいかなる影響を与え、今にどう活かせるかを考えられることである。

もちろんこれはただの例にすぎないし、この例自体に意味があるわけじゃない。
何が言いたいのかといえば、「暗記力」より「創造力」ないしは「思考力」が
これから大事になるだろうということだ。

なぜなら、日本はすでに先進国の一員であり、
創造力と思考力を働かせて自ら道を切り開いていかなければならないからである。
ミクロな観点からいえば、グローバル社会の中では、目指すべきモデルは自分の中にしかない。
だから「自ら考えることのできる」人材はこれから求められる一方で、
それができない人材は相対的に市場価値が下がるだろう。


したがって、「暗記詰め込み型人間」を作りあげるような現在の教育は間違っている。
(そういうKも暗記大好き人間だったので、自分への皮肉を込めて言っているのだが)
専門ではないのでかじった程度にしか知らないが、
フィンランドやインドでは、創造力や思考力を鍛える教育を導入しているらしい。
クイズ番組のような知識追求型の教育が正しい方向性だという風潮が日本に残っており、
またそうした風潮がクイズ番組によって強化されているならば、
これは上記のような国と比べて国際競争力の低下につながりかねない。

メディアの利権と世論調査

2010-01-20 00:59:32 | 日本情勢
メディアの声は国民の声ではなく、
メディアの声はただメディアの声に過ぎない。


メディアによる見解はその利権を擁護するためとしか思えない時がある。
事務次官の記者会見の禁止、放送利権の制限、そして今回の検察リーク騒動。
ここには全てメディアの利権が絡むため、全力をあげて民主党を批判してきた。

どのような団体にも利権はあり、それを擁護しようとするのは当然のことだ。
だが、許せないのは、
メディアはさも国民の声を代弁しているかのように報道する点にある。
つまり、メディアは民主主義の主権者である国民の威光を借りて、
「自分たちの意見」と分らせないように「自分たちの意見」を発するのである。


そして、その最たるものが世論調査である。


世論と世論調査は違う。
まず世論とは人々の意思の総体である。
言うまでもないが、日本の世論という場合は日本国民の意思の総体のことを言う。
それに対して、世論調査とは、世論をあるプリズムを通じてみせるものである。
しかし、そのプリズムが正確でなければ、
しばしば世論を歪曲して映してしまうのが世論調査の怖いところである。

例えば、確かこんな調査があった。
「普天間基地問題に対する民主党の対応に問題あるかどうか」
この問いに対して、「問題がある」と答えた人が6割を超えたため、
メディアは民主党に早期妥結を促した。
言うまでもなく、早期妥結から示唆されるのは現行案での解決だが、
これは明らかに世論を歪曲している。

なぜなら、「問題がある」と考えている人の中には、
現行案解決を求める人、県外・国外移設を求める人など、あらゆる層が含まれるからだ。
しかし、メディアはしばしばそれを自分の政治的主張に都合のよいように解釈し、
「国民の声だから」として時の政権を批判する。


こんな例は挙げればきりがないので止めておくが、
ここから分かるのは、世論調査はその質問内容によって、そして結果の解釈によって、
かなりの程度において解釈の余地があるということだ。
すなわち、世論は相当程度「作る」ことができる。
だが、それがあたかも国民の声を正確に(つまり、それ以外に裁量の余地なく)
反映する客観的指標のように作用ところに問題がある。


したがって、読者としてできるだけ正確に世論をつかむためには、
なぜその時期に世論調査が行われたのか?
その質問の意図は何か?
表れた数字に別の解釈はできないか?
などということを考えないといけない。


世論調査は世論を見せるものには違いないが、
あくまでも「作られた世論」を見せるものであることに注意しなければ、
簡単に情勢を読み違えることになる。