K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

日本のアイデンティティ

2009-11-27 02:43:14 | 日本情勢
全く根拠のない単なる所感なのだが、最近本屋に行ってぼーっと本を眺めていると、
「日本の・・・」「ニッポンの・・・」「ニッポン人だからできる・・・」
などという銘打つ本が多くなってきた気がする。

要はナショナリスティックな内容の本が多くなってきたということだ。

もちろん、右翼的な内容のものというわけではなくて、
日本のこんなところがいいんじゃないか。
とか、
日本人のこんなところが素晴らしい。
とか、
そんなことを強調する内容の本が増えている気がしているのです。

でもこれは裏を返せば、
日本の、もしくは日本人の、ここがいい!
と言わなければならないような社会状況があるのではないかと思うのです。
言いかえれば、そういわなければやってられないような、
自信をなくした状況がこの国に蔓延しているんじゃないか、
そう思ってしまうのはただの杞憂だろうか。


けど、面白いことに、こうした状況は日本だけじゃない。
他の先進国にも見られる現象なのです。

例えば、イギリスには少し前からBritishness(イギリス人性)という言葉が流行っています。
これはそもそも国の違うイギリス人の中に、
(周知の通りイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)
同じような文化的特性があるのではないか、ということを模索する運動だといえます。
そのことによってイギリス人の「統一感」を増そうというわけです。

同様の状況はドイツやフランスにもあります。(言い方は忘れましたが・・・)

ただ、これらのヨーロッパの国々でこうした言葉が流行った背景には、
ヨーロッパ諸国が数多く抱える移民への嫌悪感があります。
つまり、Britishnessを強調することで、
「あんたらよそ者とはちがう」ってことを暗に言いたいわけです。


しかし日本の場合は違う。
日本の抱える移民人口はヨーロッパの先進国に比べてはるかに少ない。
また日本は歴史的に他国から侵略を受けなかったために、
民族的な均質性が非常に高く、自らのアイデンティティを模索する必要がない。
なのに何故、今自分たちの「すごさ」を誇張する必要があるのか。

それは今までアジアひいては世界をリードしてきた自信と、
そうした地位を失いつつあることの間に生じる矛盾があるのではないかと思うのです。

これから日本のプレゼンスは間違いなく下がる。
そして、そんな事実を受け入れられない日本人がいる。
だから「おれたちはすごいんだ」と声をあげて言わなければならない。
そんな矛盾が私たちの間で蔓延している気がするのです。

ただこうした状況に対して「内向き」になるのは非常に危険だと思うのはKだけでしょうか。

こんなときこそ、まず外をみて、世界をみて、
何が足りないのか、何がダメなのかを逃げずに見つめないといけない気がしています。


・・・


今回の記事はKのただの戯言でした。

ポジティブな状態を作る

2009-11-26 10:56:20 | メンタル
このブログで昔書きましたが、
留学していた時、四つの点において向上を目指していました。
それは、研究、語学力、地頭力、人間力です。

今は語学力は少しお休み中ということで、その他の三点を向上と捉えています。
研究というのは専門分野にとらわれず、見識を広げること。(定義を少し変えました)
地頭力というのはその見識を広げるために不可欠な論理思考力を高めること。
そして、こうした二つの力を支える人間力とは何か。

留学中にもそれを定義しようとしてきましたが、今は
「常にポジティブな状態でいるということ」
というように考えています。

言いかえれば、常に(過剰にならないほどの)一定の自信を持っていること。

これは自分の能力向上のために非常に大切なことと考えています。
なぜならネガティブな状態や自信のない状態でいると、
無駄に後ろを振り返ってしまったり、将来の悪い結果に不安になったりして、
今すべきことに全力投球ができないからです。

いうまでもなく、今すべきことに全力投球するということは、
(大局的な方向性が正しいという前提の上で)
能力向上につながります。
なので、このポジティブな状態を保つということは、
すべての能力向上の核といっていいかもしれません。


けど、それがなかなか難しい。
留学中にそれは嫌というほど痛感しました。
特に何かに打ちのめされそうになったとき、
いかにしてポジティブな状態を保ち、目の前の目標に集中するのか。

これはKの至上命題です。
精神的な弱さのために何度も何度も失敗し続けてきたので、
全くストレスのないこの状況下で笑、このテーマについて少し整理してみたくなりました。
まだ最終的な結論は出ていません。
ただ現段階では以下のようなことが重要と考えています。


それは、第一に落ち込んだ時のネガティブな感情を特定し、効果的対応策を理解する。
可能な限り自分を客観視して、つまり第三者の視点で自分を見つめて、
何に自分が悩んでいるのかをしっかり把握する。
そして、把握した問題を基に効果的な対応策を理解する。

ここまでは頭で考える次元です。
これで解決するなら、それは喜ばしいことです。

しかし、おそらく問題なのはここから。
「頭ではわかっちゃいるが、そんなうまくはいかないよ」というのはよくある話ではないでしょうか。
なぜなら「ネガティブ/ポジティブになる」というのは感情の次元だからです。

ただし第一の段階で自分のやるべきことが見えているはず。
問題は自分が○○をやらねばならないのに、無駄にネガティブな感情が襲って来て、
自分のパフォーマンスに影響を与えてしまうということ。

だがこのネガティブな感情を感じることに全く意味はない。
(なぜなら、もうやるべきことは分かっているのだから)
だから、「ポジティブな状態でいる」ということは、
このネガティブな感情をつぶすこととに他ならないでしょう。

では、どうすべきか。

これは正直、人それぞれ違うと思います。
でも一つの方法として、Kは「自分を笑い飛ばす」というのが有効だと思っています。
やるべきことは分かっているのに、ネガティブな感情に悩んで出来ない時、
「ばかじゃねーか、俺」
と自分を馬鹿にしてみることで、自分を客観視することができ、
結果として自己の状態をポジティブにもっていける(気がします)。

とにかく、「いかなる状況でも楽しめるようにする。」
「やってやろうじゃねーか」という気分を作る。
これが持続性のある向上に不可欠だと思っています。

まぁ感情は難しいですからね。

今でもよりよい方法を模索中なのです。

新聞を読む

2009-11-22 01:59:29 | 能力
こんにちは。

そろそろ本格的に修論を書かねばということで、少し時間がなくなってきました。
ちょっと前までは、政治・経済などについて、いろんな本をまったり読んだりしていたのですが、
最近はその時間を論文に当てなきゃいかんと思っています。

とはいっても、新聞だけは読みます。
どんなに忙しいビジネスマンでも流石に読むでしょう。

そう、毎日読むのです。

なので、最近考えているのは、実は様々な本や雑誌を読むよりも、
新聞の「読み方」を少し変えてやることで、
自分の知識や分析力を飛躍的に向上できるのではないかと思うのです。

言いかえれば、一番自分の見識を広げる近道は、
「たまに読む」本や雑誌ではなく、
「毎日読む」新聞にあるのではと思ってます。


では、短い時間の中で、新聞をいかに効率的に読むか。


もちろん人それぞれでいいのですが、
Kは新聞を読む中で、「一つ」だけ疑問を見出してそれを調べる、ということをしています。
二つ以上やると時間を食うので、一日「一つ」にしています。
(どうしても二つ以上ある場合は、その疑問を書きだしておいて、後日にします。)

なぜか。以下のようなメリットがあるのではと思います。

①疑問を見つけようとする姿勢で新聞を読むために、自然と分析的に読むようになる。
(=分析力強化)
②見出した疑問を自分で調べることにより、記憶に定着しやすくなる。
(=知識量の拡充)
③定着した記憶は、その他の知識と「つながる」ことにより、日本や世界が次第にマクロに見えるようになる。
(=物事を構造化できるようになる)

まぁこんなとこでしょうか。

但し、大きすぎる疑問はだめです。
例えば、「世界経済は今後どうなるか?」、「アフガン情勢の今後は?」
などの疑問を調べたら日が暮れてしまいます。(暮れても分からないでしょうが笑)

適度に小さい疑問を積み重ねて行って、
それが次第に有機的につながればいいなぁと思っています。

と、えらそうなこといっても、
まだKもダメダメなんだけどねぇ・・・

メンタルタフネス

2009-11-14 23:54:55 | メンタル
イギリスで一番学んだことは、メンタルタフネスかもしれない。

ひどい時はかなり長くの間、他の人とのコミュニケーションを取らなかった。
取らないようにした。
ずっと一人でいたので、その経験を通じて二つのことを学んだ。

一つは、仲間や友達の大切さ。
やはり人間はその名の通り「人の間」に生きる生き物、
アリストテレスの言葉を借りれば社会的な生き物なので、
一番つらいのは孤独なのだと学んだ。
だから、人とのつながりは出来るだけ大切にしようと思えるようになった。

もう一つは、一人で立つということ。
確かに一人でいたときはつらかったけど、それでもその経験は良かったと思っている。
逆説的だけど、そのことによって、誰にも頼らずに一人で物事を処理できる精神的強さがついた。
もちろんまだ発展途上だが、メンタルタフネスの意義が分かったことはとても大きかったと思う。


だから、これから伸ばしてゆきたいもの。


どんな逆境にも負けない精神力。


自分の大きなテーマの一つである。

好奇心が止まらない

2009-11-13 17:32:49 | 能力
最近、好奇心には二通りある気がしている。


一つは、専門分野に対する深い理解を求めるという意味での好奇心で、
もう一つが、幅広い知識とその知識間のつながり・構造に対する好奇心だ。


研究者としては前者の好奇心が強くあるべきだと思うが、Kはその点全くといってよいほどない。
本当に研究者の才能は皆無ですわ、と最近思っています。

けど、逆に後者の意味での好奇心は、最近ますます強くなっているので困る。
特に政治・経済・国際問題・経営などなど、
分かれば分かるほど分からなくなっていく感覚が楽しくて、好奇心が止まらない。

なんと表現していいのか。

「分からない」ことが、何だか嬉しいのだ。(アホみたいですが)

でも、これが最近の悩みのタネなのです。
なぜなら、全く論文が進まないからだ。
「なぜ?」と思いだしたら、最後。
とことん調べないと気が済まない。

もちろんそれが自分の専門分野に限られているならいいのですが、
Kの場合、主に専門分野外のことに興味を持ち始めている始末。


昨日なんて、専門のことを放ったらかしにしてたから、
また先生に怒られちゃったよ。

トホホ

さて、どうしたものか。

論理と推論②

2009-11-08 03:36:02 | 論理/思想/理論
ごめんなさい。
前回の記事、酔っ払いながら書いたからか、ちょっと適当になりすぎたので若干訂正しました。

そんでもって今日はその続きです。
というのも、前回の記事ではダラダラと書きすぎて、
本当にKが悩んでいることについてあんまり書けなかったからです。

つまり、思考をつなげるとはどのようなことなのか。
特に実践的な意味で、どのようなことに注意すれば批判的かつ論理的に物事を見ることができるようになるのか。
例えば、日常生活の中、人との会話や社説の読解のような緩いコミュニケーション行為の際に、
何を注意しておけば、人の言いたいことを的確に理解できるのか。
また、自分の主張を効果的かつ説得的に伝えるには、どのようなコミュニケーションの構造を作るべきなのか。

そんなことを昨日の夜は、ツラツラと考えていたのですが、
そのために肝心の論文が手がつかなくなる事態。
まったく情けないです。

おっと、話が逸れましたね。

では本題に入ります。
昨日は演繹法と帰納法について述べたのですが、
文章(または口頭)全体から構造を眺めた場合、
「マクロから」と「ミクロから」の視点に分解できると思っています。

「マクロから」構造を見るというのはより一般的かもしれません。
つまり、全体の主張を捉え、(ex. アフガンの給油を打ち切るべきだ)
それをサポートするいくつかの理由を捉え、
(ex. 給油がアフガン復興に役立っていない、よりよい民生支援の在り方があるetc...)
その理由を根拠づけるevidenceを確定する。
主張-理由-論拠のリンクは演繹法ないしは帰納法によって裏づけられています。

俗にいうピラミッド・ストラクチャというやつです。
(主張を頂点にサポートの構造がピラミッド状に拡がるから)

しかし、論理構造が非常に明快な論文やビジネス文書なら、
「マクロの」観点からのアプローチだけでもよいかもしれませんが、
人間なんてそんなに論理的に話せたり書いたりできるものではありません。
むしろ、何となく説得力があるかなっていう「感覚」にしたがって、
何かを発信することが多いのではと思っています。
ですので、受け取る側としても、「マクロから」のアプローチによって、
相手の言う論理構造を推定することは難しいのです。

より重要なのは、センテンスごとの「ミクロから」のアプローチを取り入れることではないか、
それにより、話者・筆者が何を言いたいのかを(本人がそれを自覚していない場合にも)
的確に読み取ることができるのではないかと思っています。

「ミクロから」のアプローチは意味の最小構成単位として、基本的にセンテンスに着目します。
(センテンスとは文章ですが、同じ意味の言い換えは一つのセンテンスとして数えます)
そして、人が発信するセンテンスは(単に事実を述べるものを除けば)、
それ自体が「主張」になるか、「違う主張の理由」になるか、
基本的にそのどちらか(またはどっちも)しかありません。
(ピラミッド構造を想像すれば感覚的にそう思うでしょう。)

それ自体が「主張」になる場合、他に理由付けがないかを探します。
つまり、「私は~と思う。だって~」といったような場合は、
前者が主張となり、後者が理由付けとなります。

また、「違う主張の理由」となっている場合は主張を探すことになります。
「私は~と思う。だから~」という場合は、
前者が理由付けで、後者が主張です。

こうしたミクロの構造が階層状になって、マクロのピラミッド構造を構成します。


そしてここで注意すべきなのが、前回述べた演繹法と帰納法の関連です。
まず、主張に理由付けが一つの場合は、演繹的推論の可能性が高いでしょう。
なぜなら、演繹法は前提が正しければ「必ず」結論も正しい。
したがって、複数の理由付けをする必要がないのです。

この前述べた例から引用すると、
「遅刻したよ。電車が遅れたからさ。」
となっている場合は演繹的推論となるでしょう。

なぜなら、電車が遅れた→遅刻は、(100%でないにしても)かなり高い確率で結論を導けるからです。
しかし、100%でないというのは、前提に疑問があるからです。
前回述べたように「電車が遅れれば、遅刻する」という隠れた大前提があって、
そこに反論の余地がありうるのです。
(たとえば、もっと早く家を出れば電車が遅れても遅刻しなかったかもしれません。)

逆に、主張に複数の理由がついている場合には帰納的推論を疑うべきです。
帰納的推論の場合は、あくまでも「可能性の高い結論」を導くのが限界なので、
前提に加えて、論理構造自体を疑う必要があるからです。
つまりAという主張にB,C,Dという理由がついていて、それらが全て正しい場合でも、
B,C,DならばAといえるのかについては確証がありません。
したがって、帰納法は論理構造を厳しくチェックする必要があります。


最後にまとめると、
人が発信する会話や文章は、演繹的・帰納的推論の集合体であるといえます。
そしてそれをチェックするために、「マクロから」と「ミクロから」のアプローチを
効果的に使い分ける必要があると思っています。
「マクロから」にこだわりすぎて、論理構造の一部を見落としてしまったり、
「ミクロから」にこだわりすぎて、重要でない部分にこだわってしまうことは
避けなければいけないでしょう。
要は人の話を聞いたり読んだりしながら、もしくは自分の話を言ったり書いたりしながら、
しっかりと論理の構造をつかむことが重要だと思います。

論理と推論①

2009-11-07 01:17:57 | 論理/思想/理論
最近、論理とは何か、とよく考える。

少し昔の記事で論理至上主義に陥ることの危険性を述べたので、
ここで論理について書くことについて、少しとまどいを覚える人もいるかもしれない。
けれども、論理的であるということは、何かを成し遂げるにあたって、
十分条件ではないけれど、必要条件ではあるとKは思っている。
だから、もう一度、論理というものを整理してみたい。

まず最初の疑問。
論理とは何か、という疑問である。
この問に本気で答えようとすると哲学的な問題も含意しなきゃいけなそうなので嫌なのだが、
基本的には「思考のつながり」といえばよいだろうか。
したがって、論理的であるというのは、思考を上手くつなげられること
と理解してもらいたい。

基本的に論理というのは、演繹法・帰納法・弁証法という三種類がある。
言いかえれば、いかなる人間も、この三種類以外のメカニズムにおいて
推論(=思考をつなげること)をすることはできない。
特に一般的なのが演繹法と帰納法なので、ここではこれについて扱う。

知っている人が多いだろうが、
演繹法とは一般的前提から結論を見出す方法のことをいう。
例えば、

ジェントルマンはモテる。(大前提)

Kはジェントルマンだ。(小前提)

したがって、Kはモテる。(結論)

という推論が成り立つ。
ちなみに、これは演繹的推論の代表格である三段論法と呼ばれるものです。
(とはいえ、この推論にはかなり反論の余地がありますので、それはご自由に笑)
とりあえずこれが演繹的な推論というわけです。

それに対して帰納的な推論というのは、
個別の事例から一般的な法則を見つけ出そうとする推論方法です。
例えば、

Kは犬の頭をなでた。
Kは猫をみてほほ笑んだ。
Kはパンダに興味津津だった。

したがって、Kは動物好きだ。

これは帰納的な推論です。
(これも反論の余地は多くあります。)


ほとんどの場合、人は演繹的あるいは帰納的いずれかの推論をしているといってよいでしょう。
もちろん、それをほとんど意識していない場合がほとんどかもしれません。
ある男女がこんなやりとりをしておりました。
男:「何で遅刻するんだよ!?」
女:「だって、電車が遅れたんだもん。」
このときの、女性の発言は演繹的推論ということができるでしょう。
なぜなら、

電車が遅れると集合時間に遅れる。(大前提)

電車が遅れた。(小前提)

したがって、遅刻した。(結論)

という論理構造を持っているからです。
ここで注意すべきことは、大前提が暗黙に二人の間で了解されているため、
わざわざ会話の中に出てこないということです。
つまり、一つの前提と結論だけで事足りているわけです。

ではここで、疑問です。
おそらく私たちは、話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、
帰納的推論を使うよりも演繹的推論を使うことが多いでしょう。
それはなぜか。

おそらく、それは二つの推論の本質的な違いに由来しているのではないかと思います。
それは、帰納的推論は前提が正しくとも「可能性の高い結論」を見つけることが限界であるのに対し、
(例えば、「Kはカラスが嫌い」という新たな事実から前述の結論に疑問を呈すことができます)
演繹的推論は前提が正しければ「確実な真理」を提示できるからです。


したがって、演繹的推論に反論するためには、前提を崩すしかありません。
例えば最初の例を見ると、
「ジェントルマンとは何か?」
「ジェントルマンはモテるのか?」
「Kはジェントルマンなのか?」
といったことを検討し、前提を崩すことによって、容易に反論ができるようになります。

しかし、演繹的推論は帰納的推論に比べて、
日常で使われているために、非常に「すっ」と入ってきてしまう。
ここが怖い。
つまり、論理構造を見つけにくいのだ。

例えば新聞の社説などをみて、
「第一に~、第二に~、第三に~」
と帰納的に書かれている場合は、おかしいと思う点は比較的簡単に見つけられる。

しかし、演繹的推論はなかなか難しい。
要はほとんどの推論の場合、前提は省略されてしまうので、
それを暴かなければならないからだ。

しかし、すべての場合において論理を検証するのも面倒くさいので、
いかにしたものかと、悩んでいる今日この頃です。

(なんか最後の方グダグダになってしまったので、次の機会にまた関連記事を書きます。)

「体育会系」は既に時代遅れではないか

2009-11-02 18:58:22 | 日本情勢
体育会を否定するつもりはないが、、
もし体育会の文化を企業の人事制度に持ち込むならば、それは既に時代遅れだ。
おざなりだが、今回は改めてこのことを主張したい。

まず本題に入る前に、体育会系企業とは何かについて考えておきたい。
様々な特徴があるかもしれないが、この記事では以下の二点を重要と考える。
①上司に絶対的な権威があり、部下は盲心的に命令を実行するという、絶対的なヒエラルキー構造
②成果を仕事の「質」ではなく「量」によって評価する風潮

実はこの二つの特徴は、日本の伝統的かつ極めて特殊な人事制度である「終身雇用制」に関連がある。

まず最初の特徴であるヒエラルキー構造は、
人材の流動性を極小に抑える終身雇用制によって温存されてきたといってよい。
終身雇用制は人材を一生雇うことを前提とするために、中途採用の供給を限りなく減らす。
言いかえれば、会社を抜けるということの従業員側のリスクを最大限高めるということだ。
だからヒエラルキー構造の下で従業員に理不尽な処遇をしているとしても、
人が流出するという企業側のリスクは最大限抑えられていたといえる。

また一生雇用が保証される終身雇用制においては、
従業員が仕事の成果、すなわち「質」にこだわるという風潮が醸成されにくい。
それよりも、むしろ上司に気に入られることが第一義も目的となり、
そのためには体育会系で培った非合理的な努力、
すなわち「量」が、有効な一手段であったことに疑いはないだろう。

確かに、既存の経営を続ければ業績を伸ばすことのできた数年前までは良かったかもしれない。
だがグローバル化の進む中、体育会的人事制度は既に時代遅れで、
中長期的にみれば確実に崩壊するだろう。
逆にこれらの制度を温存すれば、企業は確実に衰退に向かう。

理由は簡単で、体育会的人事制度では企業が優秀な人材を集められなくなるからである。

今まで盛んに言われていることだが、終身雇用制は崩れかけている。
グローバル化の中で競争が激化すれば、企業はより優秀な人材を雇い続けなければならないが、
新規人材を雇うにはある程度の雇用カットをせざるを得ないからだ。

終身雇用制が崩れていく中で、体育会系企業にどのような示唆があるか。
第一に理不尽なヒエラルキー構造にうんざりした優秀な人材は企業を抜けることをためらわなくなる。
あらゆる企業が優秀な人材を欲するからだ。
例えば外資系企業は、グローバル化の中の規制緩和のトレンドに乗って急速に増え、
日本人材市場における存在感を増している。
彼らは即戦力を求めているので、実力があれば中途でも採用することが多い。
つまり、優秀な人材ならば、同一の企業に一生勤める必要はない。

第二に仕事を「質」で評価しない場合、当然ながら企業の競争力は落ちる。
それだけでなく、評価制度に不満を感じればさらなる人材流出が起こる。
特に注目すべきは女性の動向だ。
男性よりも優秀な女性は多いが、やはり生物学的に体力では劣る。
したがって、少なくとも中長期的には、評価を「量」ではなく
「質」で評価するところに優秀な女性の人材が集まるようになる。
言うまでもなく人口の半分は女性なので、
優秀な女性の雇用を確保できない企業はやがて競争力を失う。
当然、セクハラが公然と認められる体育会的文化は、グローバルスタンダードになりえるはずがない。

したがって、グローバル化が進み、終身雇用制度が崩壊に向かうにしたがって、
①ヒエラルキー構造と②「量」の人事制度に依存する、
体育会系の人事制度は完全に時代遅れになる。
高まる人材の流動性に対応できなくなるからだ。

逆にフラットかつ成果主義の企業は競争力を強めるだろう。
フラットで誰もが意見を述べることができれば、
先行きの分からない時代でのイノベーションを起こしやすい。
また成果主義を採ることで、優秀な人材を積極的に確保することができる。


労働者の視点から言えば、中長期的にはこうした変革に対応できる人材として育つ必要がある。
つまり、人材の流動性が高くなる中で、
いつでも転職できるように自分の名前の後ろに値札がつくように努力する必要がある。
それはよりよい待遇を求めるキャリアアップの意味でも、
リストラなどに備えるリスクマネジメントの意味でも重要である。
つまり、よくもわるくも、いつでも変えのきく企業の駒になっていてはこれから通用しない。
そのことを踏まえた上で、自分が何を目指すのかということを、
日本だけでなく世界レベルで考えることが、これから求められるのではないだろうか。