K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

本ブログのプリンシプル

2008-06-28 21:43:41 | お知らせ/挨拶
このブログを初めてから何とすでに10本も記事を書いてしまいました!!


パンパカパ~~ン


ずぼらなKからすれば、かなり快挙といえましょう



んで、記念に前の記事を読み返してみたのだが

・・・・・

・・・



記事によって論調が違いすぎますね。

というか多重人格に近いですね。こりゃひどい。




言うまでもなく、このブログを見てくれている人はみんな親友たちです。

けど比較的まじめな自分を見せている人と、アホな自分しか見せてない人がいます。

なので、誤解を招くと嫌だから、

遅ればせながらこのブログにおけるプリンシプルを確認したいと思います!
(つまりこのブログで何を書くのかっていう原則ね。)

そうすれば、なぜこんな多重人格的なブログになっているのかを理解してくれるはず!




Kは基本的に以下の条件の少なくとも一つ以上を満たすことを目指して
記事を書いていこうと思っています。



1. Make you feel interested

端的にいうと、「なるほど」って読んでいる人が思ってくれること。

いろんなジャンルのネタを書いていきたい。

興味なかったらごめんね。



2. Make you feel funny

端的にいうと、

うけるんですけど~~!!

っちゅうことです。それ以上説明はいらないでしょう。



3. Make my heart stable

ようは単に自分の心の整理です。

誰しもがそうかもしれないけど、Kにはいろいろと整理できない考えや感情が眠っています。

それを論理化・言語化することで一つの決着をつけることができると思うのです。

うん!言語ってすばらしい!




ではでは今後ともよろしくです。

感情を揺さぶるシンガー

2008-06-27 21:29:13 | 趣味
音楽は感情に影響を与える。

最近つくづく思う。

ある音楽を聴くと、とある場所やとある時間を思い出し、
元気になったり、悲しくなったりする。

好きな音楽を聴いていると、その感情に与える力の強さを本当に実感する。



特に俺が最も影響を受けて、今でも一番好きな歌手は、
やはりNorah Jonesである。

特に最初のアルバム『come away with me』は発売された時からずっと聴いてるが、
いまだに飽きがこないから驚愕する。

彼女の声はまったりとしていて、どこかに余韻の残るような
哀愁さと切なさが感じられて、
とても落ち着いた気持ちになれる。



だが、最近になって彼女に匹敵するシンガーを発見した。

それは、Dixie Chicksという女性三人組みのユニットだ。

Norah Jonesとは対称的に、彼女達の声は爽やかで、シャープで、
カントリーミュージック特有のオプティミスティックさがあって、
自分に活力を与えてくれるようなリズムを奏でてくれる。



音楽の評論家ではないのでこれ以上は語りませんが、

もし時間があれば、彼女達の歌を聴いてみてください。


*お勧め曲*
Norah Jones, What am I to you
Dixie Chicks, Wide Open Spaces

これは天才と形容せざるをえないアルよ

2008-06-25 23:45:31 | 趣味
自分の才能が恐ろしネ


Kは恐るべき才能を開花させてしまたヨ。




「え?学問の才能ですか?」

ちがうネー。天才だったらいいけどネー。



「じゃあ、音楽とか絵画とかですか?」

アイヤー。昔から才能ゼロあるヨー。



「わかった!ナンパとか!?」

ちゃうわー。そんなものはとっくにグラジュエーションしたアルネー。



「うーん。ただでかいだけ?」

こらーーーーー!!!



正解はですネー。


料理の才能

アルヨー。



↓が今日のレシピある。



「豚肉とパプリカのマヨネーズ炒め」


どれどれ、食べてみるアル。


ん、んめえ!!アル。



英国行くということで、休日に本格的に料理の修業を始めたが、

天才かもしれんアル。

社会科学と主観性・客観性の問題

2008-06-25 01:56:20 | 論理/思想/理論
※このカテゴリーは内容を高度にするのでスルーしてもらってもかまいません




社会を「科学」するとはどういうことだろうか?

この問いは社会科学を志す者であれば誰しもが直面する問題である。中でも主観性と客観性の問題は研究者にとって避けることのできない、最も悩ましい問題であるといえるだろう。

例えば物理や化学などの自然科学の場合、単純化を恐れずに言えば、ある客観的な「真理」が存在する。万有引力の法則や、水は100度で沸騰するといった類の事実であり、これは誰が見ても同じ観察結果が得られるという意味で客観性が担保されているといえる。

しかし、社会科学は主観をもつ人々によって構成される社会を対象とする学問である。その社会が、主観から独立した客観的実在であるということが果たしていえるだろうか?すなわち、社会に客観的な規則性や法則が実在すると考えてよいのだろうか?また、社会科学はそうした客観性を探求する学問であるべきなのだろうか?

この問いについて、100年近く卓越した社会学者達が議論を重ねてきた。しかしながら、明確な答えはまだ確立されていない。

社会を客観的実在と想定し、その客観性を厳密に求めようとするならば、一つの主張に対して、多くの客観的なデータを論拠として提示しなければならない。例えば「カトリックの自殺率は低い」という主張に対して、統計・法律・儀礼といった客観性のある外的指標をデータとして計測をする。その結果、カトリックの自殺率は低いという「規則性」が発見され、それが客観的事実となりうる。

しかし、この種の議論には二つの前提がある。一つは、社会的事実が主観を持つ人々から独立した実在として存在しており、人々に個人の意図と無関係に影響を及ぼすという前提である。その意味で社会的事実は外在的かつ拘束的である。先の例でみると、「カトリックの自殺率は低い」という客観的な社会的事実が実在し、それは人々の意思にかかわらず自明であり、人々の意思を(無意識的にしろ)拘束する。

もう一つは、観察する側(たとえば研究者)が、対象となる社会的事実から独立した存在であるという前提である。研究者の価値判断は排除されなければならない。統計・法律・儀礼といった客観的データを計測する際にも、そこから生まれる解釈は常に一定かつ普遍であるなければ客観性は担保されない。

こうした客観的な実証主義的研究への対抗として、主観性を方法論として重視する学派も存在する。すなわち、社会という実在が人々の主観を拘束するのではなく、人々の主観が社会を構成すると考えるため、外在的・拘束的特徴をもつ客観的な社会的事実は認めないこととなる。そのため、一つの主張に関して、インタビューやライフヒストリー(いわば密着取材のようなもの)のような主観的データも論拠として認められる。

しかしながらこうした学派の問題として、どうしても「代表性」の問題が残る。例えば、○○大学の学生からインタビューをとり、「○○大学の人は□なことを考えているんですね」という結論を出したとしよう。しかし、当然○○大学には他の学生もいるわけで、「○○大学の人は」という一般化をすることはできない。

一方で社会科学は一般化をしなければならない学問である以上、誰がその社会を代表しているのかという疑問を解決しなければならない。先の例でゆけば、生徒会長ならよいのか、10人以上インタビューすれば一般化してもよいのかといった類の問題である。

さらには、あらゆる感情やイメージをもつ人々の主観をデータとして無批判に利用すれば、(極論すれば)どのような社会的事実も構築可能である。(こうした傾向はメディアにも見られる。)したがって、主観性のあるデータを認める社会科学は、いかにして社会を社会学的に分析することができるのかについて、明確な意見の一致がない。


まとめると、社会科学は完全に客観的になることは不可能である。一方で「科学」である以上は、できる限り客観的事実を探求する必要があるとも思う。そのためには、どこに主観が存在するのかを認識し、その主観をどう扱うことによって社会を分析するのかということを、研究者として常に心に留めておくことが必要があると思う。

トゥース6号の悲劇

2008-06-23 23:03:54 | どうでもよいこと
キュイーーーーン

ガガガガガガガガ

ドドドドドドドド


「ぐあああああ」


トゥース6号は叫んだ。


「脳天が削られていくぅ~!!」


*「我慢しなさい。これは改造手術なのよ。」


「ぬぅぅぅぅぅうううう。」


ガガガガガガガガガ

ドドドドドドドドド


*「ふう。」

*「終わりよ。」


トゥース6号の脳天にはスチール・シールドが埋め込まれた。



「こ、これが。」


完・全・体!!




ちゃんちゃん。

寸劇終わり。



それにしても歯医者とは気持ちいいもんではないですな。

約2週間前くらいだろうか、英国に行く前に歯医者に行ったら、

なんと虫歯が5本もあったのです



歯には絶対的自信があったK巨匠はショックでなりませんでした。



明日も歯医者と思うと面倒くさくてなりません。

しかし、闇の中の唯一の光明というべきが、


ななな、なんと女医だったのです。


しかも助手もなのです。



二人ともマスクをしていますが、絶対美人な気がする。。

いや、絶対そうだ。



しかもマスクをしているというところに、

いわゆるオリエンタリズム的神秘※を感じますな。



たまらんちです。




*用語解説*
オリエンタリズム:
西洋諸国が、それより東の異質な国々(中東やアジア等)における文化や風俗を観察する際に抱くイメージや偏見の体系のことを指す。現在も西洋諸国の文献等には異質な文化をもつ国々に対するオリエンタリズム的な見方が散見される。ただし、ここでは単にK巨匠の下心を指す。

音楽のある風景

2008-06-22 00:42:06 | 活きる
「音楽のある風景」


紹介されている音楽と情景がみごとにマッチしていて、
K巨匠が好きな番組の一つである。


今、「古きよきアメリカ」というシリーズをやっていた。


公民権運動。キューバ危機。ベトナム戦争。
50-60年代のアメリカの様々な社会事情と結び付けられながら音楽が流れる。






涙が出た―。






埋まらない人種差別。

理不尽な戦争。

繁栄の影。

敬礼する子供。






人は誰も殺したくないはずなのに、

誰も憎しみたくないはずなのに、

皆、平和を願っているのに、

どうしてこうも理不尽なことが起きるのか?






こんな簡単で、

こんな単純で、

こんな明快な疑問に

なぜ私たちは何の答えも出せずにいるのか?







今日はK巨匠のめったにこみあげない

熱い部分がにじみでた。

コーヒー

2008-06-20 00:21:36 | 趣味
今日はウイスキーの代わりにコーヒーを飲んでおります。


K巨匠は飲食にはこだわらない方ですが、
そういえばコーヒーには若干のこだわりがあります。


コーヒーは知っている人もいるかもしれないけど、
南回帰線と北回帰線の間のコーヒーベルトと呼ばれる地帯で採れます。

なので、コーヒーベルトに位置する国々(アフリカのケニアやタンザニア、南米のコロンビアやブラジル、
アジアのインドネシア)でコーヒー豆は採れるのですね。

意外と多くの人がブレンドを飲むのであまり感じていないと思うのですが、
ストレートを飲むと地域による味の違いが結構分かります。


最高級は(K巨匠が知っている限りでは)ブルーマウンテンですが、
それはめちゃ高いので飲めません。残念無念


けれど、その他にもおいしいコーヒーはたくさんあります。
中でも好きなのがインドネシアなどのアジア地域で産出されるコーヒー豆。(マンデリンとか)
酸味よりも苦味が好きな方はお勧めですな。


そういえば、スタバとかでコーヒーを頼むと
「コーヒー豆はどっちにしますか?」
と聞かれることがあります。

その時たいてい二種類から選ぶようになっていて、
そのうちの一つがインドネシア等のアジア産になっていることが多いです。
ぜひお試しあれ。

ノン・スモーキング・ベイベー

2008-06-18 16:11:00 | どうでもよいこと
東京某所、約一か月前のこと。
卒業式が行われていた。


K「今日は卒業式か。面倒くさいな。こういうの嫌いなんだよな。」


「ヘイ!コンニチハー!Kじゃないかー」



こいつの名前はキャスター・サンク。
バリバリの日本人なのだが留学生気どりをしている。
かなりのイケメンのため特定層からは絶大な支持を得ているが、Kは正直いって好きじゃない。


面倒くさいのと会っちゃったな。ここは無視無視。



キャスター:「あそこで七星さんがお別れの言葉を述べてマスネー。」



演壇の上を見ると、生徒会長の七星さんが代表として卒業証書を受け取っている。
とても美人なので男性層を中心にファンは多いが、
なにせ性格がキツイもんだから、Kは興味がない。



キャスター:「七星さんカワイイねー。でも彼女が卒業しても大丈夫。妹もいるからねー。」



そう、七星さんの妹はマイルドな性格をしており、そちらにもファンは多い。
Kもどちらかというと妹の方が好きだ。



K「そつぎょう、か。」



正直Kは悲しかった。クールなあいつとも、ラッキーな彼女とも、丸顔の彼とも、会えなくなってしまうからな。



「よう!!元気ないな。」

K「健人。」



こいつはずっと親友だった健人。こいつとも今日でお別れだ。



健人「卒業だな。さびしくなるな。」

K「お前には随分助けられたよ。」

健人「そうだな。思い出は多い。」

健人「卒業してもまた・・・・」



健人「また、ちょくちょく会おうな。」

K「・・・・・・・」


「絶対嫌です!!」

健人「え?」

「すなわち絶交です!!二度と君には依存しません!!」



わお。ベイベー



ちゃんちゃん。

以上、寸劇終わり。

「ノン・スモーキング・ベイベー」

幕末と日本

2008-06-16 23:12:56 | 日本情勢
あなたは何人ですか?



例えば外国人からこのように質問されたら、あなたは何と答えますか?

多分よほど変人でなければこういうでしょう。

「日本人です」と。


「何当たり前のこと言ってんだ!?」
と思うかもしれません。



確かに今の私達には当たり前のことですが、
150年以上前の人に聞いたらこうした答えは返ってこなかっただろうと思います。

多分、薩摩藩の人に聞けば薩摩藩人と答えただろうし、水戸藩の人に聞けば水戸藩人と答えたでしょう。

つまり人々の帰属意識は基本的に「藩」に属していました。
今の日本に住む人たちの故郷は薩摩藩なり水戸藩であって、
「日本」ではなかったのです。



では、なぜ私たちは自分たちのことを「日本人」と思うようになったのでしょうか?



それは列強諸国(イギリス、フランス、アメリカ等)が鎖国状態だった日本に干渉してきたからであり、
それが「幕末」という一つの短い時代でした。

この「幕末」という時代には、幕府体制を保ちつつ武力を強化しようとする勢力と、
幕府を倒し天皇中心の体制に変革しようとする勢力が血みどろの戦いを繰り広げました。



私見では「幕末」という時代は、日本史上、
いや世界史上の一つの奇跡であったと思います。



当時、列強諸国の圧力がかかった国々はたくさんありましたが、
どこの国も体制自体を変革することはできませんでした。

かろうじて植民地化を逃れた国々(イラン・トルコ・タイ等)でも日本のように急激に近代国家に生まれ変わり、
列強諸国の仲間入りすることはできなかったのです。




「江戸幕府と諸藩」であった国は、10年にも満たない期間で、
「日本」になりました。

薩摩藩人も水戸藩人も土佐藩人も長州藩人も皆、
「日本人」になったのです。



しかし、この常識では考えられないほどの急激な変化には、
当然のことながら多くの犠牲が伴いました。
多くの志士達が自らの信念のために死にました。




志士とは「志」をもった人たちのことです。



「自らの命(もしくは人生)をかけて生きるとはどういうことなのか?」


「何を考え、何を目指して生きることが、真に幸せと言えるのか?」


「自分は何のために、何を為すために、生まれたのか?」



幕末の志士たちは、現代の日本人が失いかけている大事なものを教えてくれるようで、

だからこそK巨匠は幕末という時代がとても好きなのです。

ウイスキーがうますぎる

2008-06-15 00:59:51 | 趣味
最近、この時間によくウイスキーを一人で飲んでおります。
いやいや正確に言うとほぼ毎日飲んでおります。


これも英国紳士に近づく一歩ですな。


なになに?もう紳士だって。



よくわかってますね!!(笑)



英国に行ったらスコッチを求めて旅します。

あ~。うまい。
うますぎる