本の感想

本の感想など

司馬さんの座談アーカイブを見る

2023-09-09 19:28:46 | 日記

司馬さんの座談アーカイブを見る

 四十年ぶりに司馬さんの座談を見た。相変わらずだが博識で座談の名手である。アーカイブは変わらないが受け手であるこちらは変化しているので感想は大変化した。例えば、薩長は新時代の象徴で勢いがあり善悪で言えば善の側、旧幕は間抜けで旧臘に苦しむ側という完全ではないが区分がされて議論が進んでいく。わたしは当時それをそのまま受け入れていたがはたしてそうか。

 明治維新は、もっと単純に英国と米国の日本国内での利権をめぐっての争いじゃなかったのか。ついでに北越戦争は長岡に利権を持っていた国がせめてここだけは守りたいとしたためにおこった争いじゃないか。そんな単純な話にすると、日本はイギリスに支配されたことになるので武士の面目をたててあげるように英雄を沢山作り出して物語ってるだけじゃないか。歴史小説家は物語る人である。どうしても一方が賢くて反対側に間抜けが多いという書き方になる。読者の手に汗が出てこないと読んでもらえないからである。

 実際のところは、維新後日本はイギリスの影響が強くて司馬さんは強調されていないが、国の形もイギリスの真似をするし、日銀はイギリス型の中央銀行制に近いと聞いたことがある。日銀の一番初めの資本金は日清戦争の時の賠償金であったらしい。イギリスは自分で出すのはいくら何でもあざといからと遠慮をして李鴻章に負けたことにしてくれと頼み込んだんじゃないのか。

 この流れで、司馬さんはイギリス側に立って歴史小説を書いておられるようにみえる。坂の上の雲でも、イギリス海軍の優秀な教え子であった日本海軍はいいように書いてあるが日本陸軍には少々点が辛いように見受けられる。

 司馬遷の史記も、ギボンのローマ帝国盛衰記も、司馬さんの歴史小説も大変な名文であって引き込まれて読んでしまう。しかし、気を付けて読まねばいけないようなものを感じてしまう。分からないようにどちらかに肩入れしているように見えてしまう。でも肩入れしているから読むほうは面白い。肩入れしていないと歴史学者の論文になるので読者は読むのが難しくなる。難しいところである。


映画ラストエンペラーを再びみる。

2023-09-06 23:57:15 | 日記

映画ラストエンペラーを再びみる。

 中国が改革開放を始めたばかりの頃、一世を風靡したこの映画がこんどはテレビで再放送になったのでもう一遍見た。当時はイタリア人の監督が作ると中国の皇帝はこういう感じになるのかと何とも言えない奇異な感想をもった。時代考証は完璧なんでしょうがなにかちょっと違うような感じは、今回もぬぐえなかった。清朝末期の皇帝だからというのではない、今の日本人が多分皇帝はこんな感じだろうと想像する像とあまりにずれがあるので戸惑ってしまう。その同じ戸惑いを今回も感じた。ちょうど本場のラーメンを食べたところ確かにダシは本場なんだが、麺がマカロニになっていて奇異な感じがするのである。

 初めてこの映画を見た時は、外国人にここまで故宮の内部の撮影を許すとは中国の開放政策は後戻りしない本物なんだとわたしは直感した。あれから四十何年してあの直感が正しかったことを確認するために今回もう一遍見たようなものである。初めて見た時も今回も甘粕大尉に坂本竜一さんはミスキャストだと思っている。甘粕はもっともっと闇深い人物でないといけない。巨大な組織の闇の部分に深く食い込んで自己と組織の闇の部分が混然一体になっている人格を演じないといけない。婦人に追いかけ回されるような美男子が演じてはいけない。(最近は組織と個人の在り方が劇的に薄くなって、甘粕の様な人物は見られなくなってきたように思う。演じられる人もいなくなってきたのではないか。)

 同じ映画を見て同じ感想を持つようでは、見る側(わたしのほう)に進歩がなかったことを暴露することになる。少しはわたしも進歩したかもしれないことがある。

皇帝溥儀の家庭教師にイギリス人R.F.ジョンストン(紫禁城の黄昏の著者)が雇われたことは前回も今回も驚きであった。アヘン戦争からいくらも経っていない頃である。なんというお人好しであるかと今回も思う。(尤もわが国もマッカーサーが日本を離れるとき小旗を振って別れを惜しんだのであるから、他人のことはとても言えない。)

 しかし、今回ジョンストン先生が中国を去った直後に溥儀は、日本軍と行動を共にし傀儡国家建国に力を貸す行動に出ることを発見した。明白な言葉はないけどジョンストン先生がうまく指導したのではないかと思わせるものがある。日本は傀儡国家を作ったばっかりに孤立してしまい太平洋戦争のタネをまいたのであるから、ジョンストン先生の作戦はうまくあったったとすべきであろう。

 そうしていきなり思い出した。最近中国の要人のご子息にイギリス人家庭教師がついていた。伝統的にイギリスはこの手を使う国なのか。凄いインテリジェントの国である。わが国も教養ある人材を養成し、他国の枢要な人物の子息に家庭教師を送り込めないものか。

 大歴史絵巻を見ながら、イギリスは多分今でも凄いインテリジェントの国だろうと想像した。


試験地獄

2023-09-01 17:29:32 | 日記

試験地獄

 忘れないうちに書いておきたい。昭和30年40年台には試験(受験)地獄というのがあった。50年くらいまであったかもしれない。 20年代には農地改革があって地方の素封家が没落した。主にその没落したほうの子弟だと思うが、お家再興のためには受験勉強に打ち勝って○○大学へ進学し官界で出世を成し遂げたいという気風が醸成された。まだ知り合いの何代か前のご先祖が秀才の誉れ高く江戸城で将軍のそば近く仕えたという伝説の残っていた時代である。お前も頑張れと親の期待を背中に受けた者は日本中に一杯いたと推察される。

 受験競争は熾烈を極め、席次の上げ下げ一点の部分点の獲得に涙を流さんばかりの抗議が学校の中に蔓延していた。あるクラスメートは、夜半勉強中に倒れて病院に担ぎ込まれて

「大学をとるのか命をとるのか。」

と医者に問われて、虫の息で

「大学をとります。」

と答えたという話が残っている。

 当時○○大学に合格するための予備校は東京にしかなく、その予備校の入学試験が相当難関であると噂された。ためにわたしの友人の勉強部屋へ遊びに行くと、そこには本屋の参考書売り場より揃った受験参考書の山と

「祈願○○予備校現役合格」

の張り紙を見ることができた。これ本人は大真面目である。そうしてその張り紙通りの人生を友人は歩んだ。東京に行ってからの友人のその後の動静については知らない。

 教えるのが上手い高校教師の授業は満員の出席があるが、下手な教師は悲惨であって義理で出てくれる数名の生徒相手にそれでも大声を張り上げている姿は哀れを催すところがあった。ただ首にはならないと見えてずーと悲惨な授業を続けたようである。当時出席をとることがなかったのかもしれない。そこがもう私の記憶にない。

 そこまでの地獄に耐えてめでたく官界で名をあげた人は五年に一人いるかいないかである。その後の競争も苛烈であったようである。

 なお、当時わたしにこのようになれと親せきのおじさんが言ったのはあろうことか柳沢吉保である。遺憾ながらその手に載らなかったのは賢明であった。なぜ自分がやらないことを他人にやらせるのか理解に苦しむ。今ご存命なら百歳くらいの年代のヒトである。若い人をおだてて「突撃」とかをやらせたかったと思われる。思えば益体のないことに付き合わされてわたしは自分の人生を無駄に使ったものだと思う。