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戦後すぐの昭和の思い出

2024-02-01 18:32:15 | 日記

戦後すぐの昭和の思い出

 昭和30年台の初めは、まだ戦争のあとが残っていた。空襲で焼けた工場がそのまま残っていたりした。我が家にはしばしば半紙に包まれた百円札三枚(時には千円札であったこともある)が投げ入れられていた。我が家の近所のお家でもしばしばあったようだ。生活に困っているだろうと思ってのことではない、困ってそうな家は他にいくらもあった。母親は何も言わずに、いつもそのお札を自分のガマグチに入れてパチンと蓋を閉じた。

 思うに軍隊にいた時に世話になったお礼をしたかったからではないか。普通に持ってくれば、受け取りを拒否されそうだからである。お礼をしようというヒトはかなりの数いたのではないか。ならば仕返しをしようというヒトもかなりの数いたはずである。実際あったと推測されるが、当時新聞少年で新聞の隅々にまで目を通した私でもその記事は発見できなかった。仕返しに暴力が用いられた時(多分そう言うことも絶対あったと思うが)、どう処理したのかは分からない。現にあいつだけは許せんとぶつぶつ言いながら通りを行ったり来たりしている人もいたのである。

 街には軍隊から帰ってきた人でいっぱいであった。その人々の中には、体中無数の傷を持ち銭湯でその傷を見せ合い俺のはどこどこでどんな具合にやられたのか自慢する人までいた。さらに銭湯の板の間で体操をする人もいた。細い体で皺だらけの皮膚だが、実に気合の入った体操である。軍隊の訓練の厳しさがよくわかる。軍隊から帰ってきて、普通の仕事ができなくなった人も少しいた。今なら引き込もりというのであろう。その人の生活がどんなのであったのかは知らない。街には、多くの戦争未亡人もいた。お嫁に行けずにそのままのヒトもその名で呼んでいた。ただし、逞しく自分のことを笑い飛ばすようなおばちゃんが多かった。まれに尼僧の様な清げな人もいた。

 職場には、軍隊経験者が多くいた。軍隊に行かずとも戦争で空襲の中を逃げ惑ったというヒトはもっと多かった。その人々は、自分の主張を絶対曲げなかった。妥協するということはなかった。ために会社経営のヒトは、労働者に常に気を使わねばならない。会社経営のヒトは、士官上がりのヒトが多かった。労働者の方は、兵隊上がりである。なにかあると

「オマエみたいな奴が、少尉やってたから日本は負けたんや。」

と罵倒する。その時そのモト少尉の眼が白黒になるのをわたしは見た。眼を白黒にするというのは、文学的修辞ではない。実際そうなるのである。

 われわれもこの兵隊上がりの労働者には、気を使うことが多かったが、それでもなおこのような人がいる間はブラックな職場ではなかった。このような人がいなくなると途端に職場はブラックになったのである。なお、戦後の何でもありの粗暴な時代が再び来ないとも限らない。職場をブラックにした人は気を付けないといけないのかもしれない。



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