戯曲 指南箱
江戸末期の老中の部屋。着流しで正座した老中が小さな火鉢で手をあぶっている。老練な実務官僚の風貌。脇には大きな文机、立派な掛け軸。若い姿勢のよい勘定奉行見習いが入ってくる。美男子で目から鼻に抜ける秀才顔である。
手に小さい箱を持っている。
見習い:ご老中様相談がございます。
老中:なにかな。
見習い:これなるは最近かのペリー提督が我が国にお土産に持ち込まれたる指南箱と申すものでございます。
老中:おう話には聞いておったが実物を見るのは初めてじゃ。ひどく小さいものじゃな。
見習い:小さいがなかなか威力のあるものにてこの世の森羅万象ありとあらゆることを知るのみならず、ひとにこうすればうまくいくという指南までする箱でございます。正式名称は人工知能とか申すものらしくございます。絵を描いたり音楽も奏でます。ただしそういったアートにはどうも心がこもってないようです。
老中:波斯の国の物語にそういうものがあったとか聞き及ぶぞ。確か千夜一夜物語とか申す物語であった。かの国の行灯を擦ると巨人が現れてなんでも教えをしてくれるらしい。雑用もしてくれるらしい。ペリー提督の国ではついにそれが実現されたか。それでいかがいたした。
見習い:実はこの箱、子供に読み書きそろばんを教えるのが大変うまいのです。
老中:それはいいではないか。早速すべての寺子屋へ導入せよ。
見習い:しかし寺子屋師匠連盟から、こういうものは子供の師匠に対する尊敬があって初めて知識が伝わるものであるから導入に絶対反対、子供がこのような機械を尊敬するはずがない、もしどうしてもというなら少し前浪速でおこった大塩の乱のようなのをおこしてでも導入させないとか申しております。教育と申すものは、人が人に対して行う崇高な行為であるとも申しております。
老中:なにを寝言を申すか。師匠を尊敬しておる子供がいるとはとても思えない。自分らがご飯を食べられなくなることを恐れてそのようなことを言い募っているだけだ。さっさと導入せよ。
見習い:いやそれだけではございません。小普請(むやく)組頭様と寺社奉行様が導入しないように申し入れらておるのでございます。
老中:それはなぜじゃ。
見習い:実は食えなくなった下級士族と、大寺院の中で出世競争に負けて同じく食えなくなった僧侶の再就職先が寺子屋なのです。これがなくなりますとまた別の失業対策が必要になるかと・・・・・・。
老中懐から取り出した小さな餅を火鉢で焼きだす。扇子で炭を扇ぐ。無言で重苦しい空気が流れる。焼きあがった餅を老中一人でむしゃむしゃ食す。見習いのほうを見ようともしない。食べ終わって見習いのほうを向いて。
老中:ではこうしよう。なるたけ細かな寺子屋運営規則を作って寺子屋の師匠どもに守らせるようにせよ。仕事が大変で音を上げるように仕向けるのじゃ。さすれば、仕事を失った下級士族も僧侶も自分たちで別の仕事を探すであろう。今いる師匠も仕事が大変だから、その指南箱を是非寺子屋に導入してくださいと向こうから頼むようになる。手間と時間がかかるがそれが良いであろう。
見習い深々と頭をさげる。
見習い:それは妙案。たまらず向こうからというところが味噌でございますな。早速実施いたします。
爾来、寺子屋の師匠は無駄に忙しい仕事になって下級士族や出世できなかった僧侶がなる仕事ではなくなったということです。指南箱は大変便利な箱ですが、この政策によって人が人を尊敬するという美風が失われたことは確かなことです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます