本の感想

本の感想など

小説 原田君の思い出

2024-09-16 20:38:29 | 日記

小説 原田君の思い出

 若いころ私は頭は悪くないつもりだが、仕事が長続きしないで転々としていた。もう今から20年くらい前一年だけの数学講師としてある私立高校に勤めていた時のことである。勤めはじめて二か月くらいで、校長派と教頭派とに分かれて陰湿な闘争をやってることがわかって、呆れてやめたくて仕方のないころであった。

原田君というわたしより二つばかり年下の体の大きい同僚が居た。尤も彼はわたしと違って常雇であるから格はわたしよりはるかに上のヒトである。この人は、感心なことにどちらの派閥にも属さず仕事熱心であった。ただし少々度が過ぎていて、毎日の早朝と昼休みと放課後の講習をやっていた。尋常の体力ではない。生徒はともかく保護者の喜びは大きかったようである。  

K先生という還暦を過ぎてもう長いこと経ったご老人が数学科に居た。前歯が二本無くて雪舟の水墨画に出てきそうな風情のひとであるがなかなかの策士で校長派の重鎮である。ある日この人が原田先生のことを「あいつ新婚やけど、家がおもしろないのであんな朝昼晩の講習やってるんや。」と評した。 真偽は分からない。家が面白くないとよく働くというところが私には理解しかねることである。家が面白いからよく働くというのが普通だと思う。しかしそのあと私はいわでものことを喋ってしまった。よく働く人は心筋梗塞になりやすいので「あの先生絶対還暦前に心筋梗塞やな。」と。このとき原田先生が数学準備室に入る寸前であったようであるが、入るのをやめた気配がある。

その夜のこと、原田先生は帰りの電車の中で寝過ごして、終着駅で駅員に起こされた際に駅員に暴行して捕まったという話である。しかも力が大きかったのだろう、駅員は鼻の骨を折る重傷であった。原田先生は即刻首になった。勿論新聞には大きく出るし、学校には新聞記者が押し寄せるしで大変な一週間がすぎたころK先生が私に常雇の教師にならないかと持ち掛けてきたが即座に断った。

原田先生は、多分終着駅で起こされたときに駅員が私かK先生かのどちらかに見えたと考えられる。そこで思わず手が出てしまったのだろう。その原因を作ったと考えられる者が、その原田先生のあとの任につくとは絶対許されないことだと思ったことが一つ。しかし単純に朝昼晩の講習はとても無理だというのが最大の理由である。(しかも一銭も手当が出ない)時々駅で駅員に対する暴力はいけませんというポスターを見る。20年間そのたびに私はこの苦い思いを思い出す。こういった暴力事件の背景は決して単純なものではない。いちいちそんなことに同情しては身が持たないというのも、その通りであろう。しかし物事をあまりにも断片にして捉えるというのも問題があろう。

私も20年間結構苦しんでいるのである。


東日本のヒトのための奈良市観光案内㉓ 飛火野

2024-09-13 17:37:58 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内㉓ 飛火野

 春日大社の参道の入り口には池がある。その池のさらに南側には広い芝生の公園があって、植木が少ないので見通しが良いが夏暑く冬寒いからシカさえも数少ない。このあたり一帯を飛火野という。昔、若草山の山焼きの火が飛び移ってこのあたりを焼き払ってしまったという。

 わたしはこの説明を強く疑っている。山焼きの場所はこの場所からかなり遠い。もし燃え移るならその前に春日大社も東大寺も南大門も燃えているはずなのに燃えていない。わたしは、興福寺廃仏毀釈の際に焼き討ちにあったのではないかと疑っている。

 昔の神社仏閣は、お賽銭その他で日銭が入るのにお堂の修理は何十年に一回である。その間現金を寝かすことになる。たんに寝かすだけでは芸がない、少しでも利息を取らねばと思うのはお坊さんも俗人も同じことで、お寺は金貸し業を裏稼業として始めた。その取り立てが厳しかったので恨みを買っていたのではないかと想像する。なにもなければ、いかに新政府が廃仏毀釈の号令を発しても庶民が寺を焼き討ちするとは考えられない、あそこに俺の借金の証文がある焼いてしまえというエネルギーがあることで起こることだと考えられる。

 本堂の方が狙われなかったのは、この飛火野にあった建物(多分何とか院というような名前がついていたと思われるが)に証文があったためではないのか。なぜ新政府に出仕していた藤原の子孫はその事態を防がなかったのか不思議である。近衛文麿のおじいさんか曽おじいさんくらいのヒトがぼんやりしていたのだろうか。

 不思議に思うのは、京江戸ならいくらもあっただろうが当時の奈良にはそのくらい大きな資本を必要とする産業がなかったはずなのに金貸しが成り立ったことである。奈良には南都七大寺、七つの大きな寺がある。それがみな金貸ししたら、銀行ばっかりが乱立して工場もお店もないようなものだから供給ばっかりで需要がないことになってしまう。ここが不思議なところである。

 この焼き討ち事件のあと、興福寺は蔵をひらいて創立者の娘(光明皇后)の遺してくれた美術品を展示することでやって行こうとなったようで、業種転換してまだ日が浅い。私の記憶する今から五十年前の頃まだ観光客も少なかったから寺の経営は苦しかったはずである。

 


映画 star wars のダースが父親であったことについて

2024-09-10 21:38:55 | 日記

映画 star wars のダースが父親であったことについて

 多分最終回だったと思うが、いかにも旧ドイツ軍を思わせるダースが実はルークの父親であったとのストーリーがあった。わが国で言えば桃太郎が鬼ヶ島へ征伐に行って、鬼の親分が実は自分の父親であったということであるから、つまんない蛇足じゃないかと思ってしまう。思わせぶりなだけで意味も教訓もないじゃないかと思っていた。かろうじてアメリカには自分の父親を知らない少年少女がたくさんいるだろう、その子に対するサービスかなと思っていた。それなら自分の父親に旧ドイツ軍のヘルメットをかぶせるのはいかがなものか。もうちょっといい人が実の父親であってほしい。

長いことその意味を考えてきたがひょっとしてこうかもと思うことがある。ナチズムには様々な思想が流れ込んでいるであろうが、その中にダーウィンの適者生存またはこの世の中は競争である(勝ったものがエライ)との思想は入っているであろう。ルークの父親が旧ドイツ軍のヘルメットをかぶっていたということは、ルーク(即ちアメリカ)は、ナチズムの一部を受け継いでいますと言ってるようなものじゃないか。ナチズムのなかのこの「勝ったものがエライ」との思想をこれから受け継いでやっていきますとの宣言ではないか。またはそれが人種差別かもしれない。(最近は人種差別は否定しているけど、「勝ったものがエライ」のほうはアメリカはますます大声でおっしゃってる。良しあしは別にしてである。)

ルークの中に「勝ったものがエライ」の思想が入った後、アメリカは大発展をした。1950年60年のことである。それまでのアメリカは巨大な田舎というべきであった。

 

ちなみに戦後しばらくの間の日本はそれ以前の文化のままであって、「コネを持っていてかつ仕事は真面目にやる人がエライ」であった。なりふり構わず勝ちに出る人は迷惑な人とされかねなかった。コネのない人間は冷や飯食いになるので私なぞは不満であった。「勝ったものがエライ」の社会にしてほしかった。しかし、いざなってみると「勝ったものがエライ」の社会では利益がどこかに吸い取られるので、苦しいだけでよいことが何もない。元に戻せと思うのはわたし一人ではないはずである。


東日本のヒトのための奈良市観光案内㉒ 大仏の裏側

2024-09-09 10:04:44 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内㉒ 大仏の裏側

 国の宗教が仏教になったので東大寺は、国の中心に一時的にせよなったと考えられる。朝廷が移ってきたのと同じである。そのあと武家政権の成立などにより朝廷が衰微すると自分でご飯を調達しないとやっていけないようになったと考えられる。昔のヒトは今よりずーと発想が柔軟であったようで、例えば出雲大社は縁結びの神様に変身することによって、三重の伊勢神宮は観光業で生きていくことにした。朝廷とは関係ないけど高野山は、呪い業の本山であったのに観光業でやっていくことにした。東大寺も今でいえば、内閣府みたいな立場であったのに観光業になって大成功した。

 その大仏はいろんなものを受け入れる度量の大きいところがあって、大仏様の前では時々音楽会が催される。もうずいぶん前だがサラ・ブライトマンのコンサートは驚いた。むかし百官が集まって儀礼をし、平の何某が焼き討ちの兵を集めた場所で外国のアーティストがコンサートである。世の中は長い時間の間には信じられない変化をする。変化を呪っても仕方ない、出雲大社のように伊勢神宮のように高野山のように東大寺のように生き残っていかねばならないと思うばかりである。

 さて、大仏の裏側には時代がずいぶん新しくて江戸中期の小さい仏像が置かれている。そこには大坂の米穀商何某が娘何某のために奉納したというような意味のことが書かれている。想像するに、娘さんを連れて大仏を参拝し娘さんは大変気に入ったとみられる。そのご多分流行り病であろうお嬢さんは夭折された。おとうさんは、お嬢さんのお気に入りの場所に形見を置きたかったとみられる。

 大仏様は、今のディズニーランドに相当する。私どもは、米や味噌に比べてついついエンタメを軽く見る傾向がある。米や味噌と同じくらい大事なものだと思う。芸術の価値は法華堂や戒壇院に劣るけれど、エンターテインメントの価値は法華堂や戒壇院を凌駕しているのかもしれない。


東日本のヒトのための奈良市観光案内㉑ 郡山城

2024-09-07 00:04:18 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内㉑ 郡山城

 ここまで観光においでになることはないと思うし、京都の二条城のように襖絵があるわけでもないし姫路城のように城が特に美しくできているわけでもない。しかし折角だからお話として知っておいていただきたい。異なる市だからひどく遠いように思うかもしれないが、お城から興福寺の五重塔は見える。

秀吉の弟秀長がここの城主であったのは、奈良の寺社勢力を抑えるためであったとされている。僧兵を抱えていて何かあると神罰仏罰が下るぞと神輿を担ぐ勢力ではあるが、秀吉さんくらいの軍事力があれば、一気に攻め滅ぼせばいいのにとおもうがそうもいかなかったのだろう。多分秀長さんは、南都の仏教勢力の間を巧みにお互いに喧嘩するようにしむける作戦をとったと考えられる。ちょうど少し前のイギリスが上手く立ち回って大陸国家がお互いに喧嘩するようにしむけたと同じようにである。

ために秀長さんは、仏教勢力に毒殺されたとのうわさが残っている。イタリアの田舎の城を見に行ってここで何某が何某によって暗殺されましたとの説明を受けるよりも、もっとリアリティを感じる。何度も肖像画を見たことのある人物の弟さんである、しかもずいぶん実務のできる人物とのお話も残っているから親近感が湧く。

十八世紀中ごろには、柳沢吉保の藩の家老の子柳沢き園(きは、サンズイに其)が甲府から移ってきた。この人は絵画その他に巧みだっただけではない。郡山に金魚養殖の産業をひらいた。どの藩でも米以外の特産品を作るのに必死だった時代に、木綿とかロウソクではなく金魚とは風流である。しかし水と一緒に売り歩かねばならないからどうやって運んだんだろう。産業としてなり立ったのかがやや疑問である。大阪堺まで大和川の川船で運んだんだろうか。大坂の淀屋さんが、金魚を飼っていたというから運ぶことは運んだと思う。淀屋さんは金魚を飼っているのが贅沢だとして闕所になったという話である。言いがかりのネタにされるほど贅沢なものであった。

柳沢き園さんは郡山に遊郭がないのはいかんとして、大きなのを拵えたらしい。いかに江戸時代がさばけた時代であったとしてもこういう施設は、幕府や藩が目こぼししてやっと成り立つものではないのか。それを家老自らが率先して作ったという。しかもどういうところかを「ひとりね」という随筆にぬけぬけと書いている。き園さんの絵画は、奈良学園前にある大和文華館に時々展示されるから興味があればどうぞ。

 

この人官僚としても大出世したひとだからすごい人だと思う。何かというと新井白石みたいに努力して出世した人ばかり取り上げるのはどうもいけない。歴史教科書にき園さんも載せるべきだと思う。どうもガッコウのセンセイは、努力のヒトを好んでスイスイとやるヒトを好まない傾向がある。苦労はできればしないほうがよいと教えないといけない。

白石の拵えた正徳小判はデフレを起こしてはなはだ迷惑なものであったが、き園の拵えた金魚は今も栄えている。