山口 香の「柔道を考える」

柔道が直面している問題を考え、今後のビジョン、歩むべき道を模索する。

世界選手権を前に

2009-08-22 17:52:31 | Weblog
 世界選手権(26日~)を前に、現地ではIJF関係の様々な会議が開かれているようです。まだ正式決定でないものも含めて現地で話されているらしい、いくつか情報をお知らせします

 まず、10月にアテネで行われる世界ジュニア選手権が開催地が急遽変更になるそうです。アテネでの受け入れ態勢が十分でないとの報告から変更が決まったそうですが、この時期にきての変更はかつて例がありません。また、変更となる開催地の候補は挙がっているようだがまだ正式には決まっていないようです。そろそろチケットの手配をする時期なのに9月に行われるはずであったマカオでの体重無差別の大会もキャンセルになっています私が記憶しているなかで、ここまで大きな大会がバタバタと変更になるのは聞いたことがありませんIJFの機能が正常にうごいていないということか?それとも他に何か原因があるのか?

 審判理事のバルコス氏は、審判を3人ではなく1人で行っていく方針を示しているそうですそして世界ジュニア選手権で試験的に実施していきたいとのこと。まだ承認されていないようですが、どうしてそんな案が出てくるのか理解に苦しみます。バルコス氏いわく、「ビデオでチェックしているのだから問題ない。審判の数が減れば経費の節減になる。」とのことだそうですが・・・。3人で見ていても問題が起きるのに一人で対応した場合にどうなるのか?全てビデオにまかせていいのか?また、IJFのやり方はいつもそうですが、なぜ世界ジュニア大会を試験的な大会とするのか?ジュニアといえども選手権であり、試験的にするのであれば国際大会が妥当でしょう

 今回から試合場のコーチ席は復活するが、準決勝以上の試合はスーツ着用が義務づけられます。これについては以前にも私の意見を述べたので今回は詳しく述べません

 明日は総会があるのでもっと様々なことが明らかになるでしょう

 私も来週の月曜日からオランダに行ってきます。現地から大会の情報、そのほかの情報もアップしたいと思います

カデ世界選手権開催に思う

2009-08-17 10:42:09 | Weblog
 先日、ハンガリーにおいてカデの世界選手権が初めて開催された。こうやって世界的な試合が低年齢化していくということは益々子供達への柔道の指導が「試合」を意識したものになっていく可能性がある。

 私自身、6歳から柔道を始めて大会にも参加していた。試合は子供にとっても上達の目安であり、励みになるので否定はしない。ただし、大会が大規模化し注目度が上がれば指導者や親、本人も長い目で見た成長のための稽古を考えることが難しくなり、「どうすれば’今’勝てるか」という短絡的な思考に陥る危険性が高い。

 私が指導を受けた道場では「巻き込みは禁止」だった。小学生でも体の大きさに差があり、大きい子供が小さな子供を巻き込んで投げたら小さい方が怪我をしてしまう可能性がある。また、大きい子供であっても、体を使って投げるということは技術の向上は見込めない。技術を身につけなければ将来自分よりも大きな相手と対戦した時には勝つ術がない。さらに巻き込んで体を捨ててしまえば、次への展開はなくなる。一本をとれればいいが、投げることができなかった場合でも流れはそこで終わってしまう。レベルが上がれば単発の技で勝負を決することは難しく、連続して技をかけることが要求される。などなどの理由から「巻き込みは禁止」であったのだと考えている。

 ブラジルの世界選手権の時に鈴木桂治選手が投げた後に技を返されたような形になって逆転負けをしたシーンがあった。勝敗の判定に対しては意見は様々だろうが私はあれこそが日本柔道なのだと思う。鈴木選手は相手が大きく崩れ、自分が相手を投げることを確信した瞬間に無意識のうちに力を抜いたのではないだろうか。柔道が柔術と違う点はそこで、投げるということが完成されれば止めを刺すことまではしない。投げた後は相手が受け身を取りやすいように引手を引き上げてあげることなどの指導もある。つまり、日本柔道は指導の中で「いかに相手を崩してきれいに投げるか」ということ、「投げた相手を思いやる」ということも教える。しかし、鈴木選手の試合をみれば「相手のことなど考えずに止めをさす、投げきる」ということの重要性も感じる。

 ここで重要な点は、成長の過程においてどんな指導をしていくかということだと思う。小学生やジュニアの時代には、巻き込んだりして安易に投げることや組み手にこだわりすぎるなどといった指導は好ましくない。そうしなければ将来、世界で闘えるような技を身につけることができない。しかしながら、シニアのトップになって世界で闘う場面においては勝負に徹して隙のない柔道を指導しなければならないだろう。未完成の選手と完成された選手をどう勝たせるかでは、当然のことながら指導方法は変わる。

 おそらく多くの指導者が同じような考えのもとで現場での指導をしているのだと思う。しかしながら、15歳ぐらいから世界選手権が始まればその指導方針が危うくなっていく。選手にとってはシニアの世界選手権であってもカデの世界選手権であっても世界選手権ということになり、何が何でも勝たなければならないと思うのは当然である。指導者もそうだし、全日本の強化もそうなっていく。となれば、小さな頃から「止めをさす」ような試合の勝ち方を指導せざるを得なくなる。その結果、井上選手や鈴木選手のような切れる技を持った選手が生まれる可能性が少なくなるような気がする。そして柔道はますます面白くなくなっていく。フランス人に言われたことがある。「私たちは日本の柔道は素晴らしいと思う。私たちは日本人の技術には及ばない。しかし、私たちは試合に勝つことを楽しんでいるんだ。」まあ、これは一つの意見だが、日本人も近い将来こういったことになってしまう可能性がある。金メダリストではあっても柔道の技術にあまり魅力の感じられない選手が増えていく。百歩譲って技術に魅力がなくても金メダルが取れればまだいいが、「勝てない」「技術にも魅力がない」となってしまう可能性もある。そうなったら柔道を見る人はさらに減って最悪の結果となる。

 ジュニアの試合が低年齢化していくなかで日本柔道は大きな選択を迫られる。試合で勝つ可能性を低くしても技術を重要視した指導を行うか、それとも技術とメダルの両方を追求していくのか。建前としては後者の両方を狙うという指導となるだろうが、そんなにうまくはいかないだろう。

 私としては日本は諸外国と違った道を貫くべきだと思っている。鈴木選手が負けた試合も「柔道では勝って勝負に負けた」といえる。怖いのは「柔道でも負けて勝負にも負ける」ことだ。現在、全日本柔道連盟では指導者養成のプロジェクトを進めている。それぞれの段階の指導者に向けたセミナーも開催されている。こういった試みは非常に大事であり意義もある。しかし、結局のところ全柔連が大きな方向性を示すことが先決だろう。例えば、「小学生の大会は決勝戦はどちらかが技あり以上のポイントを取るまで行う」といったように、ルールによって目指すものを明確に示すことも可能だ。

 試合へ依存し、勝利を求めるのは自然の流れである。この流れに逆らって技術を重視した指導を進めていくには思い切ったやり方が求められる。そしてできるだけ早急に動き出さなければ、知らず知らずのうちに柔道本来の面白さや醍醐味が少しずつ失われていってしまうだろう。

礼を失する態度

2009-08-14 17:24:28 | Weblog
 昨日のニュースで自由民主党、民主党の党首討論会が流れていた。討論の内容についてはともかく、自分の目を疑ったのは討論が終わり、麻生総理と鳩山党首が退場する場面である。鳩山氏は握手をしようと麻生氏へと歩み寄った。しかし、麻生氏は鳩山氏には目をくれることもなく、背を向けてその場を立ち去った

 もちろん、現状をみれば麻生氏の苦しい立場や鳩山氏への恨み、つらみがあるであろうことは理解できる。しかしながらである。一国の総理大臣ともあろう人間があのような「礼を失する態度」をとることは非常に残念であると同時に失望した飲み屋での態度ならあり得るかもしれないが、公の場でああいった態度は許されない海外の要人を相手にしてもあんな態度が許されるのか?子供に躾するようなことを自国の総理大臣に指摘しなければならないとは・・・情けない

 柔道は「礼に始まり礼に終わる」という精神を大事にしている。どんなに激しく闘った後であっても礼をすることによって気持ちを収め、闘ってくれた相手に敬意を示す。これは柔道の精神というよりは日本人が持つ精神であり、美しい習慣であると信じたい

 しかしながら、実際には日本人は「水に流す」という行為が実は下手なのではないかとも思う。会議などであっても建設的な議論や討論などはあまりみられないなぜなら、何かを言うと会議の席であっても「敵をつくる」「嫌われる」のではという心配があるからではないだろうか。飲み会の席で「無礼講」といわれても上司に気をつかう姿を見てもそうだ。相手の意見にあわないようなことを言って対立すれば遺恨を残すのが日本の現状のようだ

 先日、ある人に言われた「世の中には様々な人がいる。そして、様々な意見や考え方がある。そういったことも受け入れられる人でいて欲しい。」私自身も思い込みが激しく、自分の我を通すことも多々ある。会議の席でも突っ走ってしまい、反省することも多い。しかし、それでも大人なのだからそういった議論や意見の食い違いを引きずって話もしない!などということはないし、そうあってはならないと意識もしている(つもり

 「日本人は礼儀正しい」などとはもはや言えない時代になってしまったようだ。日本人の倫理観や道徳観はどこへいってしまったのか。あの映像には本当にがっかりした

視覚障害者の柔道

2009-08-10 13:25:15 | Weblog
 8月8日第2回全国視覚障害者学生柔道大会が浜松市にて開催されました。参加者は男子24名、女子3名で、まだまだ多い人数とは言えないものの、こういった大会が開催され視覚障害者の柔道家にチャンスが一つでも増えることは素晴らしいことです

 大会に引き続き強化合宿が開かれ、私も講師として参加しました。視覚障害者の柔道は何度も見ていましたが、指導するというのは全く初めての経験でした。自分の伝えたいことを言葉だけで伝えることの難しさ、そして自分がいかに視覚に頼っていたのかを改めて感じました。言葉で足りない部分はボディコンタクトも必要になります。女子の選手が少ない原因の一つがここにあるのかもしれません。やはり現状では男性の指導者が多いために、女子選手に指導する際にお互いに躊躇する部分があるのかもしれません。そういった意味では健常者の指導者以上に女性の指導者が必要とされているのだとも気がつきました

 選手達は、日頃の練習環境が整っているとは言えないので、技術・体力においては健常者の選手とは大きな差があります。しかしながら、柔道への情熱や強くなりたいという気持ちにおいては決して引けを取るものではありません。ましてや、パラリンピックでメダルを獲得したからといっても世間一般の評価や関心はオリンピックとは比較になりません。彼らは何かに見返りを求めて柔道をやっているわけではなく、純粋に何かに挑戦するという部分を強く感じます彼らの頑張りに接すると理屈抜きに応援したい気持ちに駆られます。そして、励ましているつもりが、実は反対に励まされている自分にも気がつきます

 視覚障害者と健常者との柔道の大きな違いは「組み合った所から始まる」という点だけです。乱取稽古はとても激しいものです。指導をして気がついた点は、「力を抜く」という動作が難しいこと、組み合った状態から始まるので5分の時間であればフルに5分行うので運動量は相当なもの、といった点です。見えない分、つながっている部分、組んでいる手に必要以上に力が入ってしまうようです。スキー初心者が上半身に力が入ってストックに頼ってしまうのに似ているかもしれません

 力勝負になるとフィジカルで勝る外国人にはなかなか敵いません。この辺りの恐怖感をどう克服していくかが課題のようです。一方、健常者のような組み手争いがないので見ている方は一昔前のクラシックな柔道をみているような感覚になります。私も乱取をしてみましたが、組み合っての5分間は想像以上にきつく、これまでいかに組まないで休んでいた時間が長かったのかを痛感しました。力をうまく抜いた稽古も柔道には必要だと思いますが、組み合う時間が長い稽古も重要です。いっそ、健常者であっても、とくに子供達などには、組み合ったところからスタートするというルールで試験的に行ってみるのもいいのではないでしょうか

 今回、縁があって新しく立ち上がった障害者武道協会の活動に協力させていただくことになりました健常者と視覚障害者の柔道が、オリンピックとパラリンピックの選手達が同じ環境を得られないのは、管轄省庁が文部科学省と厚生労働省であるというところです。お金の出所が違うと難しい面が多々出てきます。しかし、数年前からは、連盟同士の交流が以前にも増して行われるようになってきました。フランスを始めとするヨーロッパのいくつかの国では、パラリンピック代表も相当な援助を受けて強化をしている国があります。そういった部分では日本は遅れています

 国のシステムを変えることは容易なことではありませんが、柔道家の意識を変えることはできるような気がします。そのためには、まずは知ってもらうこと、触れてもらうこと、理解してもらうことが重要です。そのために何ができるのか、できることからお手伝いができればと考えています。皆さんも応援をお願いいたします

自他共栄

2009-08-04 14:35:56 | Weblog
 最近の柔道が一般的に見ていて「面白くない」と言われるのは、以前の柔道に比べて「組み合う」時間が少なくなっているからだと思われる。組み手は勝負に大きな影響を及ぼすのである程度こだわってやる必要があるが、あまりにもこだわり過ぎだと思われるケースが多い。ボクシングで言えば打ち合いがなくクリンチが多い、サッカーで言えば後でパスばかり回してチャンスを待つ、といったような感じであろう。どの競技でもガチンコでやり合う時間が長ければ長いほどスリルがあって面白い

 なぜ、選手達が組み手に過度に組み手にこだわるようになったのか?最近では私(子供にとっては先生の立場)が子供と稽古をしても組み手争いをする子供がほとんどである持ちたいところを持たせてやって私が不利な組み手でやっても切って始めからやりたがる子供もいるつまり、柔道が組んで技をかけあうというものから、組み手争いが柔道だと勘違いしている子供や選手がいるのでは?と思うほどである

 私自身が子供の時に道場の先生からは「上の人と稽古をする時には、組み手争いなどはもってのほか!持てるところを持ってどんどん技を出しなさい」と言われた。そして「自分より力が下の者と稽古をする時には、相手に好きなところを持たせてやって、自分は不利な組み手で技を研究しなさい」と言われた。自分と力が同じぐらいの相手の時には多少の組み手争いもあったとは思うが、基本的には早く持って技をかけろ!と教わった

 世界選手権やオリンピックなどが終わり、負けると必ず反省で述べられるのは「組み手が下手。組み手で負けた。」ということだ。昔の柔道家に比べて、これだけ小さい頃から組み手争いばかりしているのになぜ下手なのか?思うに、今の柔道は「自分勝手な柔道」なのだと思う。相手がいる以上、相手も柔道着をつかむし、技も仕掛けてくる。しかし、選手達を見ていると、どうも感じるのは「相手にはできることなら柔道着を持ってもらいたくない」らしいだから、持たせてあげてこちらが持っても切るのであろう

 柔道の面白さ、スポーツの醍醐味は「攻防」にある。一方だけが攻めていては、いくら強い選手であっても面白くない。テニスでもサッカーでも攻守が入れ替わり、やってやられてという攻防が素晴らしい。サーブだけで勝負が決まってしまったら、これほどつまらない試合はない

 柔道は相手があっての柔道である。自分10点の組み手で、相手は0というのは有り得ない。6:4で組み合えれば十分、5:5であっても勝負はできるはずである。稽古の時には4:6であっても切ってやり直すのではなく、何とか工夫してやってみる気持ちが大事である。海外に行けば異常に力が強く、自分の組み手に慣れないケースも往々にしてある。しかし、少し柔道着をずらして自分が動けるところにまで持ってこれれば攻めるチャンスを作ることは可能だ

 今の選手達は早いうちから組み手にこだわりすぎるあまり、逆に組み手で負けてしまうと追いつめられたような感じになってパニックになったり、慌てたりする外国人にガップリ組まれたからといって、そこからすぐに投げられることはそうそうない。そういったがっぷり組まれた状態に慣れていないために、急に腰を引いたり、慌てて何かをしようとして墓穴を掘るケースが多い

 そもそも自分だけ良い組み手で柔道をやろうというのは「自他共栄」の精神ではない

 礼にしても同じである。一見、礼儀正しい礼に見えても相手とまったくタイミングが合っていない礼もみかける「礼」とは何のためにするものなのか?という部分が抜け落ちてしまって形として礼を教わっているとしか思えない。お相撲の立ち合いと同じで勝負ごとは相手と気持ちを合わせる部分がなければ成立しない。それぞれが一生懸命勝手なところを向いて走っているようなものだ。見ている人はどこを見たらいいのか?何を楽しんだらいいのか?結果、そのような試合は面白くないということになるのである

 柔道は柔道着を持ってやらなければならない。しかし、なぜそうなのかという理屈をわかってでなければ意味がない。最近の指導者は私も含めて、表面的な部分の説明で終わってしまっているような気がする。物事の理屈を説いて聞かせ、なぜそうしなければならないのかを教えていかなければならない。その理屈こそが柔道の教育的なスポーツだと言われる所以であり、実生活にも生かせる教訓となる。

 柔道のルールが柔道の魅力を失わせたという議論もあるが、私はそうは思わない。もちろん、要因の一部ではあるかもしれないが、取り組む人間の柔道に対する根本的な考え方を変えなければどんなにルールを変えても変わらないと思う。

世界選手権の注目度

2009-08-03 09:34:18 | Weblog
 世界選手権開催まで1ヶ月を切った。選手達はスペインでの遠征を終え、最後の追い込みに入っている

 オリンピックの翌年の世界選手権は往々にして盛り上がりに欠ける場合が多いが、今年は特にニュース等での取り上げられ方や話題性に乏しい感じがする

 スターや話題性がないわけではない。男子で言えば北京五輪金メダリストの内柴選手(66kg)、全日本チャンピオンとなった穴井選手(100kg)、女子は北京五輪銀メダリスト塚田選手(+78kg)、銅メダリスト中村美里選手(52kg)など錚々たるメンバーである

 確かに石井慧選手がプロ格闘技に転向したり、谷亮子選手が出場しないなど、見劣りすると言われればそうかもしれない。しかしながら、スターや話題は作られるものであるとも言える。そして、次々に新しいスターが生まれてくるような競技でなければ結局は競技人口も減っていき、将来の発展性は低い

 そういった意味で広報という仕事は競技の運命を左右するぐらいの重要性があるといっても良い。全日本柔道連盟内に広報委員会があり、ホームページなどの更新も以前に比べたら飛躍的に早くなった。しかしながら、この委員会が主体的に全柔連の広報を動かしているというほどの印象はない。例えば、大会を中継するテレビ局との連携であったり、柔道や選手達をどうやって売り込んでいくかといったイメージ戦略などにはタッチしていないようである

 もちろん、メディアに媚びる必要はない。まずは、純粋に柔道の魅力や選手自身の強さ、活躍で見てもらうことが重要である。必要なのは、ほんの少しのエッセンスを選手に足したり、メディアを通じてファンに伝える工夫である。その橋渡しを広報が行うことが大切である

 テレビや活字の記者の人たちも私たちが驚くほど勉強している人もいる。ただ、私たちが人々に伝えたい柔道の魅力とは若干ズレがある場合もある。そのズレが意外な結果を生む場合もあるが、広報は彼らと積極的にコミュニケーションをとり、自分たちの良さを引き出してもらえるような努力をするべきであろう。情報交換、勉強会の開催、定期的な話題の提供などなど

 何かをやろうとすればお金がかかる。広報に全柔連がどれほどの予算をかけているのかはわからない。おそらく広報委員会に所属している委員の一人として全柔連の費用で世界選手権に派遣されるものはいない。ということは、この委員会に広報に対しての指揮権がないということである。権限を与えられないでよい仕事をしろというのも無理がある

 広報だけではない。全柔連にあるいくつかの委員会どれもが同じような立場にある。会議を行い、議論はしても決定権や指揮権は持たされていない。機能する組織は、それぞれの部署に責任、権限が委譲されており、それらをトップが統括するとう体制をとっている。そうでなければ、各部署の人間たちは「どうせやっても最後に決めるのは自分たちではないから」といったような閉塞感や責任回避に陥る

 柔道界はそういった意味で「お代官様」には逆らえない、上の人には物を言えないといった感がある。こういった環境、考え方を変えなければ他の競技に、世界に置いていかれてしまう。

 連盟の仕事は強化だけではない。強化を取り巻く広報、国際、教育普及などそれぞれが戦略的なビジョンを持って機能してこそ競技、連盟の真の繁栄がある、と私は思う