山口 香の「柔道を考える」

柔道が直面している問題を考え、今後のビジョン、歩むべき道を模索する。

自他共栄

2009-08-04 14:35:56 | Weblog
 最近の柔道が一般的に見ていて「面白くない」と言われるのは、以前の柔道に比べて「組み合う」時間が少なくなっているからだと思われる。組み手は勝負に大きな影響を及ぼすのである程度こだわってやる必要があるが、あまりにもこだわり過ぎだと思われるケースが多い。ボクシングで言えば打ち合いがなくクリンチが多い、サッカーで言えば後でパスばかり回してチャンスを待つ、といったような感じであろう。どの競技でもガチンコでやり合う時間が長ければ長いほどスリルがあって面白い

 なぜ、選手達が組み手に過度に組み手にこだわるようになったのか?最近では私(子供にとっては先生の立場)が子供と稽古をしても組み手争いをする子供がほとんどである持ちたいところを持たせてやって私が不利な組み手でやっても切って始めからやりたがる子供もいるつまり、柔道が組んで技をかけあうというものから、組み手争いが柔道だと勘違いしている子供や選手がいるのでは?と思うほどである

 私自身が子供の時に道場の先生からは「上の人と稽古をする時には、組み手争いなどはもってのほか!持てるところを持ってどんどん技を出しなさい」と言われた。そして「自分より力が下の者と稽古をする時には、相手に好きなところを持たせてやって、自分は不利な組み手で技を研究しなさい」と言われた。自分と力が同じぐらいの相手の時には多少の組み手争いもあったとは思うが、基本的には早く持って技をかけろ!と教わった

 世界選手権やオリンピックなどが終わり、負けると必ず反省で述べられるのは「組み手が下手。組み手で負けた。」ということだ。昔の柔道家に比べて、これだけ小さい頃から組み手争いばかりしているのになぜ下手なのか?思うに、今の柔道は「自分勝手な柔道」なのだと思う。相手がいる以上、相手も柔道着をつかむし、技も仕掛けてくる。しかし、選手達を見ていると、どうも感じるのは「相手にはできることなら柔道着を持ってもらいたくない」らしいだから、持たせてあげてこちらが持っても切るのであろう

 柔道の面白さ、スポーツの醍醐味は「攻防」にある。一方だけが攻めていては、いくら強い選手であっても面白くない。テニスでもサッカーでも攻守が入れ替わり、やってやられてという攻防が素晴らしい。サーブだけで勝負が決まってしまったら、これほどつまらない試合はない

 柔道は相手があっての柔道である。自分10点の組み手で、相手は0というのは有り得ない。6:4で組み合えれば十分、5:5であっても勝負はできるはずである。稽古の時には4:6であっても切ってやり直すのではなく、何とか工夫してやってみる気持ちが大事である。海外に行けば異常に力が強く、自分の組み手に慣れないケースも往々にしてある。しかし、少し柔道着をずらして自分が動けるところにまで持ってこれれば攻めるチャンスを作ることは可能だ

 今の選手達は早いうちから組み手にこだわりすぎるあまり、逆に組み手で負けてしまうと追いつめられたような感じになってパニックになったり、慌てたりする外国人にガップリ組まれたからといって、そこからすぐに投げられることはそうそうない。そういったがっぷり組まれた状態に慣れていないために、急に腰を引いたり、慌てて何かをしようとして墓穴を掘るケースが多い

 そもそも自分だけ良い組み手で柔道をやろうというのは「自他共栄」の精神ではない

 礼にしても同じである。一見、礼儀正しい礼に見えても相手とまったくタイミングが合っていない礼もみかける「礼」とは何のためにするものなのか?という部分が抜け落ちてしまって形として礼を教わっているとしか思えない。お相撲の立ち合いと同じで勝負ごとは相手と気持ちを合わせる部分がなければ成立しない。それぞれが一生懸命勝手なところを向いて走っているようなものだ。見ている人はどこを見たらいいのか?何を楽しんだらいいのか?結果、そのような試合は面白くないということになるのである

 柔道は柔道着を持ってやらなければならない。しかし、なぜそうなのかという理屈をわかってでなければ意味がない。最近の指導者は私も含めて、表面的な部分の説明で終わってしまっているような気がする。物事の理屈を説いて聞かせ、なぜそうしなければならないのかを教えていかなければならない。その理屈こそが柔道の教育的なスポーツだと言われる所以であり、実生活にも生かせる教訓となる。

 柔道のルールが柔道の魅力を失わせたという議論もあるが、私はそうは思わない。もちろん、要因の一部ではあるかもしれないが、取り組む人間の柔道に対する根本的な考え方を変えなければどんなにルールを変えても変わらないと思う。