酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★2000年4月某日・・・就職斡旋会社の面接を受ける・・・これが人生のターニングポイントか

2015-02-16 20:25:04 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

人生2度目の就職面接は空振りに終わった。

とにかく就職しなければならない。

日本から持参した金も限りがある。

所持金が尽きる前に毎月収入を得られるようにしなければタイ生活も強制終了となる。

・・・・そういうわけで就職斡旋会社に面接に行くことにした。

ここに登録しておけば、こちらと先方の会社の条件が一致するところを紹介してくれるというわけだ。

その就職斡旋会社はアソークにオフィスを構えていた。

オフィスに訪問すると日本人スタッフが応対してくれた。

日本人スタッフの「こんな格好ですみません」という第一声が印象に残っているのだが、何故だったかな・・・

先日の日系企業の面接と同じような感じだった。

やはりここでもタイ語のテスト・・・というよりタイ語のレベルの確認があった。

タイ人スタッフと会話をするのだが初級、中級、上級どれにしますかと始めに聞かれる。

初級でお願いしますと答えるとそれに合わせてタイ人スタッフが質問形式で話してくるというものだ。

初級は難なくクリアできたので中級(ビジネスレベル)でもチャレンジすることに・・・・

しかし中級は難しかったというより聞いたことの無い単語が出てきたので意味が分からず。

結果、俺のタイ語レベルは初級(日常会話レベル)ということだ。

タイ語のテストが終わると再び日本人スタッフと面接があった。

これも堅苦しい面接ではなく・・・面接というより雑談だった。

「ジョニーさん、日本で治療師の経験があるのだったら就職なんかしないでバンコクで開業すればいいのに」

「確か日本人でやっている人いたと思いますよ・・・・○○整体って日本人経営ですよ」

「会社設立すれば労働許可証も取れるし・・・・うちの会社でもそういう手続きのサポートもしていますから(笑)」

「就職のほうは条件の合う会社があったら連絡します。数日で見つかる場合もあるし数ヶ月かかることもありますので、そのつもりでお待ち下さい・・・」

・・・・ということで面接は終了した。

 

バンコクで治療院を開業・・・・・それまで考えたこともなかった。

面接で日本人スタッフが話した文にすればたった3行の言葉。

しかし今思えばこの3行の言葉で、この後のタイ生活が決まったのかもしれないな。

 

この日からしばらく考える日が続く・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年4月某日・・・日系企業の面接を受ける

2015-02-15 08:44:46 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

少し進んで2000年4月某日・・・

シリパタナ・タイ語学校を終えるとビジネスレベルには程遠かったが日常会話レベルでのタイ語が可能になった。

半年タイ語学校へ通ってから現地採用で就職するというのが当初の予定だった。

4月になり当初の予定を実現するために就職活動を開始した。

タイミング良くタニヤプラザにオフィスを構える某日系一部上場企業が求人していた。

条件はタイ語日常会話可だけだったと思う・・・・

電話でアポを取り早速面接に行った。

バイトの面接を除けば正社員としては生まれてから2度目の面接だった。

日本語の履歴書を持参していたのだが、英文でも書くように用紙を渡された。

用紙の内容に沿って欄を埋めていくのだが、書いてある英単語が分からず空欄が多くなってしまった。

まずは日本人社員との面接だ。特に内容は覚えていないが堅苦しい雰囲気ではなく雑談交じりのラフな感じだった。

そしてタイ語のテストがあった。

これはタイ人社員を相手に会話するというものだ。

タイ語をテストされると言うのは初めての経験だったので凄く緊張した。

その割には話した内容は良く覚えている。

 

「今日はどうやって来ましたか?」

俺: タクシーを運転してきました。

「タクシーを運転?」

俺: いや、タクシーに乗って来ました。

「タイに来てどのくらい経ちますか?」

俺: 28年経ちます。

「えっ、28年?」

俺: いや、6ヶ月です。

「タイ人をどのように思いますか?」

俺: 真面目で働き者で性格の良い人が多いと思います。

「えっ、本当にそう思いますか?」

俺: いや、、、、そうでない人もいますが、それは日本でも同じことです。

 

こんな内容でグダグダだった。

一部始終を隣で見ていた日本人社員は笑いを堪えているような気がしたのは気のせいだろう・・・・

そして再び日本人との面接。

「来タイ半年の割には良く話せますね~」・・・とありがたいお言葉を頂いた。

「勤務地なのですが・・・・レムチャパンなのですが大丈夫ですか?」

えっ、ここじゃなかったの?レムチャパン・・・・無理!

前にも書いたが犬がいるから簡単に引っ越すことが出来ない。

レムチャパンで犬の飼えるアパートが簡単に見つかるとは思えなかった。

「募集要項に勤務地記載してなかったからな~・・・・・記載しておくんだったな~」

 

・・・・・・・・・面接修了。

後日ご丁寧に不採用の連絡を頂いた。

 

しかし、貴重な体験をさせて頂いたと思っている。

もし、ここで採用だったらまた違うタイ生活になっていただろう・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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☆★1999年12月某日・・・シリパタナタイ語学校へ入学!!!

2015-02-14 19:59:35 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

1999年12月某日・・・

ニサ・タイ語学校が修了すると簡単な日常会話は可能なレベルになった。

しかし、就職するのにはビジネスレベルで話せる必要がある。

・・・というわけで自宅からこれまた近かったYWCA内にあるシリパタナ・タイ語学校へ入学した。

ここはプライベートレッスンでレッスン料も安かった。

午前中3時間、午後1時間というスケジュールで通った。

広い教室に机が10個ほど置いてあり、それぞれで個人レッスンが行われていた。

仕切りも何も無いので隣の会話は筒抜けだ。

ベテランから新人まで大勢の先生が居たが、最初の頃は全ての先生に当たったが後半は新人の(若い)先生ばかりだった。

ここでもテキストはあるのだが、俺がニサで使用していたものと殆ど同じレベルだったので

先生との会話の中で分からないところを教えてもらうようにした。

先生との雑談の中で昨日の夜遊びでの出来事を全て報告するのだが、

その中で言おうとしていることで分からない時に話の流れから何を言おうとしているのか察してもらい

それを教えてもらうという方法をとった。

・・・・まっ、ただの雑談で終わることが多かったけどね(笑)

それでもここを終えた頃にはビジネスレベルまでには到達しないが日常会話レベルでは上達したかな。

 

この学校も日本人率は高かった。

休憩時間になると外階段の踊り場に喫煙者は集まるのだが、ここでは生徒同士仲良かった。

特にM氏は先頭に立ち今夜の遊びの仲間を募っていた。

M氏は商社の社員なのだが、会社がタイに拠点を作るための先遣隊として長期出張で来ているとのことだった。

M氏が夜遊びに誘うのはタニヤだった。

アキラ氏ともタニヤに行きM氏ともタニヤに行き・・・・・本当に飽きたよ。

ここの学校には3ヶ月近く通っただろうか。

先生も生徒も皆フレンドリーで居心地が良かった。

今思い返すと、タイ生活ではこの頃が一番楽しかったのかもしれないな・・・・・

 

 

 

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☆★1999年11月某日・・・「にしむら」の社長の思い出

2015-02-13 20:28:58 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

 

1999年11月某日

 

アキラ氏に誘われてフジスーパー界隈の「にしむら」という日本食レストランに行くことにした。

夜はそれ相応の値段だが、ランチ時間帯だと定食が150B程で食べられた。

アキラ氏は俺と知り合う前から何度か来ていたらしく社長とも顔見知りだった。

店内に入ると社長が出迎えてくれた。

「社長!今日は友達を連れてきたよ!!」・・・とアキラ氏が言うと社長は満面の笑みだった。

食事が終わる頃、社長が席にやって来た。ビールの入ったジョッキを手にしていた。

一通り俺の自己紹介が済むと今度は社長が自分のことを話し始めた。

色々と話して頂いたのだが記憶に残ってることは・・・・・・・・・・

腕にはめている金無垢のロレックスとダイアの指輪で350万円、愛車のショートのパジェロは日本から輸入して800万円かかった等々・・・

社長は元プロボクサーだったとのことで世界チャンピオンのスパーリングパートナーを務めていた事もあったそうだ。

タイに来てからも一度試合をやったとのことで、その時の写真を見せてもらった。

アフロの社長がガッツポーズしている足元にタイ人ボクサーが倒れている画だった・・・腹が出ていたのは突っ込まないでおいたよ。

社長の話は面白かった。

それから時々「にしむら」に食事に行った。

最初に行って数ヶ月経ったある日、社長が図面を手にして席へ来た。

「これはまだ秘密なんだけど・・・」と前置きして話し始めた。

「日本村の先に新たに日本料理店を出そうと思っているんだ・・・」と言いながら図面を広げた。

一目でかなり大規模な店だとわかった。「タイで一番の日本食屋ですね~」と俺が言うと

「いや、東洋一だよ」と仰ってた。

後日、完成した店にお邪魔したが確かに東洋一の店というだけある規模の店だった・・・・・タイ以外の日本食レストラン知らないけどね

 

俺が治療院を開業する前に社長のところに食事に行きその旨話すと「宣伝するよ!」とありがたいお言葉をいただいた。

その言葉通り実際にお客様を紹介して頂いた。

その後、疎遠になったが、しばらく振りに見かけた社長は杖を付いていた。

さすがにご本人に聞けなかったが脳卒中を患ったのだろう。

昨年訪タイした際、久々に「にしむら」に行ったが社長はいなかった。

ジョッキを片手に笑顔で近寄ってくる社長を思い出しながらビールを飲んだ・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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☆★1999年10月某日・・・アキラ氏&風来坊師匠との出会い

2015-02-12 20:22:22 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

1999年10月某日

タイに移住して3週間ほど経った頃、タイ関係のネット掲示板で「RCAに集まって一緒に飲もう」という企画があった。

この3週間殆ど日本語を話していない。

ニサ・タイ語学校にも日本人生徒はいるので、休憩時間に多少会話することもあるが挨拶に毛が生えた程度の内容だ。

久々に日本語を話しながら酒が飲める。

・・・というわけでその企画に参加することにした。

RCAとはロイヤルシティアベニューの略でタイ人のハイティーンが集うクラブなどがあるエリアのことだ。

企画者はアキラというハンドルネームだった。

メールで連絡を取り合い、まずは俺とアキラ氏がシーロムで待ち合わせ、そのままRCAに向かい現地で他の参加者と合流しようということになった。

アキラ氏とはシーロムのMACの前で待ち合わせた。

約束の時間より少し早めに着くとMACの階段に座っている男性がいた。

日本人とわかる容姿だったのでアキラ氏なのは間違いないだろうと声を掛けた。

軽く挨拶を交わすとタクシーに乗りRCAへ向かった。

アキラ氏がタイに来たのは俺と同じ頃らしい。

特に何か目的があって来たわけではなく、とにかくバンコクで暮らしてみたかったとのことだ。

そんなことを話しているうちにRCAに到着。ここでもう二人合流するとのことだ。

一人は既に到着していてタイ人で溢れかえるクラブ前の席でビールを飲んで待っていた。

俺とアキラ氏も軽く自己紹介をしてビールを飲み始める。

日本語で会話するのは久々のことなので、無口な俺もよく喋った。

しばらくするとスーツ姿の日本人が来た。「風来坊です」と挨拶し席に着いた。

風来坊師匠はこの時在タイ6年とのことで現地採用で日系企業で働いているとのことだ。

師匠は流暢にタイ語を話していた。

後にも先にも日本人であれだけネイティブなタイ語を話す人に会ったことは無い。

ビールを数本飲んで良い気分になったところで店を変えようと移動した。

移動の最中、人混みのため先に来ていた人とは逸れてしまった。

俺、アキラ氏、風来坊師匠の3人になり師匠の提案でタニヤに行くことになった。

タニヤのクラブは俺もアキラ氏も初めてだった。師匠がボトルを入れてある店に連れて行ってもらうことに・・・・

師匠は車に乗ってきていたので俺たちも同乗して移動した。

車は会社から貸与されているとのことだった。

求職時の面接の際には給料以外にも車が付くかどうかも交渉するとのことだ。

タニヤに到着すると師匠の案内で雑居ビルの中の店へ入った。

知らないと入りづらい雰囲気の店だ。

師匠のボトルがあったので2時間居て1500Bだった。

 

師匠とは後日何度か飲む機会があった。タイの事情などは師匠に色々と教えて頂いた。

俺が開業してからは疎遠になっていたが2005年頃、店に来てくれた。忙しくてあまり話せなかったのが心残りだ。

師匠はその後、日系企業の支社長になったとアキラ氏から聞いたときは嬉しかった。

アキラ氏とはこの日以来数ヶ月、ほぼ毎日飲み歩いた。

特に最初に行ったタニヤのクラブの居心地が良く、2時間で1500Bかかるというのに無職の身でありながらほぼ毎日行った。

しかしこの時飽きるほどタニヤで飲んだお陰で本当に飽きてしまい、日本からお客が来た時以外は寄り付かなくなってしまったよ。

アキラ氏はその後タイ人女性と結婚し日本へ帰国した。

現在警察官をやっている。

数年前、東京に出張で来る機会があるとのことで飲もうとメールでやり取りしていたが出張が無くなり結局飲まず終いだ・・・・・

久々にメール送ってみるかな・・・・・・・・・

 

 

 

 

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☆★1999年10月某日・・・大家からのクレーム

2015-02-11 08:28:32 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

1999年10月某日の出来事。

タイに移住して2週間くらい経った時だろうか。

部屋の内線コールが鳴った。

受話器を取ると・・・・・・

「ハロー!オフィスからね!アナタの部屋クサイ!クサイ!ベリークサイ!!!

掃除はしてるの?犬も洗ってるの??アナタ、メバーン(メイド)雇わなきゃダメ!!!

メバーンは月2000Bね。メバーン今から部屋に行くからね!!」

電話口で叫んでいるのは大家のオバサマのようだ。

一方的に英語で捲し立てられ、さっさと切られてしまった。

しばらくするとドアがノックされた。

ドアを開けると物凄く太った中年後期のタイ人女性が立っていた。

タイ人女性は入っていいか?と言うと、こちらの返事を待たずに入ってきた。

勝手に椅子に腰を下ろすと「オフィスからここに来るように言われて来たけど・・・・週に3回掃除に来るからね。

あとアイロン掛けもやるよ。月に2000Bね。部屋の鍵頂戴!!」

いやいや、さすがにこの初対面のタイ人女性に鍵を預けるのは気が引けた。

「俺の居る時間に来てよ。午前中は居ないけど午後は大抵居るから・・・・・」

すると、ジャラジャラと沢山の鍵の束を見せながら「皆、私に鍵預けてるのにねえ・・・・まっ、いいわ。

明日の2時ごろ来るからね!」と言うと部屋を出て行った。

 

翌日、学校から帰り部屋に居ると昨日のタイ人女性が来た。

昨日のニコリともしない表情から一変し、今日は大変にこやかだ。

部屋にある掃除用具を確認すると「これじゃあ、やりづらいな~・・・」と言うと部屋を出て行き

再び掃除用具を手にして戻ってきた。

どうやら俺の使っていたスポンジ製のモップが使いづらいのだそうだ。

代わりに持ってきたモップは初めて見る形のものだった。

面相筆を巨大にした形と言う表現が分かりやすいか・・・・

まずは掃き掃除を一通り終えると、バケツに溜めた床用洗剤を薄めた水にモップを浸し、それを絞ることなくビシャビシャと床に塗りたくっていく・・・・

こんな表現がピッタリの掃除の仕方だった。

初めて見るタイ式清掃方法に少々面食らったが、掃除が終わると部屋は綺麗になり床用洗剤の良い香りが部屋に漂っていた。

「ナイハーン!アイロン掛ける服持っていくからね!!!」そう言い残し部屋を出て行った。

この時、初めて聞いた「ナイハン」とは日本人男性に対して「旦那さん」という意味らしい。

第一印象は横柄なオバサマだったが、実は愛想の良い仕事の出来るタイ人女性のようだ。

全てのタイ人に共通することではないが、初対面の人間に対し舐められないようわざと横柄な態度を取る人もいるようだ。

こちらの出方を見て態度を決める・・・・ってことだろう。

 

無職の身には痛い出費だが、これで面倒な掃除、アイロン掛けをしなくて済むようになった。

 

 

 

 

 

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☆★1999年10/4 ニサ・タイ語学校へ入学!!!・・・その2

2015-02-10 11:03:46 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

前回からの続き・・・

 

クルー・ヌッサラーの授業は大変分かりやすかった。

タイ語学校へ入学してから1ヶ月も経つと少しは話せるようになってきた。

英語オンリーだったケイトもタイ語混じりで話すようになっていたので彼女の話の内容も大分理解できるようになった。

ケイトは駐在員の奥様らしく運転手付きの車で通学していた。

俺は行き帰り共にモトサイ(バイクタクシー)で・・・・・片道10B

ケイトは授業で喋り足りないのかランチに行こうと誘ってくることもあったが

話の相手をさせられると思うとウンザリで何か理由を見つけては断っていた。

 

ある日、教室に入ると俺の定席に小さな女の子が座っていた。

ケイトと同じブロンドなので娘だとすぐにわかった。

How are you!!!・・・・と声をかけると、読んでいた本から視線を移すことなく「FINE!!!」とだけ返してきた。

すかさずケイトが「FINE Thank You って言いなさい!!!」と注意していた。

ケイトの娘はフランス人学校に通っているとのことだった。

アメリカ人なのに何故フランス人学校なのか理由を尋ねたが、どのような答えだったかは記憶に無い。

それから数回程ケイトは娘を連れてきたが俺への返答が「FINE!!!」でその度にケイトが「FINE Thank Youって言いなさい!!」と言うやり取りは変わらなかったな(笑)

 

この頃から3時間目にタイ文字の授業が始まった。

これは会話の授業かタイ文字の授業か選択制だった。

俺は迷うことなくタイ文字の授業を選択したのだが、喋り足りないケイトは会話を選択していた。

タイ文字の授業ではクルー・ヌッサラーがそのまま教えてくれた。

生徒は俺一人なのでマンツーマンだ。

ケイトは3時間目になると他の教室に移動して、そこの生徒に混じって会話の授業を受けていた。

マンツーマンで教えてもらった割にはタイ文字は完全に覚えられなかった。

タイ文字は記憶という過程が重要なので、授業だけでなく自分でも勉強しなければダメなのだろう。

会話の方は毎夜のように街に出動しては積極的に話すようにしていたので学校が修了する頃には簡単な日常会話は可能なレベルになっていた。

しかし、このコースの期間が思い出せない。

ニサのHPを見てみたが詳しいことが書いていない。

2ヵ月半か3ヶ月のどちらかは間違いないのだが・・・・・まっ、今更どうでもいいや

 

 

 

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☆★1999年10/4 ニサ・タイ語学校へ入学!!!

2015-02-09 19:45:36 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

タイで生活するのにタイ語は必要だ・・・ってことでタイ語学校に通うことにした。

この時のプランでは半年ほどタイ語を勉強した後に現地採用で就職しようと考えていた。

家から近いことと、割と評判が良いとの理由でニサ・タイ語学校へ行くことに・・・

授業料は18990Bと記録してある。

午前中3時間位だったと思う。期間が記憶に無いのだが2ヵ月半だったか・・・・グループレッスンを選択した。

通学初日。

教室(・・・と言っても四畳半位の部屋)に入ると先客が居た。

欧米人の女性だ。一応ハローとこちらから挨拶して席に着いた。

始業時間になり太ったタイ人女性が入ってきた。担当の先生のようだ。

名前はヌッサラーとのことだ。私のことはクルー・ヌッサラーと呼んでねと仰っていた。

クルー・ヌッサラーでヌッサラー先生ってことなのだろう。

グループレッスンだが生徒は俺と欧米人女性二人だけのようだ。

欧米人女性の名はケイトだそうな。

授業は全て英語で行われた。

俺は英語が得意ではない。

中学生レベルの単語でも覚えていないものが多く英和・和英辞書が必需品となったため通学の際はカバンが膨れていた。

クルー・ヌッサラーはラムカーヘン大学を卒業しているとのことだ。年齢は最後まで聞かなかったが30歳前後だろうか・・・独身。

ケイトはUSエアフォースの士官だったそうで結婚と同時に退官したそうな。

旦那の転勤で来タイしたとのことだ。

ケイトはとにかく喋る喋る。流暢な英語で話されると殆ど内容が分からないのだが、適当に相槌打っていたせいで理解していると思われたのか

更に喋る喋る・・・・・授業の半分はケイトのお喋りだった。

その2へ続く・・・・・

 

 

 

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☆★1999年9/27 バンコク生活一日目

2015-02-08 12:36:11 | 1999年バンコクで起業した回想記

タイ生活一日目の朝。
昨夜遅かった割には早くに目が覚める。
堕落した生活を送らないように朝早く(と言っても8時位)起床することに決めていた。
犬の散歩のため部屋の外に出る。
数名居るアパートのメバーン(メイド)がそれを見るなり「ブルドッグよ~!!!」と大騒ぎし始めた。
余程珍しかったのだろう。
散歩を終え部屋に戻り少しするとブルドッグの噂を聞きつけた大家(管理人)のオバサマが来た。
「小さな犬なら良いって言ったのだけどねえ・・・これはちょっとねえ・・・」
俺:「いや、これは小さな犬でしょ。小さな犬なら良いって言ったよね?」
大家「仕方ないわね~・・まっ、いいわ」
・・・と手短に書くとこんなやり取りがあったが、これで堂々と飼えるというわけだ。

 

 

まっ、1日目で記憶に残っていることと言えばこんなことくらいだな・・・・・

この調子で書いていくと開業するまでやたらと時間がかかりそうなので以後印象に残っていることだけを書いていくよ。

 

 

 

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☆★犬と共にタイ移住・・・

2015-02-06 20:41:24 | 1999年バンコクで起業した回想記

昨日の続き・・・・・

 

アパートが決まると一旦日本へ帰国した。

犬を連れて再度渡タイするためだ。

当時、狂犬病の予防接種を半年前にしていればバンコクの検疫で留め置かれることなく即日入国できた・・・・現在のことは知らん。

 

1999年 9/26 

タイに骨を埋めるつもりで日本を出国した・・・・ってことは無く2,3年で結果を出せなければ日本に帰ってくればいいやと割と気楽に考えていた。

成田空港まで後輩のU川君に車で送ってもらった。

空港に到着すると、まずは犬の出国検疫を受ける。

検疫が終了するとUAのチェックインカウンターへ。

ここで犬の輸送費を支払う。

1キロ2000円位だったか・・・・メモ帳には76800円と記載してある。

当時の犬の体重は27キロで輸送用ゲージのバリケンネルが10キロ強だったと思う。

ドンムアン空港に到着すると今度は入国検疫がある。

書類が揃っていれば即日入国可能だ。

この時の検疫料は100B。終始笑顔の絶えない検疫官だったのが印象に残っている。

賄賂の要求があるのではと思っていたが結局何も無く即日入国できた。

空港タクシーでサトーンのアパートへ向かおうと考えていたが犬のゲージが大きくて乗せられないので

空港リムジンの1BOX(ハイエース)で向かうことになった・・・・料金は1000B

大きな荷物&犬と共にアパートに到着した時は午前2時頃だったか・・・・

疲れた。

 

 

アパートのベランダで・・・・・・

当時の写真があまり無いのが残念だ。

もっと撮っておけばよかった・・・・という後悔が現在のカメラ小僧ぶりに繋がっているのだろう

 

 

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