酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その16 賭けに勝った瞬間・・・

2024-08-31 18:40:42 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

こんにちは、酔っぱらいです。

1992年6月8日・・・2戦目当日

以前のブログで書いたように、この当時は当日計量だったので

朝、後楽園ホールに行き計量を受けて帰宅、、、夕方再び後楽園ホールに入った。

宮田会長にバンテージを巻いてもらいながら、、色々とアドバイスを頂く。

今日の試合は前回のように楽には勝てないと思うが、今の酔っぱらい君なら絶対勝てるから

最後まで諦めないで手を出し続けろ・・・このような話だったと思う。

それと、この日は相手選手の新日本木村ジム主催の興行だったのだが

メインやセミファイナルは新日本木村ジムの選手なわけで、

そういう時、トレーナーはメインやセミファイナルに出場する上位選手ばかりに、かかりきりになり

前座の選手の練習対応は疎かになるからね~・・なんてことも話していた。

ちなみにこの日のメインは前日本ジュニアライト級チャンピオンの赤城武幸氏と韓国人選手の試合だった。

俺にも作戦があった。

俺は1戦しかしてないからね、、戦績からは何も判断できないだろう。

相手は最初の方は様子を見ようとするかな・・

俺は1ラウンドしか戦わないつもりで最初から飛ばしまくろう。

全力で飛ばしたら2ラウンドでスタミナ切れるだろうな、、3ラウンド以降はどうなっても知らね・・・

別にチャンピオン目指してるわけでもないし、負けても痛くも痒くもない、、、負けたくないけど

とにかく最初の1ラウンドだけは全力で行くことだ。

1ラウンドしかやらないつもりで・・というのは賭けだ。

時々こういう賭けをしたくなるのはこの頃からだ。

入場しリングに上がった。

コールを受けた後、リング中央に会長と共に進んだ。

威圧しようと相手の目をじいっと見ながら顔を近づけたが、相手は目を伏せたままレフェリーの注意事項を聞いている。

俺みたいな下品なヤツを相手にするようなキャラでは無いのだね。

肩透かしを食らった気分だった。

なんか一人だけ気合が空回りしているようで恥ずかしかった。

ゴングが鳴った。

鳴った瞬間に相手に突っ込んでいった。

頭から突っ込んだから速攻レフェリーが間に入りバッティングに注意しろ!と言ってきた。

兎に角攻めた。

この時は分からなかったが、後でビデオを見返したら、相手はアウトボクサーだったようだ。

アウトボクシングされる前に押しまくっていたから分からなかった。

1ラウンド中盤・・俺の右フックがカウンターで相手の顎に入りそのままダウン。

カウント途中で立ち上がり試合続行。

正確な時間は覚えていないが2分過ぎに今度は左フックが相手のテンプルに入り再びダウン。そのまま俺のKO勝ちとなった。

勝った!しかも1ラウンドKO。

この時も最高に嬉しかった。

コーナーに戻ると田中先生が、おめでとう!と、グータッチをしてきた。

2度目にダウンさせた時はあまり手応え無かっただろ?と言われた。

確かに当てた瞬間、フワッとした感触だった。

クリーンヒットで1度倒した後は軽く当てただけでも倒れるんだよ・・と話していた。

浮かれまくっているところだったが、、、会長より次回の試合は7月4日新人王予選と告げられた。

1ヵ月ないじゃん!浮かれてる場合じゃないな。

翌日1日だけ休んで練習再開した。

つづく・・

 

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

2024-08-30 16:14:39 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

こんにちは、酔っぱらいです。

1992年4月某日・・・

デビュー戦の後は1週間くらい練習を休んだ。

勝ったとはいえ、打撃を受けているので少しはダメージを受けている。

練習再開しロードワークも再開して・・・1か月以上経った4月下旬。

学校が終わってからジムに行くと「次の試合決まったよ!」と会長が言った。

6月8日、、相手の戦績は3勝1敗1分・・・

もう1勝すれば6回戦に昇格できる選手だ。

俺からすれば格上だ。まあ同じ4回戦なので格上も格下も無いけどね。

さて、その日から再び練習が厳しくなった。

スパーリングの日は夜に来るよう指示された。

夜のロードワークも普通に5キロ走るのではなく

750mダッシュして200mゆっくり走ってを繰り返すというのに切り替えた。

デビュー戦の時もそうだったが、会長から試合のチケットを渡された。

自由席で定価3000円のチケットだ。

デビュー戦の時は最初に10枚渡され、俺の方から更に20枚追加注文し、、合計30枚のチケットを同級生に手売りした。

販売したらジムにお金を納めるのだが1枚につき2000円納めることになっていた。

だから定価で販売すれば1枚につき1000円が自分に入ることとなる。

まあ、俺の場合は応援に来てくれるだけでありがたいということもあり、仕入れ値の2000円で販売していた。

勿論この他にファイトマネーがいただける。

正確な金額は覚えていないが3万円だったと思う。

この他、デビュー戦ということで会長からご祝儀を頂いた。

ファイトマネーは試合当日の試合終了直後に現金で渡された。

プロテスト合格直後にジムと契約書を交わしている。

ファイトマネーの33%がジムのマネージメント料になるという契約だ。

だから、当時の4回戦のファイトマネーは5万円位で、そこからジムの手数料33%と税金・保険料などを引いて3万円だったのだと思う。

金額は別にして、俺の時代はこのようにファイトマネーを現金で頂けたので良かった。

もう少し前の時代だと、4回戦のファイトマネーはチケットのみってことがあったみたいだ。

3000円のチケットを10枚渡され、それでおしまい・・・なんて話を高校の時、同級生のO川君に聞いたことがある。

話を練習に戻し・・・

この頃、ジムには俺と同じ階級でK林君という選手がいた。

俺より早くプロになったか遅かったかは覚えていないが、彼は俺よりも全然強かった。

会長が、、こいつがチャンピオンになれなかったら俺の責任です!って言っていたくらいの才能ある選手だった。

会長が同様に言っていた選手は当時もう一人いて、後の日本ジュニアバンタム級チャンピオンの松倉義明氏だ。

・・・で、減量と練習が一番厳しい試合1週間前にK林君とスパーリングをした。

それまで何度もK林君とはスパーリングをしていたけど、この日は減量でフラフラだった。

K林君の放ったテンプルへの左フックでブラックアウトし(本当に星が飛んだ)、そのまま真後ろにバタンと倒れた。

これが初めてのノックアウト経験だった・・・有沢ジムでボディ1発で悶絶させられたことはあったけど、、

結局3ラウンド予定だった試合前最後のスパーリングは1ラウンド途中で終了。

そして試合当日を迎えた。

つづく・・・

 

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

2024-08-30 08:08:34 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

こんにちは、酔っぱらいです。

1992年3月6日

リングに立つと天井のライトの光の熱を感じた。

現在のようにLEDではなく水銀灯などで、かなりの熱を発していたのだろう。

リングアナウンサーに「青コーナー、、宮田ジム所属 ○○ポンド 酔っぱらい~!!!」とコールされた。

とりあえず四方に向かって頭を下げた。

コールが終わると会長と共にリング中央に向かい、対戦相手と対峙した。

レフェリーが注意事項を一通り手短に説明した。

バッティングやサミング、ローブローに気を付けろとか、そのような内容だ。

サミングとは親指を相手の目に突っ込もうとすることだ。

対峙した時に相手の目をじいっと見た。顔を近づけていった。

とにかく威嚇しておこうと思った。

相手は強そうには見えなかった。

余裕で勝てそうな気がした・・・無理矢理そう思うようにしていたのかもしれない。

プロテストの時と違い、全く緊張はしていなかった。

会長が「相手ビビってるよ!」と言った。

ゴングが鳴った。

「酔っぱらい~!頑張れ!!」同級生たちの声援はしっかり聞こえていた。

ゴツっと頭にパンチが当たった。

8オンスのグローブで殴られるのは初めてだ。

痛みは全く感じない。

どのように戦ったかなんて全く記憶に無い。

1ラウンド終了のゴングが鳴り、コーナーに戻った。

宮田会長が「その調子で良いよ、押してるからな」と言ったのは覚えている。

再びゴングが鳴り2ラウンド開始。

ここも記憶に無いが、、、相手をダウンさせた。

相手はすぐに立ち上がった。

レフリーが8カウントまで数えて試合続行となった。

相手をコーナーに詰めて1発良いパンチが入った時に相手の腰が一瞬ガクッと落ちた。

その瞬間、会長が「ダウン!ダウンだよ!レフェリー!ダウンでしょ?!」と叫んでいた。

その声を聞いてかどうかは知らないが、レフェリーが一瞬ハッとした表情をして俺と相手に割って入り試合ストップした。

4回戦は同一ラウンドで2度のダウンでKOとなる。

勝った!しかもKOだ。

後にも先にも人生で一番嬉しかった瞬間だ。

パチンコで勝った時なんかと比にならないくらい嬉しかった。

しかし後に始める競馬で万馬券当たった時は、この時の嬉しさに近いものがあるような気がする。

スポーツの競技で明確に勝ったという経験がそれまで無かった。初めての明確な勝ち体験だった。

同級生の一人が写真を趣味にしていて、勝ち名乗りを受けているこのシーンを撮ってくれた。

 

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

2024-08-29 18:18:18 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

こんにちは、酔っぱらいです。

前回のつづき

1992年3月6日

後楽園ホールに到着すると選手控室に向かった。

この日の試合は全員4回戦かつデビュー戦なので、当然控室は相部屋だ。

宮田会長にバンテージを巻いてもらった。

試合の時のバンテージの巻き方は練習の時とは違った。

練習ではナックル部分に厚めに布を重ねて当てるが、試合ではナックル部分には極薄く当てて

手の甲の部分に厚めに当てていた。

テーピングでガチガチにして、手首はかなり固定された感じだった。

練習では手首は割とルーズに巻いていたので、違和感があった。

バンテージを巻き終えるとコミッションの職員がチェックに来た。

バンテージをチェックするとマジックでサインを書いた。

アップを開始した。

身体が軽い。

ジャンプしたら天井に頭が着くのではないかというくらい、軽く感じた。

控室を出て観客席の後ろ側の控えで待機した。

この日、セコンドに付いてくれたのは、宮田会長、佐藤達雄先生、田中栄民先生だった。

今思えば、かなり豪華なセコンド陣だ。

自分の出番になるまでシャドーをしていた。

身体が熱かった。

田中先生に身体が妙に熱いのですけど・・・と話したら、アドレナリンが出まくっているからだよ、、と教えてくれた。

前の試合が終わり、俺の出番になった。

リング下まで行くと松脂の入った箱があり、そこに入って靴底に松脂を付けるよう指示された。

今思えばゴム底のシューズなのだから松脂は付けなくても良かったのかもしれない。

浅い箱に両足を入れ軽くツイストして松脂を付けた。

ステップを上がると宮田会長がリングロープを開いてくれている。

会長が開いてくれたリングロープの間をくぐってリングに入った。

「酔っぱらい~!!」と声援が聞こえた。

中学・高校・鍼灸学校の同級生が応援に来てくれた。

つづく・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

2024-08-28 20:08:28 | 昔の思い出

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こんにちは、酔っぱらいです。

1992年3月6日・・・試合当日

この日は俺の二十歳の誕生日だった。

現在、計量は前日に行うようだが、当時は当日計量だった。

通勤のラッシュ時の電車に乗り後楽園ホールへ向かった。

減量してフラフラしていたので満員電車はきつかった。

ホールに入ると会長が既に来ていた。

この日宮田ジムから出場する選手は俺含めて4人だったと思う。

その中に後に東洋タイトルに挑戦する五月女氏もいた。

会長に促されるまま計量室に向かった。

体重は50.3キロだった。

会長が「落とし過ぎちゃったね、、まっ、いいか」と言っていた。

炭水化物ばかりの弁当を持参するように指示されていた。

俺は実家に住んでいたのでお袋さんに作ってもらっていたが

地方出身の一人暮らししている選手には会長の奥さんが弁当を作ってくれて、会長がそれを渡していた。

俺は大量のパスタやおかずが入った弁当を持参した。

計量まで飲食制限されていたから、この時食べた弁当は最高に美味しかったね。

会長が自動販売機でコーラを買ってくれたんだけど、それがまた最高に美味しかった。

ここに来るまでフラフラしていたのに、食べた途端に回復し元気になった。

腹が膨れるほど大量に食べて、一度帰宅した。

家に帰ると再びケーキなどを食べて昼寝した。

15時位に起きると膨れていた腹は引っ込んでいた・・・身体じゅうに全て吸収されたような気がした。

支度を整え再び後楽園ホールへ向かった。

つづく

 

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

2024-08-27 11:47:00 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

こんにちは、酔っぱらいです。

1991年10月・・・

プロテストに合格して何か変わったことがあるかと言えば、個人用のロッカーが与えられたことだ。

ロッカーと言っても扉のあるタイプではなく、下の画像のようなものの一マスだ。

まあ、でもね、、これが嬉しかったんだよね。

それ以外は特に何も変わりない。

あっ、一つだけあった。

ボクシングの試合をライセンス提示すれば無料で観れるようになった。

タイトルマッチ以外という制限はあったけどね。

練習内容は特に変わらず今まで通り・・・

ヘッドギアをプロテスト合格を機に購入した。

この当時はウィニング、レイジェスのどちらかを選択する人が多かったと思う・・・国産のウィニングが多かったかな。

USA製のエバーラストなんていうのもあったが、他のメーカに比べ高価だったと思う。

俺はレイジェスを選択した。価格は9800円だったか12800円だったか、、、

この頃、宮田ジムはといえば、、会長は自主興行の準備で忙しそうだった。

12月に宮田ジム初めての興行を開催することになっていた。

メインは日本ランカーだった阿部健一氏でセミで真部氏や笠島氏の試合だった。

とにかく会長は時間があれば電話をしていた。前売りのチケットを販売するために関係先に電話をしていたのだと思う。

結局、、阿部氏は草加有沢ジムの小山豊氏と対戦し判定負け・・以前書いたが、ボクシングはこれが最後の試合となった。

笠島氏も敗れ、、真部氏だけが勝ったのだったと思う。

メインが日本ランカー同士の試合としてはかなり大勢の観客が入ったのではないだろうか。

興行としては大成功だったようだ。

1992年1月某日

いつものように昼に練習に行くと、「デビュー戦決まったよ!」と会長より伝えられた。

3月6日、、俺の誕生日じゃん

対戦相手にとってもデビュー戦だ。

その興行自体が4回戦の試合経験のない選手を集めたものだ。

だから出場する選手全員デビュー戦。

ポスターに顔写真も載った。全員4回戦だからね。

メインイベントがあるような興行だと4回戦は名前だけだったりする。

この頃、普段の体重は54キロ台だったと思う。

階級はフライ級。50.8キロ

体格的にジュニアフライ(48.9キロ)まで落とせそうだったが、地獄を見そうなのでフライ級にした。

試合が決まると、練習が厳しくなった。

それまでスパーリングは2ラウンドだったが、3ラウンドやるようになった。

会長のミット打ちも、スパーリング以上に疲労する激しさだった。

昼専門だった練習も、スパーリングやる日だけは夜に来るように指示された。

夜の方がスパーリング相手が大勢居るからという理由だ。

学校の授業が午前で終わった日は一度家に帰ってから、再び1時間近くかけてジムまで通うことになった。

ロードワークも再開した。朝ではなく夜に・・・このデビュー戦の時が一番真面目にやったかな。

近所の中学校の周囲が750mあったので750mダッシュして200mほどゆっくり走り、再び750mダッシュするってことを繰り返して5キロ走った。

練習量が増したこともあり2月の中旬には自然に53キロ台まで落ちていた。

試合の10日前くらいから減量を始めた。

今のボクサーの減量方法は知らないが、当時教えられた減量方法は単純明快。

夜間の睡眠中で500g汗で減る。昼間は普通に生活していれば500~800g位は汗と尿で減る。

そして練習で汗をかけば1000~1500g減る。

合計で2000~2500g/日減るということだ。

そこで飲食量を1日で減った分のマイナス300gにすれば10日間で3キロ減るということになる。

1日2000g汗と尿で減るとしたら飲食量を1700g/にすれば良いというわけ。

食べるものや飲むものの種類に制限はない。カロリーはいくら摂っても構わない。

むしろカロリーは摂取するように指示されていた。激しい運動するからね。

1日1700g摂取できるのだから、全然大変じゃないじゃん!って思ったアナタ・・・これが大変なのですよ。

練習で1000~1500gの汗をかいているのだから、そこだけでも同量の水分摂取が必要なわけでしょ。

それが固形物合わせて1700gだからね。

食べ物で1000g摂取したら水分は700gしか摂れないのですよ。

きつかったね~

減量開始した10日前の時点では練習も激しいので1500g減るが、試合5日前からは練習量を落としていくからね

試合前日はシャドー2~3ラウンドやってお終いだから、汗もかかない。

そうすると、固形物、水分の合計700gしか摂れないわけですよ。

腹が減って大変だったという記憶は無いが、水分量が制限されてたのがきつかったね。

そして、いよいよ試合当日の朝を迎えた。

つづく・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

2024-08-23 20:43:57 | 昔の思い出

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こんにちは、酔っぱらいです。

1991年9/25

プロテストが終わり、この日後楽園ホールで行われる試合を観戦させてもらえることになった。

ボクシングの試合を生で観戦するのは初めてだった。

それまで時間があるのでレストランで夕飯をということになった。

何でも好きなもの注文してよ・・ということで、宮田会長にご馳走していただいた。

俺がハンバーグを注文すると、間髪入れずに会長が、、「それのスペシャルセットで!」とオーダーしてくれた。

スペシャルセットはライス、スープ、その他何かが付いていたと思う。だからスペシャルなわけだ。

T川君も注文したら再び間髪入れずに「それのスペシャルセットで!」と会長はオーダーした。

どんな話をしたとか、流石に33年前のことなので覚えていない。

この日の試合はA級トーナメントの準決勝も組まれていた。

はっきり覚えているのは田村知範選手がKOで勝ったシーンだけだ。

田村選手はこの年のA級トーナメントに優勝し翌年に日本チャンピオンになる・・最終的に世界挑戦する。

メインイベントは誰だったか???

それと、酔っぱらったオヤジがビール片手に「トモ~何やってんだよ!トモ~、、行けよ~トモ~」って叫んでいたのを覚えている。

ちなみにこの日が9/25であったのは田村選手の戦歴を調べて判明した。

そして数日後、、、合格通知書が送られてきた。

通知書には9/26と印字してあるので、テスト翌日には合否が出てたってわけだね。

まあ、しかしね、、こういうものを後生大事に保管しているんだからね、、、

つづく・・

 

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

2024-08-22 16:22:41 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

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こんにちは、酔っぱらいです。

1991年9月

プロテストの数日前に指定病院に健康診断を受けに行った。

日大病院と大同病院が指定されていた。

日大病院で受けようと、板橋だったと思うが直接向かった。

病院の受付でボクシングのプロテストのための健康診断を受けたいと伝えると

すぐに理解してもらえたが、CT検査があるので事前の予約が必要だとのことだった。

今日この場で予約しても早くて1週間後と言われた。

テストに間に合わないな~・・・今だったら、事前に予約が必要か?とか予め問い合わせるのだが

この頃はそんなことにも気が回らなかったのだな。

困ってしまい、プロテストの主催団体の日本ボクシングコミッションに電話を掛けた。

電話口の女性の職員が、大同病院なら空いていれば即日受けてくれると教えてくれた。

そのまま高田馬場の大同病院へ・・・CT検査も完了し、無事終了。

プロテスト当日

宮田ジムに集合と指示されていた。

会長の車に同乗し連れて行ってもらった。

この当時、会長は真っ赤なセリカに乗っていた。

T川君が同行してくれた。会長が誘ったようだ。

T川君もプロ志望だったからね。

俺より強かったT川君はこの数か月前に病気になったらしく、暫くジムには来ていなかった。

それで、本来だったら俺と同時期にプロテストを受けるはずだったが、少し遅れることとなった。

後楽園ホールに到着した。

実はホールに来るのは初めてだった。

初めての後楽園ホール・・・意外と狭いのだな~というのが第一印象だ。

リングに上がって感触を確かめてみな、、と、会長に言われ、初めてホールのリングに上がった。

フカフカではないが、リングのフロアーは少し柔らかい感じがした。

プロテストは筆記試験の後でスパーリングを2ラウンド行うという内容だった。

受験者は何人居たか覚えていない。

筆記試験はルールに関するもので、これで落ちる人は居ない程度の内容だ。

受験者の中で満点が一人だけ・・・俺ですよ

ジムの壁の隅に貼ってあったパンチの絵と名称が共に記載していたものだけど・・・

それをタマタマ目にしていたわけですよ。

皆が正答できなかったパンチの名称・・・「スイング」

ジャブ、ストレート、フック、アッパー・・・これは皆分かるが、「スイング」はあの張り紙を目にした人じゃないと名称が出てこないだろうね。

次に体重の軽い順にスパーリングを行った。

俺は軽い方なので早い順番だった。

会長とT川君にグローブを着けてもらった。

グローブを着けてもらっている間に心臓がバクバクしてきた。

後にも先にも人生で一番緊張した時だ。この後のデビュー戦なんか問題にならないくらい緊張した。

本当に人生で一番だよ。

名前を呼ばれてリングに上がった。

2ラウンドのスパーリングが開始された。

スパーリングが始まっても心臓はバクバクしていた。

緊張しながらも俺の方が優勢だった。

1ラウンド終了しインターバル。リング下の会長が何かアドバイスくれたはずだが、何を言われたのか記憶が無い。

2ラウンド開始・・・最後の30秒くらい相手に一方的に攻め込まれ亀状態だった。

スパーリング終了しレフェリーに挨拶しリングを降りた。

降りるときに会長に「大丈夫ですかね?」と尋ねた。

会長は何も言わない。

リングを完全に降りて、リングから離れてから初めて会長が「大丈夫だよ、合格だよ」と言ってくれた。

「最後はどうしたの?スタミナ切れたの?」とも言っていた。

俺が尋ねた時にすぐに答えなかったのは、審査員が近くに居たからのようだ。

俺自身は合格と思えるほど優勢ではなかった印象だ。

最後に一方的に攻められて亀になっていたこともある。

この日は夜にボクシングの試合があり、その試合を観戦させてもらえることになった。

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

2024-08-21 11:28:36 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

こんにちは、酔っぱらいです。

1991年7月

宮田ジムに入門して10カ月ほど経っていた。

ここまで変わらず学校帰りの昼間の時間帯に練習していた。

練習終わって家に帰り、夕方から工場にバイトに行くという生活だった。

スパーリングは3回やる内の2回はT川君とだったと思う。

3回に1回は他の練習生とやっていたが、その中に獨協大学ボクシング部の部員も居た。

当時、獨協大学のトレーニング場が工事中でリングが使えないために、宮田ジムまで練習に来ていた・・という理由だったと思う。

いや、違うかな、、獨協大学にはリングが無いからスパーリングやる時だけ宮田ジムに来ていた・・だったかな。

部員は5人位来ていただろうか。

その中の一人とスパーリングをすることになった。

2ラウンドの予定で始まったスパーリングだが、1ラウンド途中、ボディーアッパー1発で悶絶させた。

相手は余程悔しかったのか、またスパーリングして欲しいとお願いしてきた。

嫌だよ嫌だよ・・・俺だってマグレだと思っていたからね。

次やったら、こっちがボコられるかもしれないからね。

悔しさもあって120%の力出してくるかもしれないしね。

そんな人を相手にするのは絶対に嫌だよ。

俺が勝手に相手決められないから会長に話してねってことで、その場は逃げたよ。

この頃、会長からプロテスト受験の話を頂いた。

受験が決まると、練習内容的には変わらなかったが、朝ロードワークを行うように指示された。

この頃はロードワークは朝っていうのがお決まりだった・・・走る前に生卵は飲まなかったけどね

起床したばかりで完全覚醒しないうちに走るのは身体に良くない説が出始めたのも、この頃だったかな・・・

プロテストまでは真面目に早起きしてロードワークしましたよ。距離は5キロ位だ。

あっ、でもね、ボクシングやっているって他人に話した時に、朝走るんでしょ?何キロ走るの?って尋ねられると、、10キロって答えていたよ。

5キロではね、、普通過ぎるでしょ。

それと、もう一つ指示されたのはリングシューズを購入することだった。

当時は普通に購入可能なものはアシックスかランバード(ミズノ)の2択だったと思う。

今はハイカットやローカットが選択できるみたいだけど、当時はハイカット一択だった。

それと当時はゴム底と革底の2種類あってボクサータイプは革底、ファイタータイプはゴム底を選択することが多かったかな。

俺はランバードのゴム底のシューズを選択した。

それまで普通のランニングシューズを使用していたが、リングシューズは足にフィットして軽いし、リングマットにしっかりグリップするため格段に動きやすくなったのを覚えている。

9月に入りプロテストが近くなると指定病院に健康診断に行くこととなった・・・

つづく・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

2024-08-19 14:58:39 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

こんにちは、酔っぱらいです。

見学の翌日から宮田ジムで練習開始した。

会長がジム専業ということもあり13時だったか13時30分が開始時間だった。

練習初日に一番最初にやったのは、バンテージの巻き方を教えてもらうことだった。

有沢ジムで練習してたのにバンテージの巻き方って???

有沢ジムでは練習生は伸縮バンテージを使用していた。伸縮性のある包帯のようなものだ。

宮田ジムでは練習生も最初からバンテージとして綿包帯を使用していた・・・有沢ジムでは選手になると綿包帯を使っていた。

こちらは伸縮バンテージとは巻き方が少々異なる、、というか全長が倍くらい長いので、その分余計に巻くことになる。

有沢ジムで半年ほど経験しているということで、スパーリング開始するまでは早かったと思う。

昼間は練習生が少なかった。

昼に来るメンバーは決まっていた。

その中の同じくらいの体格のT川君とスパーリングをやるようになった。

T川君は同年代で板前の修業をしていた。昼に練習して夕方から出勤していたようだ。

T川君は俺より少し強かった。だから俺の方がパンチを貰う数が多かった。

俺より少し強い相手だったのが、俺にとっては良かったのかもしれない。

まあ、この頃はスパーリング恐怖症は治まっていたよ。一方的にボコられることは無くなっていたね。

この頃(1990年)の宮田ジムでは3人の選手が新人王トーナメントに残っていた。

阿部健一氏(後の日本ランカー)、真部豊氏(後の日本チャンピオン)、笠島氏・・

このお三方は12月の東日本新人王決勝まで進んだ。

結局、阿部さんだけが東日本決勝を勝ち進み全日本新人王決勝も勝利し全日本新人王となった。

阿部さんは昼間に練習していることもあった。

元々シュートボクシングの選手でボクシングに転向したようだ。

試合前の阿部さんは減量がきつそうだった。ライト級だったと思う。

最後の試合の前の練習中に次の試合からは階級上げたいと会長に訴えていたのが印象的だ。

デビューから9連勝していたが10戦目で有沢ジムの小山豊氏と対戦し初黒星・・・これがボクシングでは最後の試合となった。

その後、どのような経緯でそのようになったかは知らないが、空手の大会で佐竹 雅昭氏と対戦し破れる。

空手の大会に出場したからなのか、空手の大会に出場するために、、どちらかは不明だがボクシングは引退した。

真部氏や笠島氏は俺が夜練習に行くようになるまで会うことはなかった。

宮田ジムでは逃げ出すことなく続けることが出来た。

何故かってね・・・宮田会長はとにかく些細な事でも長所を見つけては褒めるんだよね。

例えばミット打ちしてる時なんかに「酔っぱらい君!パンチ強いね~。パンチの強さだけなら世界チャンピオン並みだね~」・・・こんな感じでね。

そういう風に褒められると、その気になるんだよね。

まあ、しかし、、、同じように褒められている練習生が大勢いたけどね。

宮田会長はどの練習生にも分け隔てなく話しかけていましたよ。

この時から何年も経った時、夜のニュース番組で宮田ジムの特集が放送され、久米宏氏か古館一郎氏だったかと思うが

「この会長は褒めて伸ばすタイプの指導者なのですね~」ってコメントしていたのを覚えている。

宮田ジムに入門してから丁度1年後にプロテストを受検することになった。

その話は次回・・・

つづく

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