台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ170 バレンタインデーの想い出は?

2013-02-14 07:35:02 | 台湾
 はっきり言って、ない。だって、俺は、本当に好きな人に、告白したことない。
好きでない人には、好きといったことあるけど・・・・。
本当に愛している人には、言えなかった。だって、高校生・大学生だったから・・・・。幸ちゃん、雅代さん、加藤さん。紀美子。
四人か。愛した人は。その中で、エッチしたのは、ふたり。
 大体青春時代に少しあったが、あまり、なじんでいなかった。だから、ほとんど義理チョコ。
義理貰ってうれしいか、ま、貰わないより・・・。けど、貰わない方が、はっきりしている。
なぜ義理なんてある。必要ないと思うけど・・・。チョコレート会社の戦略に乗っているだけ。
俺には、あまりいらない。仮に、手紙とかひとこといつも「ありがとう」の方が余程いい。
義理は、大切。義理チョコは、わからん。義理人情の方は、・・・。大切。

義理チョコでも、幸せになれるのなら・・・・・・。俺の青春時代って、好きな人には、言えなかった時代。スキーとか愛している、
今でこそ、言えるが・・・・・・。だから、・・・。治郎張でも、言えないことある、あったんだ。馬鹿。おれは、本質は、恥ずかしがり屋。
年齢が、少し過ぎたので、図々しくなっただけ。
 本質は、変わらない。
いつでも。高校生の時代と同じ気持ち。心は、年取っていません。頭の毛は、ないけど。
あの時代本当毎日、毎日充実していた。自分のあるだけの力・能力、妄想力、・・・。使って生きていた。いつ辞めたのその全力疾走は、
大学で五月病が終わってから・・・。治郎ちゃん、5月病罹ったの?
そりゃ罹った。大学生活と浪人生活のギャップにびっくり。
しばらく、落研も行かず、家でごろごろ寝ていました。
こんなモン。
それからは、現在と同じ。心境。だから、勉強は、先生になってから・・・勉強しました。それまでは、麻雀、新宿末広、妄想、・・・。石井の家。
でたらめ毎日。朝・昼・夜は、でたらめ。
それと、アルバイト。三越デパート。かとうさんとそこで知り合いました。
 いいひと。ほんとうに、なんで・・・・結婚しなかったんだろう・・・・・・。おれがまだ。一人前でなかったから・・・。
結婚急かせるから・・・・・・。
 急かせなくて、待ってくれたら、したと思うよ。だって、俺教師になったの、22歳かな。加藤さんはね一歳上。だから3歳。
何で、当時結婚て、早かったのかな。わかりません。そういえば、幸ちゃんは、22、23歳で結婚。
 当時、適齢期は、いくつか知りません、いつでも、適齢期だわ。そうだよ。いつでも・・・・。
「やりたい、やられたい人」は、適齢期。何の話
・・・・・。下ネタ。
                                              再見。

190     今日は、バレンタインデーですか?

2013-02-14 02:23:54 | 台湾
 俺の時代にバレンタインデーは、ありませんでした。
いつから、できたの?
 インターネットで調べます一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。「主として女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。
ロッテかどこの会社が始めたのかわかりません。、翌年1959年からである。昨年の失敗を活かそうとメリーチョコレート会社はハート型のチョコをつくり、「女性から男性へ」のキャッチフレーズを掲げて、売りはじめた。これに目を付けた森永製菓は1960年にマスコミを通じて、バレンタインデーの宣伝を大々的にはじめた。各チョコレート会社も「遅れをとるな」と言わんばかりにハート型のチョコレートを販売しはじめた。

 バレンタインデーが定着しはじめたのは1970年代に入ってからである。しかし、それまでには、各チョコレート会社のサラリーマンたちがくり広げる汗と涙のドラマがあっただろう。バレンタインデーの販売額を見て、万歳三唱しただろう。今日のバレンタインデーとは、各チョコレート会社の努力の結晶といえる。その証拠に、チョコレートを贈る習慣が定着しているのは、日本だけであるからだ。
 森永だったんだ。


ま、なん゛でもいい。
今日は、何の日ですか、ここは、台湾。松木 治郎。




                                   再見。

ブログ189 ひとは、生まれ変われるか?

2013-02-14 01:42:26 | 台湾
俺は、楽天主義者。だから、人はいつでも・どこでも・わかることができる、と信じて、61年間生きてきました。
楽しいよ。人間、自分が変わっていくのがわかると、・・・。俺の話で悪いが、・・・。
 第一に変わったのは、中学二年生の時、なんだ、勉強って、こんなに簡単なんだと思った時。
そして、びっくりしたのは、俺じゃなくて、俺の周りの人たち。全然、前と俺に対する見方が違う。
おれは、全然変わっていないのに・・・。ただ、勉強少しがんばっただけ・・・。人間って、不思議。周りが俺を見る目が変わると、
いつの間にか、俺は、もう一人の自分を演じている。
 二つめの変化は、人間には、どうがんばっても、その時期には、叶わないことがあるということ。つまり、その時の能力の限界を感じた時。
三回目は、ドモリを克服するために、「落語」を一生懸命演じた時、「笑われること」が喜びに。普通の人は、笑われること嫌でしょ。おれは、嫌でなくなった。
 四つ目は、教師二年目のあの苦難を・・・・。乗り切ったのかわからんが、これ以来死のうと一度も思ったことがない。
五つつ目の変化は、息子を亡くしたとき、「人間一番大切な物は、いのち、命、生命」これは、真実。
六つ目は、ギャンブルに溺れ、自分の血が止められなく・・・。台湾に来て、やっと、・・・・。
七つ目の変化は、台湾という環境が俺に合っていると感じたとき。
これからのことは、わからないが、人生の節目、節目にいろんな人で出会い、励まされ、時に叱られ、時に、褒められ、・・・
生き延びることができました。
 あとの20年は、苦しんでいる人、悩んでいる人に、苦学生に。障害者に、教え子に、そして、娘に・・・。
捧げたい。
 欲は、ない。生きていれば・・・・。ま、俺は、いまのところ、普通に生活すれば、お金には、困らない・・・・。
だから、悩みという悩みもない。
 多く悩んでいる人がいれば、励まして、・・・・。
ひとは、変われるだから、新しく、生まれ変わればいいだけ。過去を捨てるんだよ。
そして、もう一度、自分を再構築する。もちろん、年寄りは、もう無理。おれも同様。
 若い人間の特性。それは、冒険心、チャンレジャー精神。これさえ持っていれば、・・・。あと健康な身体と夢をもって、
思い切って生きろ。君たちは、若いんだから・・・・。
 宮澤賢治になったようだ。そんなことない。相変わらず、ドジでまぬけな治郎ちゃんです。
  

                                       再見。