実高ふれ愛隊で~す(^^)/
『加賀の白山信仰』について、加賀市観光ボランティア大学第17回講座で勉強したことをもとに
ご紹介させていただいています。
とっても美しい姿をした「白山」に神々が宿ると考えたのは、何も加賀の人たちだけではありませんでした。
白山を仰ぐことができる福井(越前)や岐阜(美濃)の人たちにとっても、「白山」は「水の神」として
大切なものでした。だって、「白山」を源として、岐阜に向かって長良川が、福井に向かって九頭竜川が、
そして富山に向かって庄川が流れていますから、それは当然のことだったと思います。
平安時代になると、「白山」への信仰には仏教的な要素が色濃く入ってきました。
昨日のブログでご紹介しましたように、御前峰(2702m)には十一面観音(白山妙理菩薩の本地仏)、
大汝峰(2684m)には阿弥陀如来(大己貴命の本地仏)、別山(2399m)には、聖観音(大山祇神
の本地仏)が置かれ、仏教や修験道と結びついて信仰が全国へと広がっていきました。
白山を信仰する人びとのエリアが拡大したことによって、白山山麓の加賀、越前、美濃にはそれぞれ
信仰活動の拠点が作られていきました。それは、加賀の白山寺、越前の平泉寺、美濃の長滝(ちょうりゅう)寺
の3つで、「白山三馬場(ばんば)」とよばれるようになりました。馬場とは、そこまで馬できて、馬を止めて
のぼり始めるところという意味です。今風に言えば、登山口と考えたらいいようです。そして、
それぞれの拠点から白山の頂上をめざす登山道は、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道として
整備されていきました。ちなみに、現在もっとも多くの人が白山へ登るために利用する「砂防新道」は、
むかしの越前禅定道の一部です。
そして、この加賀の白山寺、越前の平泉寺、美濃の長滝寺は、どれが白山信仰の本家であるか、とっても
はげしい争いを繰り広げたといいます。「白山は、わしらの山や。頂上は他のもんには渡さんぞ~!」
とくに、江戸時代にはいると、そのいさかいは激しさを増しました。
美濃の郡上八幡藩にいる「御師(おし)」と加賀・越前の人たちの間で、言い争いが起きます。
「御師」とは、白山を信仰する全国各地の人を白山まで道案内する役割を果たして人びとで、
いまの岐阜県石徹白(いとしろ)の人びとは昔、全員「御師」だったといいます。争いの原因は、
お初料という、山の神や仏に捧げるお金の取り分をめぐるものでした。
また、越前禅定道の牛首村と加賀禅定道の尾添(おぞう)村の間でも、材木の利権をめぐる対立が
深まりました。その結果、この騒ぎに江戸幕府が乗り出します。結局、白山山麓の土地は幕府おとりあげ
となり、その後「天領」として治められることになりました。
当時は、「白山」を、みんなのものと考えることが難しかったのでしょうね。