隊員NO.3ゆかぴで~す
12月21日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学第18回講座
「片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟とラムサール条約-」で、櫻井佳明レンジャーから
教えていただいたことをもとにレポートさせていただきます。
さて、全国的にも有名な水鳥の楽園「片野鴨池」はどうやって生まれたのでしょうか?
その誕生にはいくつもの歴史があります。
今から500年ほど前、今の片野鴨池あたりは谷地形でした。それが海岸部に日本海の
潮風による砂丘が発達したことで、水がせき止められ、大きな池ができ上がりました。
それはそれは水深の深い池だったそうで、今でも鴨池周辺の山には、水が貯められて
いた痕跡が見られるそうです。江戸時代になり、大聖寺藩は食糧を増産するために、
新田開発を進めていました。そんなことから1678(延宝6)年、藩主の命により
大聖寺藩士・魚屋長兵衛がこの池の水を抜くため、西端にトンネルをつくり、
今の片野鴨池にある大池の原型ができたのです。すると、この大池にはたくさんの
カモたちがやってくるようになりました。
1688(貞享5)年、一人の大聖寺藩士がそんな大きな池でカモを捕らえます。その男の
名前は、村田源右衛門(げんえもん)。片野海岸に魚釣りに行った帰り、池の近くを通り、
あまりに多くのカモが飛び立つのを見て、タモ網を上に投げたところ、見事にカモを捕まえた
のです。これが、"坂網猟"のはじまりだそうです。その後、大聖寺の藩士たちによって、
カモを捕らえるための"坂網"の工夫がされていきました。そして大聖寺藩が武士の鍛錬
の一つとして、カモ猟を奨励したことから、この"坂網猟"が定着していったのです。
当時カモはとっても貴重な食べ物でした。大聖寺藩がとれたカモを金沢の本藩や
江戸幕府に贈っていたという記録も残されています。また、片野村には「田地水溜料」が
藩より支給され、鴨池の保護が行われ、鉄砲による狩猟はずっと禁止されてきました。
明治時代に入って、一般の人びとにも"坂網猟"をすることが認められるようになりました。
人びとは組合を作って、「坂場」(カモを狩猟する場所)の使い方をはじめとする"坂網"を
続けていくために必要なルールを設け、鴨池を守っていったのでした。
このような片野鴨池の歴史において、とても重大な危機だったのが、第2次大戦直後の
GHQ占領時代です。GHQの中で、スポーツハンティングの場所として片野鴨池が
注目を集め、鉄砲による狩猟が行われるようになったのです。「このままでは、鴨池に
環境の変化にとっても敏感なカモたちがやって来なくなります。」"坂網猟"を行っていた
地元の猟師さんたちは、「GHQにものを言うなんて、とんでもない」といわれていた時代
だったにもかかわらず、片野鴨池を守るため勇気ある行動に出たのでした。