実高ふれ愛隊で~す(^^)/
『加賀の白山信仰』について、レポートさせていただいています。いつもたくさんのみなさんに
お読みいただき本当にありがとうございます。12月17日にUPしました「白山三馬場・
長い間、白山の頂上をめぐる争いがありました!」が、「にほんブログ村」の地域生活(街)
中部ブログ 注目記事ランキングで第2位にランクインしました。これからも頑張りますので、
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さて、今の加賀市の地域と白山は切っても切り離せない関係を持っていました。ですから、平
安時代からずっと、この地域は加賀馬場(ばんば)にある白山本宮白山寺の勢力の下にあり、
「白山五院」や「三箇寺」という白山勢力と関係する8つのお寺があったといいます。
「白山五院」とは、柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野坂寺・大聖寺の五つのこと、「三箇寺」とは、
那谷寺・温谷寺・栄谷寺のことです。
はっきりとした確証はないそうですが、「白山五院」があったのは、柏野寺は柏野町にある白山神社
付近、温泉寺が山代温泉薬王院あたり、極楽寺が大聖寺畑町付近、小野坂寺が高尾町の南部、
そして大聖寺が錦城山にあったとされています。そしてこれらのお寺が加賀江沼の人たちの
心の拠り所になっていたのです。
これら白山に関係するお寺は、平安時代の終わり頃にはとてつもないほど大きな力を持っていました。
ですからそれを物語るような大事件が1176(安元2)年に起きています。
この年、ときの権力者である後白河法皇とすごく親しい藤原師光の長男・師高(もろたか)が、
加賀守に任命され、その目代(代理)として弟の師経(もろつね)が加賀にやってきました。
しかし、白山寺の勢力があまりに強く、どんどん荘園を拡大し、ついには今の小松にあった
加賀守の土地(国衙領)をも侵そうとしていました。このことからトラブルが起き、
師経が国府の近くにあった湧泉(ゆうせん)寺を焼き払ってしまいます。
すると白山に関係する山伏・神人・大衆の怒りが大爆発しました。
かれらに率いられた2,000人が、加賀の国府を襲ったのです。この中には那谷寺・温谷寺・栄谷寺の
「三箇寺」からやってきた人たちも含まれていたといいます。
師経は夜逃げして京都に帰りますが、怒った白山の山伏たちは、本寺である比叡山延暦寺の神人
と合流し、日吉神社の神輿(比叡山の神をのせたみこし)をかついで、「おい、神様がお怒りだぞ!」
「加賀守藤原師高をいますぐに処分しろ!」と強訴したのです。それに対して後白河法皇は、
「これはもはや訴訟ではない。謀叛(むほん)だ」と断じ、平重盛に威嚇攻撃させたところ、そのとき放たれた
弓矢が神輿に突き刺さってしまいます。当時は神人以外の人間が神輿に触れることさえタブーでしたから、
これまた大変な騒ぎとなりました。ついに後白河法皇は、藤原師高兄弟を解任し、配流したのでした。
このとき後白河法皇は、あの有名な『賀茂川の水、双六(すごろく)のさいの目、山法師、これぞ朕が心に
随(したが)はぬ者』という言葉を述べました。絶対的な権力を持っていた後白河法皇でさえも、白山や
比叡山の神人の力にはかなわなかったのです。
このように加賀の白山信仰のエネルギーは、ついに国家の体制すらゆり動かし、ずっと続いてきた律令国家
というしくみをくずすキッカケとなったのです。