隊員NO.3せりかで~す(^_^)v
「加賀の一向一揆と蓮如」をテーマに、レポートさせていただいています。
蓮如が越前吉崎にやってきた時代は、「天下の大乱」応仁の乱(1467~77)の真っ最中でした。
ここ加賀の地でも、加賀一国の守護職の座をめぐって、富樫一族の東軍・兄政親(19歳)と、
西軍・弟幸千代(16歳)が若くして、二派に分かれて争っていました。
この時代は、人びとがそれまであたりまえだと思っていた権威や価値観がもろくもくずれ、
ある意味では、「何でもあり」の時代だったように思います。
ですから、人びとは自分たちの利益や欲望のままに、東軍・西軍に分かれ、離合集散を繰り返しながら、
あっけらかんと自由に行動したのではないでしょうか。
今回わたしたちの講師をしていただいた家山先生は、「今の時代と、とってもよく似ていませんか?」と
おっしゃっていました。
1474(文明6)6月、まるで白黒がめまぐるしく入れ替わるオセロゲームのように、富樫一族をめぐる情勢は、
兄政親に有利な状況になりました。
蓮如のもとには、政親を支援する将軍家の奉書が出されたという知らせや、冨樫幸千代方が、
蓮如のすすめる専修念仏(せんじゅねんぶつ)を禁止して、門徒たちを殺害したり、放火したりといった乱暴を
働いているという話が伝わってきました。
「蓮如さん、幸千代のグループとたたかいましょう!」吉崎にやってきた門徒たちはそう主張したことでしょう。
蓮如は本当は政治の状況に左右されず、浄土真宗の正しい教えを人びとに伝えたいとの思いから、
北陸にやってきたのですが、時代はそれを許さなかったのです。
結局、蓮如は門徒の意見に従うしかありませんでした。
1474年(文明6)7月、富樫政親は国侍や蓮如をしたう門徒たちを擁して、幸千代方を圧倒し、
11月には加賀を制圧しました。これが文明六年の一揆です。
この出来事について、奈良興福寺の尋尊は『大乗院寺社雑事記』に、「土民蜂起希有(けゆ)のこと也。」
と記録しました。尋尊はこの当時、奈良興福寺のトップで、大荘園領主であるとともに、
貴族出身で大和一国の守護をつとめていた人です。尋尊は、一国の守護が、武士たちの意見ではなく、
百姓たちの意志によって左右されるようになったことをなげいたのでしょう。
それでは、このたたかいで加賀の百姓たちは勝ったといえるのでしょうか?
百姓たちの力がなければ、一国の守護でさえ決まらなかったことを考えると、百姓たちの政治的発言権が
増し、百姓の思いが生かされる時代になったということができます。しかしその反面、このたたかいでは、
二千人もの名もない人びとの命が奪われています。そのような意味では、「極楽往生」を願う人びとの思いが、
自分の利益のために行動する大小の武士たちによって利用されてしまったということもできます。
蓮如は、百姓たちの純真な心が、政治に悪用されることをおそれていました。
1475(文明7)年8月、蓮如は「利」と「欲」がうずまく吉崎の地を去っていきます。