隊員NO.3せりかで~す(^_^)v
課題研究の時間に家山勉先生から「加賀の一向一揆と蓮如」について教えていただくために、
福井県あわら市の吉崎御坊跡へ行きました。吉崎御坊はかつて一向一揆の拠点となった所ですが、
戦火に焼き尽くされて現在、建造物は何も残っていません。しかし当時の面影を十分しのぶことができます。
吉崎東別院の脇に吉崎御坊跡への登り道がありました。わたしたちは石畳の急な坂道を5分ほど登りました。
すると、そこには「御山」と呼ばれる広々とした御坊跡がありました。
木々が茂る広場の正面奥に御坊本堂跡の大きな石標。そして、その左手には高村光雲作の
蓮如上人のとっても大きな高い像が御坊跡全体を見守るかのように建っていました。
そこから右手の遊歩道を行き、「蓮如上人お腰掛けの石」をすぎると、北潟湖の入江や
天然記念物「鹿島の森」、さらにその向こう側に日本海をながめることができます。
昔から一度も斧が入ったことがないという「鹿島の森」は、原生林に包まれたとってもこんもりとした
島でした(だけど、陸続きになっていますよ)。家山先生はここで、わたしたちに質問をされました。
「この吉崎御坊跡は、みんながよく知っている、たとえば福井県の永平寺などとは、どこか違っていると
思いませんか?」
先生の言葉を聞いて、あらためて周りの様子を見ると、吉崎御坊跡は三方が北潟湖に囲まれ、
標高33mの小高い山の上にある吉崎御坊跡は、まるで戦国時代のお城の跡みたいで、お寺というよりも、
自らの身を守るためにつくられた要塞(ようさい)のような形をしていることに気づきました。
そうです。吉崎御坊は、まさしく一向一揆衆が築き上げた要塞だったのです。
蓮如が、幕府や他宗派の圧力から逃れて、越前(福井県)吉崎にやってきた当初は蓮如が住む
小さなお堂を建てられていただけでした。
しかし、吉崎には、「蓮如さんのところへ行けば、年貢の取り立てはないぞ」
「領主から仕事に駆り出されることはないそうだ」などという噂を聞いた門徒たちがどんどん集まってきます。
そして、守護大名が村からの移動を禁じ、吉崎御坊の弾圧に乗り出すと、彼らは怒って、
柵をめぐらし、砦(とりで)のように固め、勝手に防戦の準備を始めたのでした。
争いの嫌いな蓮如は、慌てて十一カ条の掟(おきて)を定めます。「ほかの宗派に悪口を言ってはならない」
「わたしたちのやりかたを、ほかに強制したり、自慢してはいけない」「門徒の寄り合いで、ぜいたくをしては
いけない」「門徒がばくちや賭け事をすることを厳禁する」。
しかし、1474(文明7)年、守護大名の富樫政親(とがしまさちか)・幸千代らが吉崎を攻撃すると、門徒たちは、
武器を持ち、相手がプロの武士集団であるのもかかわらず、命をかけて戦いを始めたのでした。
なぜ、自分の命の危険を冒してまで、門徒が闘ったのか、最初は不思議に思いました。
でも吉崎御坊跡に立つと、不思議とその理由が分かったような気がしました。
この当時の平均寿命は30歳前後だったといいます。だから、門徒たちは「どうせ、俺たちは一度は死ぬ
のだ。どうせ死ぬのなら、無理難題を押しつけてくる奴らと闘って死のう。」と考えたのではないでしょうか?
「蓮如さんは、俺たちのような罪多き人間だって、極楽浄土へ行けると言ってくださっているじゃないか」
人びとはそれこそ死に物狂いでたたかいます。二千人以上の戦死者を出しながらも、
要塞「吉崎御坊」を拠点にして、阿弥陀仏を信じ、大好きな蓮如の教えに殉じていきます。
かれらは多くの仲間と心を一つにして、勇気と信念を持ってたたかったのでした。