隊員NO.3せりかで~す(^_^)v
これまで講師の家山勉先生にお話しいただいたことをもとに「加賀の一向一揆と蓮如」
についてご報告させていただきました。
さて、1475(文明7)年に蓮如が越前吉崎を去った後、北陸地方は一揆の時代へとなだれこんで
いきました。加賀の本願寺派の門徒たちはさらにその力を伸ばし、1481(文明13)年頃には、
守護富樫政親の支配は形だけのものになっていきます。そして、加賀では領主が誰か分からないぐらい、
門徒による年貢の横領や未払いが増え、各地で領主と門徒の間にトラブルが起きました。
しかし、富樫政親はあくまでも室町幕府という従来の権力を信じ、将軍・足利義尚(よしひさ)のために、
近江(いまの滋賀県)の守護六角氏を攻めるため、兵をあげます。そして、その時農民から多くの食料や
人夫を出させたので、人びとは反乱を起こします。
政親は、1487(長享元)年、急いで加賀に帰国し、これを押さえこもうとします。
これに対して、本願寺派の坊主・門徒に率いられた加賀の一向一揆は、政親の大叔父にあたる
泰高(やすたか)一派と結び、また越中・能登・越前の一揆門徒らの支援を受けて、
1488(長享2)年5月、「南無阿弥陀仏」と書いたむしろ旗を立てながら、政親の立てこもる
高尾城(いまの金沢市)を包囲したのでした。
富樫政親は、越中や能登畠山氏、越前朝倉氏からの援軍を期待して高尾城でろう城します。
しかし一揆側は、加賀越前国境を江沼の7,000人が、加賀越中国境を、河北の3,000人が
がっちりと固め、犀川や浅野川などの守りもしっかり整えて、富樫の援軍が来るのを防ぎました。
13~20万といわれる加賀の一向一揆の攻撃はすさまじく、同年6月、高尾城はついに落城し、
富樫政親(34歳)は自ら命を絶ちます。あの「勧進帳」で有名な富樫氏の当主が一揆の手によって
倒されたのです。これを長享の一揆といいます。
これ以降、加賀の国は、政親の大叔父にあたる富樫泰高(やすたか)が守護になりましたが、
実際の政治は、加賀の坊主・土豪・大百姓などが共同して行うようになり、
世にいう「百姓の持ちたる国」が誕生します。
そしてこの「百姓の持ちたる国」はその後約100年にわたって続くことになります。
それでは、この「百姓の持ちたる国」っていわれていた頃の加賀の国って、どんな様子
だったのでしょうか?その実態はとてもわかりにくく、いろんな見方があって、研究者によりさまざまな
歴史的評価がされているそうです。
この時代は間違いなく、いまの加賀市や石川県にあたる地域の人びとが躍動をはじめた時代
だったはずです。この頃の人びとの様子をもっと知りたいなぁという興味がわいてきます。
そこで、12月11日(火)の課題研究の時間に、家山先生にあたらめて
「加賀の一向一揆」や「百姓の持ちたる国」についてお話ししていただくことになりました。
先生、大変申し訳ありませんが、よろしくお願いします。