実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

北ケ市市太郎、大津事件で国民的ヒーローになる。

2012年12月06日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^)v

課題研究で調べた北ケ市市太郎のことについて昨日に引き続きレポートします。

1891(明治24)年5月11日に発生した「大津事件」で、ロシア皇太子ニコライの命を救った

北ケ市市太郎は、一躍「救国の人」として注目を集めることになりました。

北ケ市市太郎は、旧庄村字加茂(現在の加賀市加茂町)で、父伝七と母ふさの長男として

1859(安政6)年12月に生まれました。しかし母が幼くしてなくなったことから、北ケ市家に

もらわれたといいます。いい伝えでは、市太郎は体が丈夫で、身長は2m近く、命知らずの怪力で

とってもやんちゃ坊主だったといいます。生まれ故郷をはなれた市太郎は、いろんな職を転々とした後、

1887(明治20)年、京都で天職に出会います。それが人力車の車夫としての仕事でした。

当時の人力車の仕事は、肉体的にきつくて不安定なものでしたが、力持ちの市太郎とっては、

ピッタリの仕事だったのかもしれません。少々の坂道や悪路でも上手にこなす太郎

仕事ぶりは評判だったのでしょう。

市太郎は、1891(明治24)年の4月に、京都丸山の名門・常磐ホテルの常勤車夫として雇われます。

そしてその年の5月にニコライ一行が京都にやってくることになりました。腕のいい市太郎は、

ニコライの甥であるギリシャ王子の人力車を担当することになります。

市太郎にとって、この仕事は一世一代の大仕事であり、意気に感じていたに違いありません。

そのときです。大津の町で、警備を務めていた巡査・津田三蔵がいきなりニコライ皇太子を襲撃したのです。

「おのれ、俺の大事なお客さんに、何するんや!」

市太郎は、ニコライを追いかける津田三蔵からサーベルを奪うと、その怪力で津田三蔵の首を斬り

つけたのでした。この活躍でニコライの一命は取り留められ、最悪の事態を免れることができました。

もしこの事件で、ニコライが亡くなっていようものなら、当時も、日ロ間には、北方領土の問題や大陸での

問題が山積していただけに、戦争になってもおかしくない状況でした。そしてひとたび戦争になれば、

日本は大国ロシアを前にひとたまりもない状態だったのです。

この大津事件は、明治天皇や政府関係者を動転させるものでした。その後のロシアとの対応に慌てふた

めきます。それだけにニコライを救った北ケ市市太郎たちの活躍は日本中から絶賛されました。

今風に言えば、市太郎たちは新聞の一面トップを飾るような国民的ヒーローになったのです。

北ケ市市太郎と同僚の向畑治三郎には、その後すぐにニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、

当時の金額で2500円の報奨金と1000円の終身年金が与えられました。また日本政府からも

勲八等の勲位と白色桐葉章、年金36円が与えられました。この金額は、津田巡査の月給が9円

だったといいますから、ものすごい金額です。しかも、終身年金は一生もらい続けることができる

お金です。

二人は事件の一週間後、ロシア軍艦に招待されて、ロシア軍の水兵からの大歓迎を受けました。

北ケ市市太郎の人生は大きく変わっていきます。

ブログ作成にあたっては、『加賀江沼人物事典』江沼地方史研究会刊を参照しました。

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1 コメント

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北ヶ市市太郎の年金額について (北ヶ市市太郎の曾孫)
2015-09-13 23:07:35
北ヶ市市太郎の年金額は、36円でわなく、100円です。祖母が言っていました。
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