隊員NO.5あやかで~す(^_^)v
課題研究で調べた北ケ市市太郎のことについて引き続きお伝えします。
1891(明治24)年5月に起きた「大津事件」でニコライを救う大活躍をして、北ケ市市太郎の人生は
大きく様変わりします。
一躍「国民的ヒーロー」となった市太郎は、ふるさと江沼郡(今の加賀市)に錦を飾りました。
今だったら、加賀温泉駅のプラットホームに加賀市民が出迎え、電車から市太郎が降りると、
人びとが旗を振りながら「北ケ市市太郎先生、バンザ~イ!バンザ~イ」と叫び、
母校の庄小学校で「北ケ市市太郎先生大講演会」が開かれるといった風になったのでは
ないでしょうか?
このとき、北ケ市市太郎は32歳で独身でしたが、「何とか市太郎さんのおかみさんになりたい。
世話してくれる人がいたら2500円出す!」という女性まであらわれたという話です。
帰郷した市太郎に対し、江沼郡長(いまなら加賀市長)や庄村村長は特別な配慮をし、郡の役所には
市太郎のためのお世話係までできたそうです。
この年の7月に市太郎は福井県坂井郡細呂木村の「あい」という娘さんと結婚しました。
彼は手にした多額の報奨金で西島や加茂の田んぼや畑を買い、大地主になり、安定した小作料収入
を確保できる立場になりました。そして庄村特産の絹織物工場もつくったといいます。
一介の人力車人夫にすぎなかった市太郎は、またたく間に地元の名士に成り上がったのでした。
その後も1899(明治32)年9月には江沼郡郡会議員に選出され、2年後の1901(明治34)年9月には、
大聖寺馬場町に1320平方㍍の邸宅を構えるまでになりました。
このとき、北ケ市市太郎はしあわせの絶頂だったでしょうね。
しかし、市太郎のしあわせは、これまた、あっという間に崩れ去ることになります。
そのキッカケは1904(明治37)年2月にはじまった、あのニコライひきいるロシアとの
日露戦争の開戦でした。