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実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

実高ふれ愛隊・「2学期もガンバりま~す!!」

2013年09月04日 | 日記

隊員NO.1いぶです!! リーダーしてま~す

9月2日(月)から、2学期が始まっています。現在、4・5日の両日に行われる

大聖寺実業高校の学園祭「聖実祭」のステージ発表や体育祭の応援合戦の

準備に大忙しです。そして「実高ふれ愛隊」としての2学期の活動も開始です。

みなさん、これからも応援よろしくお願いしま~す!!

わたしたち「実高ふれ愛隊」の課題研究テーマは「高校生が発信する加賀市の魅力」

です。そして活動を行うにあたって、大切にしているコンセプトが4つあります。それは、

①「歩く」②「出会う」③「学ぶ」④「発信する」の4つです。毎週火曜日の4~6限目にある

「課題研究」の時間、積極的に街に出て取材します。そして加賀市のいろいろな方々に

出会い、「先生」になっていただきながら、加賀市の魅力を学びます。それをブログ

実高ふれ愛隊日記」にまとめて、多くの方々にお伝えすることをめざしています。

くわえて2学期も「加賀市観光ボランティア大学」の講座で勉強させていただきます。

2学期の講座のラインナップは、

9/12(木) 「日本一の富豪村 北前船の里-北前船主の粋な生き方-」

 /21(土) 「名物ガイドと歩く北前の里-北前船の栄華をこの目で-」

10/10(木)「『奥の細道』加賀路の芭蕉-芭蕉と山中温泉-」

  /19(土)「秋の山中、恋路旅-ろくろの里と鶴仙渓を歩く-」

11/7(木) 「加賀の源平合戦-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-」

  /16(土)「宇吉郎の世界と篠原古戦場-科学の心と歴史の心-」

12/12(木)「加賀の白山信仰」

  /21(土)「片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟とラムサール条約-」

と、とっても充実しています。10月19日には、ボランティア大学の竹本利夫学長の

ご配慮により、わたしたちは山中温泉のガイド体験をさせていただく予定になっていて、

今からとっても楽しみです。

みなさ~ん、これからもブログ実高ふれ愛隊日記」で「加賀市の魅力」をお伝え

できるよう一生懸命頑張りますので、ご声援よろしくお願いします。

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再録!大聖寺の偉人「瓜生外吉(うりう そときち)」

2013年09月03日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

今日は、先輩が昨年9月9日の記事でまとめた大聖寺の偉人「瓜生外吉(うりう そときち)

についてご紹介します。どうぞご覧下さい!

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全昌寺の墓所を歩くと、大聖寺藩ゆかりの多くの偉人の墓石を見ることができます。

墓所に入ったすぐの所に、「瓜生(うりう)家累代の墓」が建っています。そして墓前の

灯籠には外吉傳治」ときざまれています。ここに見られる瓜生外吉(うりう そときち

とは、日露戦争連合艦隊第四戦隊の司令官をつとめ、日露開戦の火ぶたを切った

仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らした人物です。

仁川沖の海戦では、瓜生外吉がロシア艦『ワリャーグ』号の砲の死角を巧みに利用し、

緒戦の勝利を導きました。瓜生はいくつもの戦功によって、1907(明治40)年に

男爵を授けられ、1912(大正元)年に海軍大将に昇進、1922(大正11)年から

3年間は勅選貴族院議員になりました。また1914(大正3)年にはパナマ運河

開通記念博覧会に日本代表として参列したそうです。

Sotokichi Uryu cropped.jpg←瓜生外吉(wikipediaより)

瓜生外吉は大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として1857安政4)年に大聖寺に

生まれました。幼いときから優秀な人物で、海軍兵学寮を卒業後、

1875~1881(明治 8~明治14)年には米国アナポリス海軍兵学校に留学し、

海軍きってのアメリカ通でした奥さんの繁子さんもとても有名な人です。

瓜生繁子さん三井物産創始者益田孝の妹さんで、1871(明治4)年、9歳の

ときに岩倉遣欧使節団の一員として、津田梅子、山川捨松らとともにアメリカに渡り、

ワシントンで10年間ピアノを学んだことで知られています。のちに、

文部省音楽取調掛教授となり、東京音楽学校や東京女高師(現お茶の水女子大)の

教授として1902(明治45)年に退職するまで音楽教育に尽力しました。

瓜生外吉はアメリカ留学中に繁子と知り合い、帰国してすぐの1882(明治15)年に

二人は結婚しました。

繁子鹿鳴館の花の一人とうたわれた人でもあります。また瓜生外吉繁子

津田梅子、山川捨松など、帰国子女の活動を支える良き理解者でした。

外吉繁子の間には7人の子が生まれています。瓜生外吉は晩年、神奈川県小田原市に

別邸を構えました。その別邸の近くにある坂はいまでも「瓜生坂」と呼ばれているそうです。

瓜生外吉1937 (昭和12)年、80歳で亡くなり、今は東京の青山墓地で

眠っています。 

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大聖寺の怪談(2)・中町にあらわれた恐ろしい幽霊の話

2013年09月02日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

←加賀市ホームページより

加賀市刊行の民俗調査報告書『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』に、

大聖寺中町で起こったというとってもこわ~い怪談が紹介されています。

越前屋善三郎の妻が幽霊となって後妻をとり

殺した話

大聖寺中町の越前屋善三郎という町人の建てた貸家に商人夫婦が住んでいました。

夫が旅商に行き、妻一人が家にいたある日の夕暮れ、表の戸をほとほとと叩く者が

います。「誰だろう」と妻が聞いてみると、女の声がして「ちょっと出てきて下さい」と

言います。そしてその声に聞き覚えがあって、三年前に死んだ大家さんの妻の声に

間違いありません。妻は狐狸の仕業だろうと、怖くてけっして外に出ませんでした。

すると女は夫の名を呼んで、「会いたいので、出てきておくれ!」と言います。

妻は夫が不在であると告げると、「明日の晩また来るので、必ず居るように伝えなさい。

さもなくば、恨みますよ!」と念を押し、消えていきました。

しばらくして夫が家に帰りました。すると、妻は真っ青になって倒れています。夫が

介抱し、薬を飲ませると、やっと正気を取り戻し、先ほどあったことを夫に話しました。

そこで、夫の商人は、翌日の仕事を休み家にいることにしたのです。

次の日の夕方、お寺の鐘がボ~ンとなる頃、案に違わず表の戸を叩く音がします。

「さぁ来たぞ」と妻は布団をかぶって打ち伏しました。夫が戸を開いて出てみると、

妻が言ったとおり、そこには三年前に死んだ大家さんの妻が立っています。

商人は驚きながら、「どうして迷い出て来たのか?」と問いかけると、その幽霊は

答えました。「迷う事情があって往生できません。大家の家の表の戸に祈祷の札が

貼ってあります。これを取り外して下さい。言うことを聞かないと、承知しませんよ!」と

それはそれは恐ろしい形相で話します。商人は自分の命を取られてはたまらないと思い、

「わかった」と返事をしてしまいます。さて、商人は家に入り、おびえる妻に事の次第を

話しますが、妻は「とにかくお札を取って欲しい!」と叫びます。

そこで、商人は仕方なく大家の門口に行って、そのお札を剥がしたのでした。

しばらくすると、大家の家が大騒ぎになりました。「水だ、薬だ。」と言う声が聞こえ

始めたので、商人が大家の家に飛び込み、「何事が起こったのか」と聞くと、たった

今大家の妻が何もなかったのに、息をしていないと言います。そして医者を呼んで

容体を診てもらったところ、もうすでに死んでしまったというのです。

何でも、この大家の先妻が3年前に病死するとき、幼い子どもが残されることを

心配して、夫に遺言したことがありました。それは、

「わたしが死んでも、幼いこの子が成人するまでは後妻を決してもらわないで下さい。

この子に継母が出来たら、きっとこの子は苦労するはずです。」という言葉でした。

しかし、この大家は遺言を守らず、三年経って後妻を迎えていたのでした。

商人があのお札を剥がしたので、恐ろしいことが起きてしまいました。先妻の幽霊が

後妻をとり殺してしまったのです。商人は、このことが知れたら、自分も人殺しに荷担した

ことが分かってしまうと、このことを誰にも話さなかったそうです。

後年になって、商人はこの話を友人の竹屋七左右衛門に初めて明かしたと言います。

(ブログ作成にあたっては、『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』75~77ページを

参照させていただきました。)

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大聖寺の怪談・耳聞山の長面妖女(ちょうめんようじょ)

2013年09月01日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

←加賀市ホームページより

昨日のブログでご紹介させていただいた加賀市刊行の民俗調査報告書

かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』には、「城下町と怪談」というコーナーが

設けられています。そして、1799(寛政11)年につくられた『聖城怪談録』に記録された

大聖寺にまつわる48の怪談話について、大聖寺町絵図」・「天明六年大聖寺絵図」

セットでわかりやすく紹介されているんです。

この聖城怪談録』という本には、大聖寺八代藩主の前田利孝公が1799(寛政11)年の

正月に、宿衛の武士たちを集めて百の怪談を語らせた記録がまとめられています。

そして記録には、大聖寺藩邸や上級武士の邸宅があった今の大聖寺八間道や馬場町、

錦町周辺や中級武士が住んでいた仲町・鷹匠町・新町・耳聞山などで見られたという

怪異現象が多数記録されています。城下町であった大聖寺には本当にたくさんの

怪談が伝えられているのですね。

そして堀麦水という人があらわした『三州奇談』一ノ巻には、大聖寺耳聞山(みみきやま)

「長面妖女」という怪談があるそうですので、ご紹介します。

大聖寺家中の御坊主組に、津原徳斎という人がいる。家の近くに「岡の庵」という景色の

美しい禅寺があって、敷地がそのまま山へつながり、人々がよく散策・遊楽などするところだ。

徳斎はある夜、そこで時を過ごし、夜半のころ、中町の自宅へ帰ろうとした。

道は福田川に沿って、耳聞山という小高い松の群生したところを過ぎて町に入るが、

ちょうどそのあたりで手提灯の火が消えた。『まあいい。もうちょっとで帰り着く』と思って

そのまま歩いていくと、少し先を、提灯とおぼしき灯火が行く。これ幸いとついて行くことにした。

だんだん近くになって、女が素足で灯を提げて歩いているのが分かった。

『近所の知り合いかもしれない。言葉をかけようか』などと思っていると、案の定、女は

徳斎の家のほうへ向かうので、いよいよ安心してついて歩いた。 徳斎の家は小路を

折れ曲がった先で、路の角は隣の屋敷である。屋敷の塀越しに大きな榎が繁っていた

のを、最近、木こりを雇って枝を伐り、根元から十メートルほどの幹ばかりが残っていた。

先に行った女は、榎の幹に寄り添って待ちぶせていたが、徳斎は気づかず、角を曲がった

ところで突然目にしたのは、目の上はるか高くにある灯火。驚いて仰ぎ見れば、

十メートルの榎の幹と等しい背丈の女が、木の切り口を掌で撫でているのだった。

徳斎を見下ろす女の顔は、長さ一メートルばかりもある。胴体は幹に隠れてよく見えず、

長大な顔ばかりがにこにこ笑いかけてくる。思いがけない恐ろしさに、「あっ」と叫んで

我が家へ駆け込んだ。家僕を起こし、再び外へ飛び出して見たときには、灯火も女の姿も

なかった。いかにも近辺の古狸なんかがやりそうなことである。御長柄組の三四郎と

いう者も、このあたりで顔丈一メートルの女に逢ったという。

何でもあの『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげる氏の『図説日本妖怪大全』という本の中でも

大聖寺耳聞山長面妖女」が取り上げられているそうですよ。

大聖寺妖怪がいたなんて、なにかとってもおかしいですね(笑)!!

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『かが風土記』・加賀市がわかるおしゃれな報告書

2013年08月31日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

加賀市よりわたしたちが通う大聖寺実高に、とってもユニークな調査報告書を

ご寄贈いただきました。この報告書の名前は、『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』

です。ふつう民俗調査報告書っていったら、とっても堅苦しいイメージがあります。

でも、この『かが風土記』B5版のハンディサイズで、おもわず手にして

加賀市の街を旅したくなるような本なんです。

←加賀市ホームページより

『かが風土記』は、観光案内もかねた民俗調査の報告書で、知識を深めながら、

まち歩きを楽しむことができるように工夫されていて、従来の報告書とはまったく

イメージが違います。この民俗調査は、加賀市の生活文化を特徴的に物語る3つの

地域(大聖寺旧城下町、山代温泉、東谷)において、平成19年度から23年度にかけて

行われたそうです。特に、旧城下町にまつわる調査は、大聖寺藩士たちが語った

怪談を集めた『聖城怪談録(せいじょうかいだんろく)』に取材し、新しい視点で地域の

民俗を探っています。監修は、国際日本文化研究センター所長・小松和彦先生です。

そして本の主な内容は、

『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』目次(←クリック)

「城下町大聖寺と怪談」・・・1799(寛政11)年につくられた『聖城怪談録』に

記録された大聖寺にまつわる48の怪談話について、「大聖寺町絵図」・

「天明六年大聖寺絵図」とセットでわかりやすく紹介されています。

「山代温泉の昭和旅行」・・・今からおよそ50年前の山代温泉の様子や人々の

くらしぶりが、聞き取り調査をもとに見事に再現され、読み応えがあります。

「加賀東谷の民俗をめぐる」・・・東谷地区での山岳エコツーリズムと民俗文化を

学ぶ記録がまとめられています。炭焼きや焼き畑で生活した山の人々の営みを

知ることができます。

「深田久弥の山々を歩く」・・・『日本百名山』の著者・大聖寺町出身の深田久弥の

原点ともいえる地元の美しい山々が紹介されています。

加賀市図書館で自由に閲覧できるそうですよ。皆さん是非一度手にとってご覧ください!! 

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最初で最後ですよ!九谷磁器絵付窯跡の「現地説明会」

2013年08月30日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、加賀市文化課長・田嶋正和先生から

古九谷窯址」について詳しくご説明いただきました。そして先生からは、

8月31日(土)に加賀市教委主催で史跡 九谷磁器窯跡 発掘調査現地説明会」が

開催されるというお知らせがありました。

九谷磁器窯跡には、江戸時代前期の遺構として、上絵付けを施すための窯である

絵付窯跡」や、絵付けのための顔料精製の痕跡を示す「朱田(しゅだ)」が、

江戸時代後期の遺構として、粘土生地精製のための施設である「水簸(すいひ)遺構」や

工房建物跡が確認されているそうです。また、戦国時代の遺構群もあって、山中漆器の

ルーツといわれる「木地工房跡」や、小川を利用した水洗トイレの遺構も見ることができます。

今回の現地説明会では、その中でも2000(平成12)年の石川県埋蔵文化財センターの

発掘調査によって発見された江戸時代前期の絵付(えつけ)窯跡が、今年度中に盛り土して

地下保存されるため、最初で最後の一般公開となるそうです。

8月31日(土)当日には、午前10時から10時30分と、午前11時から11時30分の2回

市教委の担当の方が説明をされます。参加費は無料で現地集合です。また先着20人

(要予約)を対象に市役所発着のバスも運行されるそうですよ。

詳しくは加賀市のページをリンクさせていただきましたので、クリックをしてご確認下さい!

史跡九谷磁器窯跡 発掘調査現地説明会について

(↑クリック!!)

この絵付窯跡は、現時点で世界最古の絵付窯跡といえる貴重なものです。

少しお天気が心配ですが、お時間のある方は是非見学にいらしてくださいね!!

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古九谷の歴史にふれました!!(古九谷窯址)

2013年08月29日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、九谷町古九谷窯址を見学させて

いただきました。

古九谷をめぐっては、「古九谷産地論争」というものがずっと続いていて、古九谷

佐賀県の有田町で焼かれたのか、それとも石川県のここ九谷町で焼かれたのか、

長年議論されているそうです。そしてその結論は出ていないそうですが、

そもそもここ九谷町で、江戸時代の初めに磁器が焼かれていたこと自体すごいこと

なのだそうです。

講師の田嶋正和先生は、「日本では、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、朝鮮半島から

陶工・李参平が連れてこられ、肥前有田で磁器の原料・磁石を発見したことから、陶磁器

の生産が始まりました。それまで、日本人は磁石を砕いて、磁器を作る技術を知らなかった

のです。硬くて叩いたときに金属音がする良質の磁器は江戸時代の初めには、

最先端技術品であるとともに、人びとがあこがれる高価な品物でした。

この時期に日本で生産されたとわかっている磁器は、佐賀県の有田焼・岡山県の姫谷焼・

そして九谷焼の3つだけなのですよ。今は人里離れた山深い場所にしか思えない九谷ですが、

江戸時代初めは、日本の最高水準の技を持った技術者がいる最先端地域だったのです。

そして田嶋先生は、

九谷周辺からは、磁器の素地の原料となる良質な陶石が見つかっただけでなく、絵の具の

材料となる鉱物も豊富でした。赤や黄色の原料・鉄、紫の原料・マンガン、緑の原料・銅など、

九谷五彩に必要な色のうち、紺青の原料・コバルト以外はすべて採れました。そして、ロクロで

木を削る木地師や鉄を溶かす工人などの技術の集積も、九谷での磁器生産を可能にしたと

考えられます。」と解説してくださいました。

顧問の先生は、よく「古九谷は、わたしたち加賀市に住む者のアイデンティティかもしれません!」

っていわれています。

今回の古九谷窯址訪問は、古九谷の歴史を知るとてもいい経験になりました。

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古九谷窯址を歩きました!!(九谷町)

2013年08月28日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、九谷町の古九谷窯址を見学させて

いただきました。「九谷焼って、一体どんなところで誕生したのだろう?」って、

ワクワクした気持ちで現地を歩くことができて、とてもいい経験ができました。

そして、加賀市文化課課長の田嶋正和先生に古九谷窯址について

詳しく解説をしていただきました。田嶋先生、本当にありがとうございました。

車を降り、県道を少し右に入ったところに、「九谷焼始祖 後藤才次郎紀功碑 

正五位勲四等土岐嘉平書」と彫りこまれた大きな岩の碑が建っていました。

この紀功碑の字を書いた土岐嘉平は、和歌山県出身で1916~1921年に

第19代石川県知事をつとめられた方だそうです。

そして、道をさらに進むと、右手には水田、そして左手に「九谷磁器窯跡」という案内板が

がありました。案内板には次のような説明がありました。

九谷磁器窯跡 国指定史跡(昭和54年10月23日)

「古九谷」は近世初期の三大色絵磁器のひとつで、その大胆な図柄、流麗な筆づかい、

深みのある色調は、日本陶磁の代表的作品として、海外にまで広く知られている。

昭和45年からの本格的な調査によって、三基の窯跡の全貌がほぼ明らかとなり、

日本の磁器窯創始期の様相を示す重要な遺構として、国の史跡に指定された。

一号窯

全長34mを超える大規模な連房式登窯で、幅2.6mの十二の焼成室が20度の

傾斜をもって連らなっている。窯の左側が物原(陶片の廃棄場所)で、その上部の

平坦な所から大量の優品が出土している。直径50cmを超える白磁大鉢や草花、

山水図を描いた皿、碗類、上絵付のある破片などがあり、特に「明暦弐歳(1656)

九谷八月六日」と記銘のあるものが出土しており、窯創始の年代を知る重要な資料

となっている。窯の終末年代は1670年前後30年である。

二号窯

全長13mの小規模な連房式登窯で、幅1.6mの六つの焼成室が、約20度の傾斜で

連なっている。出土品は鉢、皿、碗類のほか、京焼風の茶碗が多数出土しており、

終末期には茶陶窯として活動していたと考えられる。窯の終末年代は1710年前後

40年となっている。

吉田屋窯

古九谷再興のため、大聖寺の豪商豊田伝右ェ門によって、文政7年(1824)から

2年間だけ操業された。窯はレンガ作りの豪壮な連房式登窯で、一部は現県道により

削り取られているが、推定全長26mあり、幅4.8mの4つの焼成室からなっている。

出土品は鉢、皿、碗類で、文様のあるものはきわめて少ない。

明日のブログでは、田嶋先生からお伺いしたお話をレポートさせていただく予定ですので、

よろしくお願いします!!

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再録!複雑な思いで「辻政信」の石碑を見る(今立町)

2013年08月27日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

加賀ひがしたに地区今立町出身の辻政信について、先輩がまとめた

昨年11月5日の記事を再録させていただきます。どうぞお読み下さい!!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今立町に破天荒な生涯をおくった人物の石碑が建っていました。そしてこの人物に

ついて語るとき、地元の加賀市民はとっても複雑な思いに包まれます。

Tuji Masanobu.jpg←辻政信(ウィキペディアより)

その人の名は、辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日生まれ、1961年に行方不明)。

日本の軍人、政治家で、軍人としての階級は陸軍大佐でした。第2次世界大戦後、

衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)などを歴任しました。

辻政信は今から51年前、参議院議員在任中にラオスで消息を絶ちました。

辻政信は、アジア太平洋戦争のさい、参謀本部で対米主戦論を繰り広げ、1941年の

対英米戦開戦と同時に始まった東南アジアへの快進撃などで、マスコミに「作戦の神様」と

たたえられました。その一方、独断専行ぶりも知られ、ノモンハン事件、シンガポールでの

華僑虐殺、ガダルカナル島の戦いなどでは、陸軍の汚点ともいえる歴史的事件に関わった

という指摘があります。

その才能と行動力が高く評価される反面、戦後においてもGHQから「第三次世界大戦さえ

起こしかねない男」と危険視された人物です。

←辻政信の生家

辻政信は、いまの今立町で父亀吉、母もとの間に、4人兄弟の次男として生まれました。

お父さんは炭焼きで生計を立てていました。辻少年は荒谷尋常小学校、山中高等小学校を

主席で卒業しました。その後苦学の末、陸軍士官学校に入学し、ここも首席で卒業したと

いいます。とても秀才だったんですね。

タイで終戦を迎えたは、僧侶に姿を変え、中国から日本へと潜行します。そして1950年に

戦犯を免れると、その間の手記を『潜行三千里』として出版し、一躍ベストセラー作家に

なりました。1952年には衆院選に旧石川1区から立候補し、4回連続当選します。

当時の地元民衆は辻政信を熱狂的に支持したといいます。

七尾市出身で直木賞作家の杉森久英(1912~97年)は、伝記『辻政信』の中で、

衆院議員になった後の辻に直接取材した時の印象を記しています。 

「僕の身体の中には、世界の五カ国の弾が入っています。最初は上海事変で中国の弾・・・

次はノモンハン事件でロシアの弾…」

数多くの戦場を踏み、弾丸をかいくぐってきたことを誇る辻に対し、杉森はその豪胆さを

率直に認めつつも、そのよどみない話しぶりに違和感を覚えたそうです。

「その時私の気になったのは(中略)、レントゲン写真を取り出してくる手際のよさであった」

戦場での勇気に不足はなく、戦後も戦友の遺族に金を送るなど、情に厚い面もある。

でも、それを人に黙っている男でもない。杉森久英はそのように辻政信を評したのです。

渡航先のラオスで行方不明となった辻政信は、半世紀以上経っても、多くの史家や

作家がその実像を追う「怪人物」です。

美しい山里・今立で生まれた少年は、なぜこのような希有な人生を送ることに

なったのでしょうか?(ブログ作成にあたっては、「YOMIURI ONLINE」の

『消えた参謀』(2011年11月9日)を参照させていただきました。)

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大土町を襲った昭和13年の大火災

2013年08月26日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

 

加賀市観光ボランティア大学第10回講座重要伝統的建造物保存地区・

加賀ひがしたに地区」の大土町を訪問しました。

講師の加賀市文化課課長・田嶋正和先生が、わたしたちに興味深いお話をされました。

大土町の家屋は、ひがしたにの他の町に比べて一回り小さいのですが、

なぜだと思いますか?」

その答えは、大土町を襲った1938(昭和13)年5月22日の大火事と関係がありました。

この日の午前11時頃、大人たちがゼンマイ採りや炭焼きに出かけている間に、

残った子どもたちが昼ご飯の用意をしていて、火事が起こったそうです。家は周りを

カヤが囲んでいたこともあって、またたく間に火が回ったといいます。大人たちは、

片道2時間あまりの遠いところに出払っており、残っていた子どもやお年寄りだけでは、

火の勢いを止めることはできませんでした。

大人たちが戻ったときには、町のほとんどの家が焼け落ちていたそうです。

焼け残ったのは大土神社の社殿と2つの土蔵だけでした。

そこで、焼けてしまった家々を少しでも早く復旧させるために、他の町よりも一回り

小さな家を建てたのだそうです。

大土町の外れには、このときの火事でなくなられた3人を慰霊するための碑が

建っています。火事の時、子どもたちはさぞかし心細かったことでしょうね。

大土町では、このときの大火事のことを忘れまいと、今でも毎年5月22日の前の

日曜日に「大土焼きまつり」を行っているそうです。

(記事の作成にあたり、『かが風土記』(加賀市刊)を参照させていただきました。)

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赤瓦と煙出しが美しい「加賀ひがしたに地区・大土町」

2013年08月25日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

 

8月17日(土)の加賀市観光ボランティア大学第10回講座

加賀ひがしたに地区」の大土町を訪問しました。

加賀ひがしたに地区」は、加賀市東南部の山間部に位置し、大日山を

源とする動橋川と杉ノ水川の上流域に点在する荒谷・今立・大土・杉ノ水の

四集落からなっています。かつて炭焼きで栄えた山村集落に残る赤瓦に

煙出しを持つ伝統的な農家やそのまわりの自然環境が素晴らしく、

平成23年11月には国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、文化財的な

価値の高い地区の景観を守る取り組みが行われています。

。雪解けとともにゼンマイやたらの芽といった山菜が芽吹きます。

。川のせせらぎが気持ちを癒し、大土太きゅうりなど食の魅力満載です。

。黄金色に輝く田んぼや「ハサ掛け」の光景が見られます。

そして。3mを超える積雪があり、1年に3・4回の雪下ろしが行われます。

太陽の光に輝く「加賀赤瓦」だけでなく、「貫をたくさん使った家の意匠」「飾り瓦」

「囲炉裏(いろり)の上の煙出し」など、建造物はおもわず「ワァ、きれい」と声を

上げたくなる美しさです。みなさん、加賀市の中心部から車で約20~30分の

距離に広がる日本の里山の原風景・「大土町」を一度訪問されませんか?

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実高に外国人留学生23人がやってきました!

2013年08月24日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

 

8月23日(金)午後1時、わたしたちの大聖寺実業高校に素敵なお客様が

来校されました。そのお客様とは、「JAPAN TENT 世界留学生交流・いしかわ2013

で8月22日から石川県入りしている世界81の国・地域から留学生300人の

うちの23人です。メキシコ・ロシア・ベトナム・ハンガリー・中国・イエメン・チリ・

スーダンなど世界いたる所から日本の大学に勉強においでていて、この1週間

石川県でさまざまな交流をされることになっています。

JAPAN TENT 世界留学生交流・いしかわ」は今年で26回目だそうですが、

ここ数年大聖寺実業高校では、実高生世界留学生の皆さんとの交流が続いて

いるのです。

今年は、「俳句づくり」を通しての交流を行いました。本校男女バドミントン部員と

留学生がほぼマンツーマンになって、日本の夏や秋の季語を使って、一緒に俳句を

作りました。会場となった会議室はとっても和気アイアイ!!

「散歩する お米の香り 風に舞い」 

「大空に 花火がとっても きれいだな」

「手打ち蕎麦 おいしいけれど むずかしい」

など、外国の方とは思えないほど日本らしいユニークな句が出来上がりました。

そして俳句作りを通じて、いろんなお話を交わすことができました。楽しい時間

あっという間に過ぎるもので、90分の交流時間はとっても短く感じられました。

留学生の皆さんは、実高での「俳句交流」の次は、片山津温泉に移動して、

シルクハンカチーフ染め体験に挑戦だそうです。加賀市でいい思い出をいっぱい

つくってくださいね。

23人の世界留学生の皆さん、実高を訪問していただき、ありがとうございました!!

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加賀ひがしたに地区・大土町

2013年08月23日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

 

8月17日(土)の加賀市観光ボランティア大学第10回講座

九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて-古九谷窯跡・重伝建保存地区-」で

NO.5いくのと2人で、加賀ひがしたに地区・大土町を訪問しました。

講師は、加賀市文化課課長・田嶋正和先生でした。田嶋先生、暑い中丁寧に

解説をいただき、ありがとうございました。大土町の風景は、まるで

「にほん昔ばなし」に出てくる山村みたいで、とってもきれいでした。緑の大自然の

中に、加賀ルージュの赤瓦の古民家。時代が昭和の中頃にタイムスリップした

みたいです。そして伝承によると、大土町は「篠原の戦い」(1183年)で敗れた

平家の落人によってつくられたとのこと。

江戸時代終わりの史料では、大土町をはじめとする荒谷町・今立町・杉ノ水町など

加賀ひがしたに地区には、「炭役」という税金が科せられていたことが分かっており、

加賀市の他の地域とは明らかに違う炭焼きや焼畑に依存した独自の文化があった

場所なのです。

民家の裏手には、とってもきれいな「大土生水」が流れ出ていました。

受講生の皆さんと一緒にわたしたちもその生水を飲んでみましたが、

とっても冷たくて、おいしかったです。そして生水のまわりには、

「棚田」とよばれるちいさな田んぼが段々につくられていて、その間の

ほそい道をわたしたちは散策しました。

初めて大土町に来たわたしたちは、こんなに美しい町が加賀市に残っている

ことを知り、とても感動しました。

加賀市観光ボランティア大学に入校して、よかったなぁ!!」

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大聖寺実高恒例・「夏の草むしり」

2013年08月22日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

 

8月21日(水)午後4時から、大聖寺実業高校恒例の「夏の草むしり」を、

部活動生徒および教職員全員で行いました。

この夏の草むしり」は本校が角助山(標高40メートル)という山の丘陵に建ち、

夏に大変草が伸びることから、9月の学園祭「聖実祭」準備をかねて始まりました。

でも、今では「さぁ、2学期だ!!秋もみんなで頑張ろう!」と、生徒・教職員が

一致団結して行う学校行事になっています。

今年の夏も暑かったですが、毎日一日練習を続け、真っ黒に日焼けした野球部員を

先頭に、男子ソフトテニス部、柔道部、男子バスケットボール部、男女バドミントン部など、

午後の練習を学校で行っていた部員が総出で参加しました。

先生方も一生懸命。8月24日から「国際野球U18ワールドカップ」日本代表

アシスタントコーチとして、台湾に遠征される寺口結先生をはじめ、先生方にも

草むしり」に参加していただきました。先生方、暑い中、大変ご苦労さまでした。

これで、9月4日の体育祭、5日の文化祭もバッチリだと思います。

最近、学校には部活動が活躍したうれしいニュースが次々と飛び込んできています。

まず、男子ソフトテニス部が加賀地区大会の個人戦で優勝、そして硬式テニス部

男子が同じく加賀地区大会の個人ダブルスで準優勝第三位に入賞したのです。

真っ黒になった分、このひと夏の成果が目に見える形であらわれましたね。

もうすぐ夏休みも終わりです。実高ふれ愛隊もみんなに負けずに頑張りま~す!!

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九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて

2013年08月21日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

 

残暑が厳しい8月17日(土)13時から行われた加賀市観光ボランティア大学第10回講座

九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて-古九谷窯跡・重伝建保存地区-

NO.6れいなと2人で参加してきました。

 

加賀市役所前から一般受講生のみなさんは加賀市のマイクロバスで、わたしたちは

先生の車で最初に古九谷窯跡に向かいました。

車に揺られること、約40分。山中温泉九谷町地内にある古九谷窯跡に到着です。

現地では、今回の講師を務められている田嶋正和先生(加賀市文化課課長)から

とっても詳しく古九谷窯跡に関する解説をしていただきました。

「こんな山深くて雪が多い所で九谷焼が生まれたのか~」って、受講生の皆さんは一様に

驚いておいでました。でも田嶋先生は、「ここ九谷は350年前、いろんな人・ものが集まる

最先端工業地域だったと考えられるのです。その証拠に、ここ九谷には蓮如の息子・蓮誓が

開いた九谷坊がありました。当時の浄土真宗は人が集まるところにお寺を造っていました

から、九谷にたくさんの人がいた証拠です。」とお話しされました。

「へぇ~!!」と、みんなで感心することしきりでした。

古九谷窯跡を見学した後は、石川県民の森でトイレ休憩をとった後、重伝建保存地区に

指定されている加賀ひがしたに地区大土町へと向かいました。大変勾配の急な道を進む

バスについて行ったので、ちょっとヒヤヒヤでした。

狭い盆地状の地形にある大土町の家々は、赤瓦がとってもキレイでした。

これって、日本の山村の原風景なんですね!

この後、ブログで今回観光ボランティア大学で勉強したことをご紹介させていただく予定ですので、

よろしくお願いします!!

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