ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田国男「山の人生」冒頭の炭焼き一家心中事件 関連年表(主に「柳田国男と事件の記録」より)

2023-01-09 13:12:37 | ヨーロッパあれこれ

 

明治35年2月 
柳田国男は法制局参事官となり、特赦の事務も取り扱う。
明治37年4月6日 事件発生
明治37年4月9日、10日、12日、5月5日、14日
岐阜日日新聞が事件を伝える。新聞では、事件の動機は「貧苦の末、飢餓に迫って余儀なくのことである」となっており、後に「新四郎さ」に書かれるような、「主家からの嫌疑」については全く書かれていない。
明治39年3月 
事件の当事者である新四郎(仮名)特赦を受ける
明治39年3月13日
『定本柳田国男集』の「柳田国男年譜」のこの日に「美濃郡上の深山で子供を殺した山番の老人の特赦がある」との記述あり
明治39年3月24日
岐阜日日新聞が刑期満了前に仮出獄を許されたことを伝える
大正14年2月 
『アサヒグラフ』に「山の人生」の連載をはじめる
昭和9年前後 
「新四郎」が金子信一に事件の打ち明け話をする
昭和15年 「新四郎」死去
昭和33年1月9日~9月下旬
「故郷七十年」の連載。この中で柳田は「山の人生」のこの事件について触れている。
昭和49年
金子貞二が金子信一からこの事件の話を聞き、さらに「新四郎さ」として『奥美濃よもやま話 三』の中に著す。

 

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ルイス・フロイス 吉川弘文館

2023-01-08 15:56:17 | ヨーロッパあれこれ

 

ルイス・フロイス
五野井隆史 著
日本歴史学会 編集
吉川弘文館 発行
2020年(令和2)2月1日 第1版第1刷発行

はしがき
フロイスの名が広く知られるようになったのは、彼が執筆した日本におけるイエズス会の宣教活動の歴史、いわゆる「日本史」が翻訳・紹介されてからである。
「日本史」の第一部は、ゲオルグ・シュールハメル師によってポルトガル語からドイツ語に訳されて1926年に出版された。p5-6

第一 おいたち
一 生年と出自
1532年(天文元)頃、ポルトガル王国の都リスボンに生まれた。

二 王室付き書記・イエズス会入会
1548年、17歳の時に当時務めていた王室付き書記官を辞めてイエズス会に入った。

 

第二 インド渡航・司祭への道
一 インド渡航
1548年3月、イエズス会の第四次インド派遣の宣教師団が二隻のナウ船(大型帆船)でリスボンからインドに出発した。それにフロイスも修道士として乗船した。

二 バサインでの宣教活動
バサインはゴアの北約360キロの地にあり、ポルトガルが確保していた要塞都市の中で第三の重要な都市とされた。p20-21

三 ゴアにおける学業

四 マラッカに逗留

五 司祭叙階

六 上長らのフロイス評
バサイン・マラッカ・ゴアにおける14年間は、彼が宣教師として自覚を深め、報告執筆者としての責務と自信を強く認識・確信する期間であった。p44

 

第三 日本における宣教開始
一 横瀬浦(肥前大村領)上陸
フロイスが日本派遣に選ばれたのは、彼の異文化社会に対する適応能力、および世事に対する処理能力の高さが評価されていたためだろう。p46

二 トルレス神父の盛式誓願と横瀬浦焼亡

三 度島(多久島)での生活

四 ポルトガル船の平戸再来航とフロイス

 

第四 京都・畿内宣教
一 上洛
伊予の堀江(愛媛県松山市)では、補陀落渡りが話題になっていた。補陀落渡りの観音信仰は当時全国で流行していた。
フロイスには生きたまま死ぬ行為は奇異なことであった。p69
(和歌山での補陀落渡りは聞いたことがありましたが。フロイスならずとも奇異な行為だと思います)

二 最初の京都居住と将軍義輝叛逆
仏僧に洗礼を授けるフロイス
京都での生活では、めまぐるしく変転する政治状況に翻弄されて、時間の流れの速さと、仏教と仏教寺院勢力が日本社会に占める存在の大きさを痛感した。p76

三 堺とその近在における宣教活動

 

四 京都帰還・信長の知遇
家臣たちを驚かせたのは、信長自身がフロイスに晩餐を供するために食膳を持ってきたことであった。p121

五 上長カブラルの上洛とフロイス
カブラル神父は、日本のイエズス会の総責任者として畿内地方の同会の活動とキリシタン教界の実情を把握することを責務とした。
絹の修道服を禁止し、木綿の修道服にしたカブラル

公家の烏丸殿(光康)など有力な地位ある人物五、六人が説教聴聞に来たが、受洗の決断には至らなかった。p142

1574年、フロイスはオルガンティーノと共に一年間、法華経八巻を購読したことを述べている。
仏典を学び、その知識がなければ彼らをキリスト教に改宗させることは難しいと痛感し、また一方でキリスト教の独自性を保つことができないと考えていた。p144

六 南蛮寺建立とフロイス
フロイスは南蛮寺の意義を「二人のモーロ人(イスラム教徒)がローマかリスボンで、わざと私たちの教会の傍らにメスキータ(回教寺院)を建てるのを、今私たちが見るようなものである」とゴア及びヨーロッパに発信している。p152

上洛半年にして追放され、ヴィエラの後継者として小舟で荒海を航海し続け、信長の大船に助けられて、同地方における宣教の基礎を固めることができたフロイスは、窮地にあってしばしば信長に助けを求め、少なくとも12回は彼に面会した。信長もこの異国人の話す異国の政治と社会と生活に耳を傾けた。p155

 

第五 豊後赴任と宗麟の改宗
一 豊後への転任
カブラルはフロイスの健康状態を配慮して、京都の厳しい冬を避け、温暖な豊後臼杵への転地を命じた。p157

二 宗麟の改宗とフロイス
カブラルはフロイスの健康状態だけでなく、大友宗麟改宗のためにフロイスの力量に期待したのでは?p169

三 巡察師の豊後滞在と上洛

 

第六 準管区長秘書就任と年報執筆
一 準管区長秘書に就任
1581年12月に作成された「名簿」には、フロイスが準管区長コエリョの同伴者、すなわち秘書として記載される。

二 日本年報とフロイス

三 準管区長の大坂城訪問に随行
大坂城に豊臣秀吉を訪問

コエリョ上洛の途中、高山右近が1585年に所領替によって高槻から明石に異動しており、明石に寄港したが、右近は大坂に出仕していて不在だった。p223

四 日本史の執筆
執筆に四年を費やす。
フロイスの「日本史」執筆の基本姿勢には、宗教家・宣教師というよりは、歴史家としての面目を保とうとする意志が強く働いていたと見ることができる。p243

五 伴天連追放令とフロイス
秀吉は、宣教師が大坂の一向宗の坊主よりも有害で危険な存在であると指弾し、五ヵ条からなる「定書」を通達し、20日以内に日本を退去すべしと命じた。これが所謂、伴天連追放令である。p252

 

第七 晩年
一 ヴァリニャーノの再来日とフロイス

二 マカオにおける憂愁

三 日本帰還後の動静
長崎で日本年報の編集・執筆に従事
二十六人の殉教報告が、フロイスの遺稿となる。
1597年7月20日に長崎の岬の教会に附属する修院で死没した。66歳。

おわりに
「日本史」が、キリスト教が伝来した戦国期の日本社会を詳細に活写しているために、日本の中世史解明に資するところは大きい。フロイスが自らの主張をまげてヴァリニャーノの要求に屈していたならば、多くの歴史的事実に光が当てられることはなかったであろう。彼は常に事実を、そして歴史的真実を伝えたいとする熱い思いがほとばしっていた。重量感のある長い文章は、彼の命そのものであった。p283

 

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ギリシア芸術模倣論 ヴィンケルマン著

2023-01-07 09:37:51 | ヨーロッパあれこれ

 

ギリシア芸術模倣論
ヴィンケルマン 著
田邊玲子 訳
岩波文庫 青586-1
2022年10月14日 第1刷発行

このヴィンケルマン(1717-1768)の名前は、ゲーテの「イタリア紀行」でよく見かけました。
図書館でこの新刊書を見つけ、読んでみた次第です。

絵画と彫刻におけるギリシア芸術模倣論
合間合間にホラティウスなどの警句を挟みながら、論を展開しています。

衣襞(ドラペリー)という語で理解されるのは、彫像の裸体部分に衣を着せかける技巧、すなわち衣を襞づける技巧が教えるすべてのことである。この知識は、美しい自然の肉体、高貴な輪郭に次いで、古代作品の第三の優れた点である。p18

ラファエロの作品に接するには、諸々の美を感取することを学んだ目、すなわち真の古代の趣味を会得していることが、必要である。そうすれば、多くの人には生気に欠けて見えるだろうアッティラの主要人物たちの安息と静謐が、実はたいへん意味深く崇高なのだとわかる。p22

 

『絵画と彫刻におけるギリシア芸術模倣論』にたいする公開状
これは匿名の著者が近代擁護派の論点から『模倣論』を批判するという体裁です。

ドレスデン王立古代小陳列室(キャビネット)の一体のミイラについて

『絵画と彫刻におけるギリシア芸術模倣論』の解説と模倣論にたいする公開状への回答
これは上記の批判に対して『模倣論』の著者が答える形をとっています。

こうした手の込んだ策をとったのは、当時の批評と反論の文化を取り入れた、多分に戦略的なものであった。p445

彫像描写
ローマに到着したヴィンケルマンがまず取りかかったのは、ヴァチカン宮殿のベルヴェデーレの中庭に展示されていたいくつかの彫像の描写であり、実物を自分の目で観察するだけでなく、古代の文献などを集めて改めて研究し直した。その際の抜き書き集や推敲を重ねた複数の手稿が残されている。

本書では、当時人気の高かった、トルソ、アポロ、ラオコオンの描写を訳出しています。p451

 

書簡 

18世紀は、啓蒙思想に由来する、個人の人間性に基づいた人間関係としての友情礼賛の世紀であり、そうした人間関係の表現としての書簡の世紀でもある。p452


ヴィンケルマンは友人たちに何度も書簡で、王子たちの教養旅行の付き添いとしてローマに行きたい、年下の王子の教育係になる見込みがある、などと語ってきたが、いずれも実現しなかった。p377

解説
ヴィンケルマンは古代ギリシア人を発見した。
もちろん古代ギリシア人がいたのは知られていたが、一つの民族、一つの理想としてではなかった。ヴィンケルマンは古代ギリシアに完全を見出だした。p426

ヴィンケルマンの書は熱狂的なギリシア礼賛を生むと同時に、いまやその面影もない当時のこの状況が嘆かれ、ギリシア復興を望む声を生み、19世紀の対トルコ独立運動へと連なって、現在のギリシアまで引き継がれる。p427

 

ネートニッツ城ビューナウ伯爵蔵書図書館の司書だった時の収穫の一つは、ドレスデンを知ったことだった。休日の日曜日に片道二時間かけて徒歩で往復し、「ドレスデンを見たことがない者は美しいものを何も見たことがない」と極言するほど、この都に魅せられた。p434

ヴィンケルマンの死後二十年近くたってイタリアに旅したゲーテは、ローマの地を踏んだ感慨をこうつづっている。「31年前、ちょうど同じ季節にヴィンケルマンが、このわたし以上に哀れで常軌を逸した男として、この地にやってきた。彼はなんと果敢に奮闘を重ね、功成り名を遂げたことか」

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旅のあとさき ナポレオンの見た夢

2023-01-02 11:40:09 | フランス物語

 

旅のあとさき ナポレオンの見た夢
福田和也 著
講談社 発行
2008年4月24日 第一刷発行

2006年9月から2007年2月にかけて週刊誌に連載された紀行文です。
コルシカからフランス国内のナポレオンの足跡を追っています。
ゆかりの地訪問の傍ら、毎日豪華なフランス料理をたらふく食べ、高そうなワインを呑みまくる体力は凄いと思います。

朝焼けの島、コルシカ
コルシカ移民はシチリアと違い、アメリカ合衆国には根づかなかった。コルシカ人が定着したのは、ベネズエラとプエルト・リコで、特にベネズエラでは石油業者やゴム園所有者のほとんどがコルシカ系だという。コルシカ出身の大統領も二人出ている。p51

フランス外人部隊は、殺人などを犯した犯罪者などのならず者の集まり、というイメージが流布しているが、それはロマンチックな幻想にすぎない。高度の訓練を受けたプロ集団だ。p84

サン=テグジュペリ自身は、王子さまというよりは、バオバブの木に近い人物だった。身長192センチで、体重が百数十キロという巨漢。
その自我は、身体よりも大きく、尊大だった。p87

 

南仏をゆく
ニースの「シャトー」頂上のテラスは、現在、「ニーチェのテラス」と呼ばれている。『ツァラトゥストラ』の断章の着想をここで得たと言われている。p114

最近、発見されたという遺跡の発見現場を通って、丘の頂上に赴いた。マティス・ファンの聖地ともいわれるマティス美術館がある。
ここが聖地と見なされるのは、ニースとその周辺がマティスにとって特別な土地だからだろう。p128-129

当初、ナポレオンはエルバ島で閑雅な余生を送るつもりだった。
にもかかわらずエルバ島から脱出した理由は
・退位の時になされた約束、年金支給と皇妃マリー・ルイーズと嗣子ローマ王との生活、が果たされなかった。
・フランス国内の混乱

 

シテ・ラデューズ(輝く都市)(ユニテ・ダビタシオン)はロンシャンの礼拝堂と並ぶ第二次世界大戦後の、ル・コルビジェの代表作。
全体の、特にピロティ(柱だけで構成された、建物の一階部分)の力感あふれる存在感と、上部の理知的な空間構成、そしてところどころに刻まれた、モデュロールと呼ばれる線刻やレリーフ、壁面など、全体構造から細部まで、あらゆるところに建築家の刻印が押されているのだ。
などと絶賛する福田さん。
それに対しドライバーのヴィルジニーは「地元では、あの家、メゾン・ファダっていうのよ」と嘯いた。ファダとは、マルセイユの方言で、狂気という意味。
(「ヨーロッパの町と村」グラフィック社p13によると、ユニテ・ダビタシオンは、世界中の住宅計画と建築デザイン・都市デザインに深甚な悪影響をもたらした、とのこと。住宅計画の悪影響としては、当時流行の社会主義思想を具体的な建造物として示したこと。都市デザインにおける悪影響としては、街路との縁を切ってしまったこと。現代のヨーロッパでは、モダニズムは社会主義国家と同じように歴史的な大失敗と見なされているが、日本ではなぜかモダニズム建築や都市計画が今でも幅をきかせており、街並みの景観破壊につながる不恰好な集合住宅が生み出されてしまっている。このシテ・ラデューズ訪問記はフランス通の日本人と地元のフランス人のル・コルビジェに対する見方の対立が明確に現れていて、誠に興味深い)

 

だが、何といっても、ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の見物は眺望である。最高地点の名に恥じない。三百六十度の大パノラマには、興奮をおさえられない。フォトグラファーが、爆笑しながら撮影している。p190

 

ブルゴーニュの豪奢
ロレンツォ・イル・マニーフィコ(大ロレンツォ)のフィレンツェ、ルイ14世のフランス、フリードリヒ大王のプロイセン、マリア・テレジアのウィーン、そしてナポレオンとその甥ナポレオン三世にいたるまで、覇権への意志と派手な宮廷生活は緊密な関係をもっていた。その端緒がブルゴーニュのバロア家四代にあったのだ。
今日、われわれがもっている、ヨーロッパ宮廷のイメージ、ヴェルサイユ宮殿やシェーンブルン宮殿での壮麗な舞踏会といったものの原型もまた、ここブルゴーニュが源だ。p204

植民地政策
・ジェノヴァ型
その土地から、どれだけの金を長期にわたって搾りとることができるか
イギリスによるインドやミャンマー支配
・フランス型
同化政策、建前だけでも同じ権利、同じ法律

 

七世紀前後まで、フランスの平地もほとんどは鬱蒼とした、森であった。その森を畑に変えたのは、クリュニー会などの修道院だった。
西欧の修道院は、オリエントの修道院のように激しい苦行を採用せず、労働を奨励した。それにより、経済的基盤を確保した。p224-225

ブリエンヌの士官学校で、ラテン語をみっちりと教えられたナポレオン。
タキトゥス、ウェルギリウス、キケロ、セネカといったラテン文学の古典に接したことは、雄弁家ナポレオンを生むうえで決定的なことだったからである。戦場で、議場で、歓喜の宴で、常にナポレオンが兵士たちを熱狂させることができたのは、古代ローマの雄弁家たちのレトリックを、ブリエンヌでみっちり叩きこまれたからだった。
そして、何よりも、ローマ時代の著述家、プルターク(プルタルコス)の『英雄伝(対比列伝)』に出会わなければ、19世紀にアレクサンダー、カエサルになろうとする野望は生まれなかったろう。p227-228
(マキャヴェリも、チェーザレ・ボルジアに会った時、古代の偉人を勉強する必要があると感じて、この本を探していました)

 

ブリエンヌでの暮らしはナポレオン少年にとって悲惨なものだった。いじめられ、貧しかった。
しかしこの孤独により、衆をたのまず浩然と機会を待つことのできる精神の、叩けば金属質の音がするような硬さと純度はブリエンヌで培われた。

金のかかる騎兵将校や歩兵将校になれなかったナポレオン。
社交とは無縁で、得意な数学の能力をいかせる砲兵を選ぶ。
ナポレオンがナポレオンになるにあたって、砲兵学をとおして学んだ、戦場の数量的把握という発想は、決定的だった。

 

パリの魔力、ジョセフィーヌ
ナポレオンの墓があるアンヴァリッドに近寄ると、まず圧倒されてしまうのは、前庭から建物までの距離の長さだ。川辺から鉄柵のつらなる入り口まで、芝生が広がっているのだが、それが五百メートルくらいあるのだ。建物を前にしているのに、歩いても歩いても近くならない、という不思議な感覚を味わわされる。p262

1921年、皇太子裕仁、つまり後の昭和天皇がアンヴァリッドを訪問している。その前に、ナポレオンの墓に詣でた日本の公子がいた。徳川昭武である。p266-267
 
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高いところ好きなにゃんこ女王様

2023-01-01 13:18:23 | 小説

 

明けましておめでとうございます
うちのにゃんこは高いところが大好きです。
ついには天井そばまで上ってしまいました。
ふにゃ、なんだか偉くなった気分なのにゃ
わらわはにゃんこ王国の女王様なのにゃ
 
 
登り降りには、くれぐれも気をつけてね。
 
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