第七章 帝王が支配する宮廷と文化
一 聖代を描く『源家長』日記 事務局長が見た新古今時代
二 遊興の空間 水無瀬殿の後鳥羽院と近臣たち
水無瀬殿は後鳥羽院の離宮の一つであり、水無瀬川が淀川に合流する地にあった。後鳥羽院はここで近臣と遊ぶのを非常に好んだ。
狩猟、蹴鞠、笠懸、小弓、競馬(くらべうま)、騎射、管弦、囲碁、将棋、双六、連歌など、遊びの限りを尽くし、遊女・白拍子による郢曲・歌舞、更には猿楽などを楽しんだ。
三 上皇による文化支配 諸道の興隆
四 『新古今和歌集』完成の後 狂騒の連歌会、変質する和歌所
第八章 歌壇からはじかれた人々の開花
一 鴨長明の見た新風和歌 衝撃と失踪
二 和歌試以後の顕兼 『古事談』の成立
説話集『古事談』の編者(作者)として知られる源顕兼
三 晩熟の歌人信実 『今物語』の達成へ
後年歌人として大成した藤原信実
四 嘲弄される人々 旧風歌人たちの悲哀
五 建礼門院右京大夫の晩年 仄見える姿
第九章 新古今歌壇の夕映
一 順徳天皇の歌壇 後鳥羽院鍾愛の皇子
二 避けられぬ破綻 定家への院勘
後鳥羽院御口伝の定家評
詠歌は巧緻で、歌道を極めている様は殊勝であり、和歌への評価眼は素晴らしいが、他人は眼中になく、時も場も配慮せず発言し、己の価値観に絶対の自信を持ち、狷介な定家像。『明月記』に現れている定家と小気味よいほどに一致する。
三 承久の乱の衝撃 敗北した上皇
四 さまざまな運命 北面武士秀能など
第十章 流謫の上皇
一 我こそは新島守よ 隠岐の後鳥羽院
二 往来する人と和歌 隠岐と都の交錯
三 再び和歌を編む 『隠岐本新古今集』など
四 隠岐での日々、そして死 最晩年の後鳥羽院を描く書状
この時代の資料では珍しく、将棋の記事が出てくる。清坊入道(清寂)は、将棋の腕前を大風呂敷を広げて自慢する。これは大将棋ではなく、小将棋を指すようだ。
五 その後の土御門院と順徳院 二つの日記の発見
第十一章 都に生きる定家
一 後堀河天皇の時代 清廉の天皇
二 『新勅撰和歌集』の撰進 見えざる後鳥羽院の影
三 好士たちの姿 定家周辺に群れ集まる人々
天福元年(1233)七十二歳の定家は、撰集作業で多忙を極める中、勅撰集に入集を望む人々、そのための詠草を提出する人びとが頻繁に訪れていた。
四 『新古今和歌集』への視線 定家と後鳥羽院の思念
第十二章 終焉と再生と
一 至りついた最晩年 定家の死
二 めぐりくるもの 後嵯峨院の時代
新古今時代、後鳥羽院は実に専制的な上皇であったが、定家の表現世界を束縛することなく、定家は和歌の中では自由に羽ばたいていた。
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