4 われらの大陸の縁で
イベリア半島とバルカン半島の古代ローマ道路
バルカンでは、ギリシャとトラキアの文化が地中海から大山脈の縁まで入り込んできていた。
スペインでは、ジブラルタル海峡から北に伸長し、多くの商館を支えとする昔からのライバル、カルタゴに、ローマはぶつかった。
これらにより、ローマ人は文化伝達者の役割を果たすことができなかった。
属州スペインでは、集落よりも軍事目的と鉱山の位置を考えてローマ道路が造られていたのだ。
カルタゴ人により、ジブラルタル海峡を閉鎖されていた間、怒った地中海諸民族は、錫を算出するブリテン島へ行く別の道をみつけた。
陸路をボルドーまで行く、あるいはローヌ川、ソーヌ川、セーヌ川を経てドーヴァー海峡岸へ出るという、荒れるビスケー湾を迂回する二つの道を発見した。
ブリガンティウムの今日の名、ラ・コルーニャは、ローマ時代から今に残る唯一の灯台を私たちに提示してくれる。それは「ヘラクレス塔」と呼ばれ、内部は間違いなく古代のもので、外部だけが二百年前に修理されている。
ヨーロッパの道路沿いで、門や墓所や神殿の廃墟といった古代ローマの遺物に出合うと、強い視覚的な刺激を受けるが、それはまた、近代的な環境に対して、古い建造物の持つ尊ぶべき色彩や、何千年という歳月の残した目に見える痕跡によって、一種の無言の抗議をしているからである。
フン族の進撃の後、商業都市ニシェは人の住む廃墟に過ぎなくなっていたが、何度かの和平の後で、いつも急速に繁栄を取り戻した。
それは第一に、こういう騒乱の時代には、住民は快適な居住設備などあまり要求せずに、生きていることを喜んだからだし
第二に、フン族は多額の貢物を自分たち自身の支配地域ではどう使いようもなく、ビザンチンからの金を人々の間にばらまいたからである。
5 山への敬意
スイスのローマ道路
スイス人は、ローマ人には、のちにナポレオンに対するのと同じく例外を設け、受け入れた。
中部ヨーロッパ、いや全世界における先史時代の交通は、前世紀末に考えられたよりははるかに盛んだった。広い地域にわたる交易商人によるものである。
ローマ時代から1600年もの間よく使われたゼプティマー峠
ローマ人がしっかりと造り上げただけでなく、二つの水路、当時はまだ陸路よりもはるかに優れていた輸送路を結んでいたから。
6 幸福なオーストリア
山の中では、地上建築とは違って、道路は風景の一部となり、良い時代にも悪い時代にも、風景とともに生きる。
谷を通って峠へうねうねと登っていく道路を手掛かりに、谷や斜面や山、谷川や峠がどういう独自の生命を保持しているかが初めて明らかになることがよくある。
ローマ人は道路の尽きるところを結節点として、また山の危険を切り抜けられたことに謝意を表するための場所として、神殿と教会のある集落を造った。
その同じところに、今はまた、費用のかかる交通動脈が何本も絡み合い、道路付随構築物が重なり合っている。
7 戦いに強いアルプスの民
スイス人についてはもう六百年も前から、地味の痩せた故郷を逃れながらも家族を養って行くためにヨーロッパ全土で軍務に就き、ドーヴァー海峡から南イタリアで到る所で雇主のために殺されたことが知られている。
古代道路の調査研究にあたって最も重要なのは、建設技師の建てた里程標である。これは長持ちしなければいけないから、今とは違って重い石で造られた。
8 琥珀街道
バルト海と北海の海岸からアドリア海への琥珀の輸送路
ヨーロッパは、都市が誕生せずにいられないような地形を知っている。大きな共同体は、テヴェレ河畔の七つの丘、セーヌ河谷のモンマルトルとモンパルナスの間、テムス河口、パンノニアの平地に開けるドナウの谷などが、あらゆる前提条件に特別恵まれていることを発見した。
カルヌントゥムは琥珀街道がドナウ川を越えて蛮族の国へ入るところにある国境の町であり、マルクス・アウレリスス帝の町であった。
ここに立つ果てしない平原の縁に立つ異教徒門。ここで蛮族の境界を越えた。
東西を結ぶドナウ川と、南北を結ぶ琥珀街道とが交差する、深く刻まれた十字の中。二つの世界軸の交点と、二つの世界境界の極である。
9 聖セウェリヌスの道路
セウェリヌスはウィーン、バッサウ、ザルツブルグの間の道路沿いに配置された砦や要塞に到着して、そこで素晴らしい活動を展開。
ローマ道路に沿っていない町村は、到達不可能と言ってもいいほどだったが、また同時にゲルマンの強盗集団に脅かされる危険もほとんどなかった。善も悪も、道路上をやってきた、あるいは全然来なかった。
諸民族と諸宗教の、そして地方的と超地方的な権力の実に奇妙な混合をもたらしたのは、ザルツブルグの陸路と水路である。
たぐい稀な位置にあるこの町は、今日に至るまで、世俗の利害と教会とのそれに挟まれて、華やかな独自の発展を遂げてきたことを誇ってもよい。
10 目に見えない網
バイエルン人は、ローマ人と最も関りの少なかったドイツの種族で、今でもそういうところが見られる。彼らがどこからやってきたにせよ、今日の生活圏の中へ流れ込んだときには、ローマ人はもう引き上げていた。
ローマ人は森林地帯に侵入しなければならないときはひどく気おくれしたが、それももっともなことである。故郷であるイタリアの明るい高地、かつては乾燥して太陽に照らされていた土地の、谷や道路に慣れていたことだから、彼らは湿った中部ドイツの森の縁に立つと、躊躇した。