バルカンの花、コーカサスの虹
蔵前仁一 著
旅行人 発行
2014年6月4日 初版第1刷発行
2009年のルーマニア、2010年のコーカサス、そして2013年のバルカンの訪問記です。
旅慣れた著者なので、旅自体は戸惑いつつもサクサク進んでいるように見えますが、普通の日本人なら大変な場所なのでしょうね。
第1章 バルカンの花
クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、マケドニア、セルビアを五週間でまわる。
宗教で民族を決めるのはきわめて特殊なやり方だ。
つまり、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人もそれぞれ信仰する宗教が異なるだけで、言葉もほぼ同じスラブ人なのだ。
なお、1993年の第二回ボスニア人会議で、ボスニア・ヘルツェゴビナの公式な民族呼称として、「ムスリム人」に替えて「ボシュニャク人」の呼称が採用されたそうである。p35
サラエボには「サラエボのバラ」が咲いていると聞いていた。それはサラエボが迫撃砲で砲撃を受けた際、犠牲者が出た爆撃の跡を赤い科学樹脂で埋めたもの。それが赤いバラのように見えることからそのように呼ばれたのだ。p47
モンテネグロはEUに加盟しているわけでもないのに、ユーロが通貨として使用されている。
ユーゴスラビア時代はその通貨ディナール
セルビア・モンテネグロ(新ユーゴスラビア)でセルビア・ディナール
1999年のコソボ紛争でセルビアと対立したらセルビア・ディナールに加えてドイツ・マルクも法定通貨にする
独立の機運が高まった2000年には法定通貨はドイツ・マルクだけになる
ドイツ・マルクがユーロに替わるとそのままユーロ
自国で通貨を作っても、信用度が低いと暴落してハイパーインフレを引き起こす危険性がある。
アルバニアの町バルボナの後、首都のティラナに行くとき、いったんコソボに入る。このルートの方が道がいいから。出入国は簡単だったが、パスポートにはしっかり入国スタンプを押された。p78
ベラトの町ではホッジャ政権時代、夕方6時から外に出て二時間ほど散歩しなければならないという法律があった。今でも習慣となっているらしい。p86
マケドニアのスコピエ
モダンな大都会だが、やたら異様に大きく仰々しいモニュメントが数多く立っている。とにかくモニュメントだらけだ。
ベオグラードは圧倒的な大都会。それに比べればスコピエもただの田舎町だ。
そして多くのアールヌーヴォー建築が残っている。
第2章 ルーマニア田舎紀行 もう一つのバルカン
チャウシェスクの遺産「国民の館」
ロマの豪邸
共産主義体制崩壊すると、廃墟になった工場から高価なスクラップを集め、その取引で富を築く。不思議なデザインの宮殿だが、そこには住まず近くの小さな小屋で生活している
オドレイウ・セクイエスクというハンガリー人が多く住む町
その中で鳩小屋はセーケイ人のシンボル
セーケイ人はこの地の先住民で、ハンガリー語と異なる文字(ルーン文字)まで持っていた。
あのルーマニア革命は、本当に革命だったのかという声がルーマニアであがっている。
革命だといっているが、結局政権の座に就いたのは共産党幹部。国民に銃を向けた秘密警察や軍の責任者は誰も責任を取っていない。「盗まれた革命」だと主張する人も多い。p190
第3章 コーカサスの虹
南コーカサスのアゼルバイジャン、そしてグルジア、次にアルメニアをまわって、再びグルジアに入る。
アゼルバイジャンとアルメニアには紛争状態で国境が開いていない。またアルメニアに最初に入ってしまうと、アゼルバイジャンには入国できない恐れがあるので、こういうコースをとるしかない。p199
カスピ海は世界最大の塩湖となっているが、実は海なのか湖なのかという問題が持ち上がっている。
もしカスピ海が湖であるなら、沿岸国の共同管理となり、資源は平等に分配される。
しかし海なら国際海洋条約が適用されて、沿岸国の領海が設定される。
そうなると領海内の石油資源は当然その国が独占できる。
イランの領海には油田はないため湖と主張しているが、アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタンは海だと主張している。p202
アゼルバイジャンのコーカサス山脈の東端に位置するフナルッグ村
フナルッグはその特異な言語で知られている。フナルッグ語はアゼルバイジャン語とは全く異なり、話し手はフナルッグ村と隣村しかいないほどの極少数民族の言語
石油などの天然資源の輸出によって自国通貨が強くなった結果、国内製造業の輸出競争力が失われ、長期的な経済成長が阻害されることを、経済学用語で「オランダ病」という。アゼルバイジャンはそれであり、貧富の差も拡大している。p214
アゼルバイジャンのラヒック
およそ千年前に、イランのカスピ海沿岸の町から、この地に多くの人々が移民してきた。
その移民たちの中に優秀な銅鍛冶の職人が多かったので、その技術がこの山間の村に持ち込まれた。
このラヒックの人々が話す言葉は、アゼルバイジャン語よりもペルシャ語に近い。p218-219
アゼルバイジャンのシェキ
シルクロードの中継地として栄えた。
コーカサス最大の隊商宿が設けられていた。
そこが現在は「ホテル・キャラバンサライ」という観光スポットでもあるホテルになっている。p223
アルメニアでは、アゼルバイジャンに行ったことは問題視されない。ナゴルノ・カラバフをアルメニアの一部にしてしまった勝者の余裕だろうか。p227
アララト山はアルメニア人にとっては民族のシンボルで、オスマン帝国時代も、このあたりに多くのアルメニア人が住んでいた。しかしアルメニア人大虐殺が発生するにおよび、生き残ったアルメニア人もこの地を離れてしまった。
アララト山はアルメニア人の悲劇の歴史や民族の痛みを背負ったところでもある。p251
アルメニアのゴリス
1920年にアルメニア民主共和国が崩壊した際に、この一帯はアルメニア山岳共和国として独立し、その首都となった。p263
グルジアはワインで有名な国だけあって、グルジアの宿の食事はどこでもワインが飲み放題だ。p281