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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (後半)

2021-09-20 06:16:12 | パリの思い出
第6章 文化革命としてのフランス革命
1 多岐にわたった大きな変化
ほぼ革命期だけで終わった革命暦(共和暦)
一週を10日、一ヶ月を三週30日、各月には季節を表す名前
西暦であるグレゴリオ暦は、かつて教皇庁がその制定に関わった経緯があるから、信仰の自由と「政教分離(ライシテ)」を原則とする国民主権の国家とは適合しない、という発想
また十進法の方が合理的という考え方

2 表象の多様な噴出
ビラやチラシ、風刺画などの図像はパリ市の歴史ミュージアムであるカルナヴァレが豊富

3 人類の芸術遺産をパリに集めよ!

第7章 ロマン主義以降の芸術文化と新たなパリの中心性
1 古典主義の権威とロマン主義の台頭
革命期に荒廃して以降そのままだったパリのノートルダム大聖堂が、本格的な修復へと向かう。
それは、フランス各地で進められた歴史的建造物の修復保存や史跡保存の組織化と連動していたが、その司令塔はパリにあった。
その史跡監督官として力を発揮したプロスペル・メリメは『カルメン』を書いた文学者でもあった。p134

2 異分野交流と芸術グループ内での切磋琢磨 

3 作品を通して浮き上がる世界とフランス

第8章 パリ大改造序曲 啓蒙のアーバニズムからランビュトーの美化政策まで
1 「文明都雅」の先端と映った19世紀後半のパリ
1872年の暮れ、パリを訪問した岩倉使節団
パリの風景の素晴らしさに目を奪われる使節団
都市の文化的なイメージを決定づける上で、街路状況や建物群が生み出している雰囲気、その場で生きる人々の様相、一言でいってしまえば全体的な都市景観がもたらす力は、無視できない。p152

2 バロック的な都市改造から啓蒙のアーバニズムへ

3 革命期からナポレオン体制化の都市空間

4 復古王政と七月王政期の都市整備

第9章 ナポレオン三世と県知事オスマンによる大改造
1 ルイ・ナポレオン・ボナパルトの政治的浮上と第二帝政の開始

2 大改造のポイント
パリ市内の建築については、建物相互に隙間を空けずに列をなすように建築し、道路幅がどのくらいなら、どれほどの高さの建築が許可されるかなど、18世紀からかなり細かな規制のもとに置かれていた。オスマン化も基本的にこうした伝統を受け継いでいたと言ってよい p189

上水道はセーヌやマルメの川水ではなく、その支流の、それも水源から延々と、直接導水路で引き込むという、それまでには誰もが発想しなかった方式が採用される。p191
(古代ローマ時代に、似たようなことをしていたように思います)

第10章 モードと食と「コンヴィヴィアリテ」
1 モードの先端を発信してきたパリ

2 パリにおけるレストラン、カフェ、ブラッスリー
コンヴィヴィアリテ
互いに言葉を交わし、共に生きていること
レストランやカフェなどが、それを感じる共食空間p209

終章 芸術文化を押し上げる力 私と公の両面の作用
1 芸術文化の新たな飛躍の舞台パリ

2 画商・コレクターが果たした役割

3 芸術文化振興への政策的関与とパリ万博



物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (前半)

2021-09-19 06:53:47 | パリの思い出


物語 パリの歴史
「芸術と文化の都」の2000年
福井憲彦 著
2021年8月25日発行
中公新書 2658

はじめに より
多くの人にとってパリと「芸術文化」というイメージの結びつきは強い。どこから、それは感じられるのだろうか。どうして、またどのようにして「芸術文化の都市パリ」は、またそのイメージは、形成されてきたのだろう。
本書でたずねてみようとするのは、この問いである。

序章 パリのエコロジーと歴史の始まり
中世からパリ市の紋章に船が描かれるのは、まさにセーヌとの関わりの重要性を示している。パリは港であった。もちろんセーヌの川港である。p6

第1章 キリスト教とパリ
1 教会の多い町パリ

2 襲来する外敵と戦うパリ
フランスの社会と文化を捉える場合には、単一の、あるいはごく少数の、民族ないしエスニック集団の単位で考えてはいけない。
特にパリが位置するイル・ド・フランス地域は、古くからのケルト系、ローマからのラテン系、そしてより北方のゲルマン系緒集団が、この地で相互に交流し、時には権力闘争を展開した。p22

第2章 王権のもとで学術文化の都となる中世パリ
1 中世の王権と王都パリの整備
パリは元来、カペ朝のお膝元であったが、フィリップ二世の祖父ルイ六世は改めて1112年に、パリに、王都としての特別な地位を公認した。
カペ朝の古くからの拠点オルレアンもロワール川のほとりにあり、東西と南北のフランスをつなぐ要衝にあるという点では、十分王都の候補たりうる位置にあった。p29

2 セーヌ左岸に始まる新たな学術文化の輝き

3 パリ大学とソルボンヌ

第3章 職人・商人文化の発展と中世末の暗転
1 20万都市パリの発展
セーヌ川は上流でも下流でも、多くの河川を支流として合わせるので、全体の流域はかなりの範囲になり、水運が発達した理由につながっていた。
ロワール川の流域が、国王の一時滞在用の居城を置くには適していても、王国の中心にならなかったのは、ロワール川の流量が季節的に安定していなかったのも一因ではないか、という推定もあるくらい、水量の安定性は必要であったが、セーヌはこの点、問題はなく、むしろ時たま生じる増水の方が問題であった。p44

2 ギルドを形成した職人・商人と市民生活
職人の社団のなかでも、とりわけ歴史が古く威厳のあった団体が肉屋(ブシュリ)だというのも、象徴的である。
戦う人である貴族をはじめ支配階層にこそ重要であった肉という食料を、独占的に扱った彼らは、市政への発言力も強かった。p52

3 危機の時代のパリ

4 パリの戦闘的な自治の姿勢

第4章 ルネサンスのパリ ー王都から王国の首都へ
1 ルネサンスの魅力とイタリア戦争

2 世界のなかのフランス、その王国の首都としてのパリ
1539年、フランソワ一世による「ヴィレル・コトレの法令」により
・文書主義と国家言語統一に向けての第一歩。法令や裁判等の実践は、公文書として記録に残すこと。それにはラテン語や各種の地域言語ではなく、フランス語で記すこと。
・中世以来の各小教区で、教区民の洗礼と埋葬の記録を必ずつけ、毎年それを国王役人に届け出ることを義務化。戸籍登録の原型。p78-79

3 人文主義と学術文化の再活性化

第5章 17・18世紀パリの文化的発展と王権
1 新たな行動様式とアカデミーの創設
17世紀はヨーロッパ史においては「危機の時代」
気候の寒冷化と悪天候による農業の不振や飢饉
疫病の流行
三十年戦争といった長期の国際紛争
フランスでは絶対王政と呼ばれる政治体制で、一定の安定を見せていた。

2 文化活動の高揚とサロンの活性化

3 17・18世紀のパリ都市空間の整備再編




ノートルダム フランスの魂(後半)

2021-07-17 08:52:51 | パリの思い出


7 1844年 ヴィオレ=ル=デュク
「薔薇窓の光に照らされ、ここで最期の時を迎えられますように」

ヴィオレ=ル=デュクとラシュスの分析結果
12世紀、13世紀の建造物は16世紀から19世紀初頭に至る間に野蛮に作り替えられた。この三百年の損傷をなんとしても元通りにしようと決意を固める。

中世の時代、尖塔は視覚的な句読点と見なされていた。
新たな尖塔の設計に取りかかったとき、ヴィオレ=ル=デュクはこのことを頭のどこかで意識していた。
この尖塔はパリの記章であり、フランスの結束を象徴した。
尖塔は目的、方向を指し示す指、フランスの脈打つ心臓

ノートルダムがこの世に現れてから850年、建設あるいは修復に携わった建築家はひとりの例外もなく、自身ではなく建物のために力を尽くした。
ヴィオレ=ル=デュクその人も、自らの仕事を首尾よく本来の中世建築に溶けこませた。p141

8 1865年 オースマンがシテ島を「すっきり片づける」
「砂漠のただなかに現れた象のよう」 ピエール=マリー・オーザス

オースマン男爵がパリとシテ島を大幅に改造した。
中世の住居と隣接する狭い路地を一掃して、ノートルダムに威風を添えた。
島の尖端に独り建ち、ノートルダムは何キロもの遠方からもその姿を望めるようになる。

9 1944年 ド・ゴール将軍とパリ解放
「マニフィカト(聖母マリアの賛歌)が高らかに響く。この曲がこれほど熱っぽく歌われたことがかつてあったろうか。しかしながら、堂内ではあいかわらず銃撃が続いている」

ドイツ軍による占領がパリを石に変えた。
「ギリシャ神話に、女神をさらおうとしたところ、手を触れると女神が石に変わった話があった。パリに起きたのは、まさにそれ」
アメリカの外交官ジョージ・F・ケナンの日記より。

シャンゼリゼ通りを歩き終えたド・ゴール将軍がノートルダムに立ち寄り、ミサに参列した。
狙撃手が彼めがけて銃弾を浴びせたが、ド・ゴールは胸を張って歩き続けた。

10 2013年 ノートルダムの鐘
「響きに満ちたこの島」

2013年3月23日午後6時、ノートルダムの新たな鐘が1686年より南塔に下がる由緒ある大鐘エマニュエルとともに初めて鳴らされた。

1769年以降、大聖堂の鐘が一度も調子を合わせて鳴っていなかった。
1856年からは鐘のうち四個が出来の悪い代替品に交換され、敏感な耳に毎回苦痛を強いてきた。

2015年1月8日正午、氷雨の降るなか、数千人のパリ市民がノートルダムの前に集い、「シャルリ・エブド」襲撃事件で亡くなった人々を悼む鐘の音を聴いた。
その雑誌は日頃から徹底して宗教に反発し、とくにカトリック信仰には批判的だったのに、寛容なノートルダムは少しもそれを恨む様子はない。

11 2019年 ノートルダムの再建をめぐる争い
「大聖堂を以前にもまして美しく建て直そう」 エマニュエル・マクロン

建築家の守護聖人、聖トマは作者ウジューヌ・ヴィオレ=ル=デュクの面影を宿すと広く知られる。
尖塔の麓に置かれた十六体の巨大な聖人のなかで聖トマただひとり、足元に広がるパリには目を向けない。その代わり、建築家にふさわしい長い物差しを手に、警戒を怠ることなく尖塔を見上げる。

寄付にまつわる論争
奇想天外な大聖堂や尖塔の再建案、奇妙キテレツなデザイン案

ノートルダム火災の数日後、復活祭の日曜日のミサの最中にスリランカの教会で何百人ものキリスト教徒が虐殺されたが、このニュースがノートルダムの火災のように新聞の一面で報じられることはなかった。p205

あらゆる種類の宗教的原理主義の台頭は、近年、世俗主義を信奉するフランスの心情にとって試金石ともなる。
ノートルダムの火災はまた、それとは別の形でフランスの決意のほどを問うこととなった。宗教とはあくまで無縁であろうとする国家がじつは深く歴史に根ざしており、その歴史はキリスト教にほかならないことをこの悲劇は明らかにした。
何も嘆くことでもなければ、祝うことでもない。
単なる事実である。p206

あとがき、より

感激よりも畏敬。
フランス人はおそらくノートルダムの前で、これまでどおり畏怖の念を抱きたいのだろう。なぜならノートルダムはそんじょそこらの労働会館とは訳が違う。
ノートルダムはパリの脈打つ心臓である。
八百五十年以上もフランスの栄光と悲惨、フランスの勝利と挫折は、ノートルダムのアーチ型天井の下に鳴り響いたのだから。

訳者あとがき、より

結びの十一章では、尖塔のデザインに現代的な要素を添えようと目論んだ人々に対する著者の反発が明らかですが、これは幸い2020年7月に決着がつき、専門家の意見を入れてマクロン大統領が尖塔は焼失したものとまったく同じに復元するとの決定を公表しています。著者も胸をなで下ろしたことでしょう。

(画像は2002年のノートルダム大聖堂です)

ノートルダム フランスの魂(前半)

2021-07-16 20:05:12 | パリの思い出


ノートルダム フランスの魂
アニエス・ポワリエ 著
木下哲夫 訳
白水社 発行
2021年4月10日 発行

2019年4月15日、火災に遭ったパリのノートルダム大聖堂。
その時の緊迫した状況や、その後の再建に向けての混乱、
そして大聖堂建築時に遡り、そこから各時代のノートルダムを舞台にした出来事まで、生き生きと描かれています。

まえがき、より
ノートルダムは人類が建築の分野で成し遂げた最も偉大な成果のひとつであり、文明の顔、国家の魂である。神聖なのに世俗的、ゴシック様式なのに革新的、中世のものなのにロマンティックなノートルダムは、神を信じる者にも信じない者にも、キリスト教の信者にもそうでない者にも神と出会い、難を避ける場をつねに提供してきた。

1 2019年4月15日 火災の夜
「ある夜、わたしは死んだ」 フィリップ・ヴィルヌーヴ

ノートルダムの火災の鎮火のため、聖遺物を破滅から救うため、建物自体の崩壊を防ぐため、消防士や様々な関係者たちの緊迫した一夜

2 1163年 礎石
「いつの日かこの偉大な建造物が完成した暁には、比較を絶するものとなろう」 ロベール・ド・トリニー

12世紀半ば、首都パリはいましも経済、政治、地域、文化、芸術すべての面で驚異的な拡張を始める門口に立っていた。p47
少しずつパリは四通りの使命を我が物とする。
国王の都、商都、司教の都、そして大学都市として。
「学校が続々と現れる狭い小路に新たな精神が誕生した」p51

ノートルダム・ド・パリの建設、そしてより広くはシテ島の色直しの資金を出したのは誰なのだろうか?
下は貧しいパリ市民から、上は国王と側近に至るまで寄付をしたが、大部分はモーリス・ド・シュリー司教の職に伴う莫大な収入が出所だったらしい。p52-53

西側の正面では、多数の住居を根こそぎ取り壊すには、シュリーに買い上げてもらわなければならない。しかし厄介な家主がいて、ある夫婦には取引を完了するには、教区側が譲歩を重ねても、三十年を要した。p60

3 1594年と1638年 ブルボン王朝
「パリはミサを捧げるに値する!」「レ・カケ・ド・ラクーシェ」(諷刺雑誌)

パリに逆らって統治は叶わないと悟り、カトリックに改宗してノートルダムに参拝し、新旧教徒争う三十年にわたる戦争により分断された国家の融和を成し遂げたアンリ四世

アンリの息子、ルイ13世は王冠とフランスの命運をノートルダムの聖母マリアに奉献する。

4 1789年 理性、最高存在、そしてワイン
「授任式は宗教的であるべきであったのに、ほぼすべて軍隊式だった」

1789年7月14日のバスティーユ襲撃は、一大事としてフランス人のDNAに、全世界の想像力に刻印された。
ところがその翌日にはノートルダムに集い、勝利のテ・デウムで祝ったことを覚えている人はほとんどいない。

革命、そして恐怖政治の間、オルガニストは聖歌に替えて革命歌と「ラ・マルセイエーズ」を奏す。
革命派にできたのは、聖母の黄金の王冠を取り去り、ファサードの28名の王の首を取っただけ。

恐怖政治の間は最高存在を称える祭典が行われ、ノートルダムの他の部分はワインを保管する倉庫に転用された。p86

5 1804年 ナポレオンの戴冠式
「皇帝万歳!」

ナポレオンがノートルダムを当初の信仰へ復帰させる。
そして戴冠式を執り行うことにより、ノートルダムをフランスの公的、政治的な営みの中心に据える。

ナポレオンの自ら戴冠する行為の前列は、複数のスペイン国王とロシア皇帝がすでに試みていた。
しかし教皇の面前で執り行なわれたことは絶えてない。p95

6 1831年 ヴィクトル・ユゴーの小説はいかにしてノートルダムを救ったか
「これがあれを救うだろう」

ユゴーの仮説
歴史が始まって以来十五世紀まで、建築は人類の書物だった。
印刷の発明はしたがって建築の死を意味する。
ゴシック様式の大聖堂は建築の精華、大聖堂は石でできた最後の、そして最高の一冊にほかならない。p114-115

ユゴーはノートルダムの小説で二つのことを成し遂げようと思った。
・一時の流行とは異なるまっとうな中世の姿を描くこと
・フランスの歴史的建造物の置かれた惨状、崩落するにまかせ、やがては不動産開発業者の手であっさり取り壊される現況への意識を高めること



語るは涙、聞くは笑いのパリ独り暮らし やまさか爺回想録

2019-03-03 12:58:41 | パリの思い出

語るは涙、聞くは笑いのパリ独り暮らし
やまさかのぼる 著
第一法規 発行
平成31年2月5日 初版発行

やまさかのぼる先生の「脱ミシュラン フランス地域巡り」に続く待望の「双子編」です。
フランスに関する、他に例をみない独自の視点からの貴重な情報満載で、なおかつ読みやすまとめられています。

巻その1 はじめにコトバあるべし!の巻 
フランス語のtuで話すことを学習しないという方式を推奨するやまさか先生。
(確かに自分の経験でも、残念ながらtuで話せるような関係は持つことは出来なかった。それでも今聴いているNHKのラジオフランス語講座でも、やたらtuで話している場面が多い。まあ、自分もやっかみ半分だが)

巻その2 「優し国」革命暦歳時記の巻
昔々、「理性の神様」を信奉する仏人たちが極めて「合理的」に編成したつもりの「革命暦」。
あの暦法は、太陽暦法を採用する場合には実に理にかなっていた。
革命暦は新年の年初を「ブドウ収穫月」とした。秋分の日から1ヶ月。そして以下のように続く。
霧月
霜月
雪月
雨月
風月
芽月
花月
牧月
麦収穫月
熱月
ブドウ実り月
(こう並べると、確かに風情ありますね。)

巻その3 折々の真面目な話の巻
フランよ、さらば!の記
星の王子様をモチーフにした50フラン札の美しさ
こんにちは、ユーロ!の記
フランスの選挙あれこれの記 投票箱は透明だ!
二回投票制や、公職兼任をさせて政治家を養成訓練するフランスの知恵

巻その4 『悪の「華」の都』パリの巻
パリで観光客などを狙った、さまざまな犯罪手口

巻その5 フランスで如何に食らうか?の巻
ヘルシーなチャンコそばを調理し食べるやまさか先生

巻その6 爺が語りえぬことどもの巻
オペラと演劇、シャンソン、彫刻など

巻その7 フランスの中の我が祖国ニッポン!の巻
パリにおける阪神タイガース優勝など