以蔵の徒然日記

お気楽以蔵の気ままな生活

龍馬暗殺のシナリオ

2018-11-15 19:36:34 | 歴史

11月15日(木)

またこの日がきてしまった

この日は龍馬さんの命日でもあり、誕生日でもある日

今回もこんな感じで ・・・

何年も前から暗殺者の真相にせまってきたが

龍馬さんのこれまでの行動や周りの証言から

  

    今井信郎       佐々木只三郎

佐々木只三郎の兄で松平容保の片腕「手代木直右衛門」の証言からも

京都見廻組が最有力とされていたが

いまだに怪しい

 

     岩倉具視         大久保利通

そして

 

    西郷隆盛           陸奥宗光

まさかの 西郷さんや陸奥さんも怪しい

無理な解釈だが中岡さんも可能性が ・・・

 中岡慎太郎(陸援隊隊長)

しかし 本質にかえって考えると

坂本龍馬とはいったい何者だったのか?

脱藩もしている下級武士の若者ができる業ではない

では龍馬さんの背景にあるものは ・・・

 

イギリスのパークスの配下にアーネストサトウ

武器商人のグラバーがいるのは間違いない

 

    パークス          アーネスト・サトウ

ましてグラバーはマセソン商会の代理人であり

    グラバー

マセソン商会の背景にはロスチャイルド家という

とてつもない世界の大富豪がいる

世界の紛争や戦争には ロスチャイルド家が大きくかかわっている

インドから上海 そして日本へと

龍馬さんは そんなグラバーの代理人として動いていた

幕府の手前 グラバーは表に出づらかったのだろう

薩長同盟もグラバーの代理人として 裏書をしたのではないか ・・・

薩長同盟は武器売買の覚書のようなものかも知れない

大政奉還後 龍馬さんは永井尚志に再三 会っている

その頃の龍馬さんは 幕府にとっては危険人物

だからこそ京都見廻組がしたことは 暗殺ではなく 公然たる殺害

まして新選組のせいにするような 姑息なまねは必要ない

龍馬さんから情報が洩れる事を 恐れた人物 ・・・

亀山社中、海援隊、陸援隊のスポンサーは ・・・

龍馬さんがいなくなったことで 潤った人物 ・・・

潜伏していた龍馬さんを まして拳銃を常に持っていたにも関わらず

近づいて切れる人物 ・・・

龍馬さんは裏の動きをよく知っていて 最後には日本に危険が

迫っていることを察知したのでは ・・・

何となく見えてくる感じがするが 皆さんはいかが?

 犬援隊

 

 

 

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龍馬暗殺の真相

2016-11-15 18:42:02 | 歴史

11月15日(火)

今日は龍馬さんの誕生日でもあり 暗殺された日でもある

今回は こんな感じで ・・・

またこの日が来てしまった

龍馬さんと中岡さんをやった人は誰なのか?

そして黒幕は ・・・

薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説、新撰組説と

いろいろ考えられてきたが

やはり有力なのは 「京都見廻組」であろう

     今井信郎

今井の証言は有名だが 実行犯は「京都見廻組」にせよ

その黒幕、計画者は誰なのだろう   流れを追って見よう

龍馬さんは薩長同盟を結ばせた2日後 

「寺田屋」で奉行所の襲撃に合っている

完全に幕府の標的になっているということだ

その後 大政奉還を成し遂げた龍馬さんは

幕府から危険人物となっている

大政奉還後の龍馬さんは 「永井尚志」とよく会っている

      永井尚志

永井尚志と言えば 京都の治安を担ってる幕府の若年寄

内閣官房長官のような存在 

その近くには実行犯と言われた 「佐々木只三郎」がいる

明治に入って佐々木只三郎の兄

「手代木勝任」(てしろぎかつとう)の証言では

「龍馬は 弟の佐々木只三郎が殺した」と言っている

手代木勝任は会津藩士で松平容保の補佐をし

京都で会津藩を取り仕切って 京都見廻組を動かしていた人物だった

幕閣の永井にやすやすと近づいている龍馬さんを見て

重要危険人物と思っていたのは

まぎれもなく京都守護職を担っていた 会津藩だったのでは ・・・

完全に情報が流れていて ターゲットになってしまっている

龍馬さんの行動も安易で 危険すぎる

では情報を流していた人物は ・・・

伊東甲子太郎、西郷、後藤、桂 まさかの陸奥宗光?

今晩 我が家の夕食は鍋のようだ

また「夜さ恋」ですか?

      横須賀ヴェルニー公園より

 以蔵  犬援隊

 

 

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高杉晋作という男

2014-04-14 22:55:03 | 歴史

4月14日(月) 

幕末の風雲児、異端児とも呼ばれているこの人は

知る人ぞ知る 高杉晋作

そして今日は高杉さんの命日なんです

去年もこんなこと書いたが 今回もまたまたこんな感じで・・・

高杉晋作

Photo

どうですかぁ  この凛とした構え 

どことなくサッカーの本田圭佑に似た 気丈な感じィ

時は幕末 激動のさ中

あの「松下村塾」の吉田松陰先生に教えを受けているから ハンパない

1859年には安政の大獄で 捕らわれの身となっている

獄中の吉田松陰先生の世話をするほど慕っていた

尊皇攘夷運動を展開し、1863年1月には

幕府に抗議するため「イギリス公使館焼き打ち事件」をおこしている 

同年5月には徳川家茂さんが朝廷の要望で攘夷を約束してしまったが

長州藩は関門海峡を通る外国船を砲撃し、

イギリス・アメリカ・オランダ・フランスの攻撃を受け下関を占拠されてしまった

1  2

その頃の高杉さんは頭をまるめ、寺に出家していた

高杉さんは前に上海に行っていたので  外国の事情がわかっていたから

攘夷に逸る長州藩にもどかしく思い 

討幕を訴えるが聞き入れてもらえず 出て行ってしまったんだねぇ

しかし長州藩はこの男を呼び戻し

高杉さんはなんと奇想天外な発想で、身分を問わない軍隊

「奇兵隊」を組織することを提案 実行した

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1864年7月の池田屋事件や同年8月の「禁門の変」で

長州藩は朝敵となり ここぞとばかりに外国にも攻めやられ

長州藩VS幕府・アメリカ・イギリス・フランス・オランダという

藩の存続も危うい 大変なことになってしまった

この時期に高杉さんは脱藩している

が・・・再び長州藩はこの男を必要とした

脱藩の罪で幽閉中の高杉さんを呼び戻し

4カ国連合艦隊との講和使節団の全権をまかせ交渉にあてた

そして幕府の長州征伐が迫る中 

恭順派が大多数をしめる藩内に対し 再びこの男は立ち上がる

そして幼馴染の伊藤博文らと協力し 功山寺に挙兵

Photo_3

       右に伊藤

敵とそうとうの大差があるにもかかわらず  その時の言葉が

  「これよりは長州男児の腕前 お目に懸け申すべく」と勇ましく

幕府軍との戦争では見事勝利をおさめ  藩を倒幕へと導いた

その後は戦いの途中 日本の夜明けを見ずに

慶応3年 1867年4月14日に肺結核で この世を去って行った

おそらく 高杉さんは頭をまるめてから まげを結っていないだろう

こんな勝気な高杉さんが残した詩

  「おもしろき ことのなき世を おもしろく ・・・」

破天荒な高杉さんが残すにふさわしい  詩ではないだろうか

現代に無い

 太く 短く 大きく生きた男ではないだろうか・・・

ちなみに高杉さんは 長崎でかなり豪遊したそうなぁ

ゴールデンウィークは山形天童でやってしまおうかなぁ

Photo_4  長崎「花月」

 

 

 

 

 

 

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高杉といえば・・・

2013-05-12 15:51:46 | 歴史

4月14日(日)

4月14日といえば 長州藩士 高杉晋作の命日です

今日はこんな感じで・・・

高杉晋作は18歳のときに 吉田松陰先生の松下村塾に入門

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      吉田松陰

松下村塾の門下生には桂小五郎、伊藤博文、久坂玄瑞、山県有朋 等

多くの人材を創出している

Photo_3   Photo_5

         桂 小五郎                              伊藤 博文

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         久坂 玄瑞                               山県 有朋

その後23歳(1862年)のとき 幕府の使節として上海にわたり

清が西洋の列強国による侵略で植民地化している実情を知る

その影響で尊王攘夷運動を展開し 生麦事件を知り

自ら横浜の金沢八景で遊ぶ外国人を斬殺しようと画策

そしてその年には英国公使館の焼き討ち事件をおこす

Photo_8

 高杉 晋作

これらから行動によって示す 高杉晋作らしさがうかがえる 

下関戦争敗戦の後には 身分を問わず「奇兵隊」を結成

英・仏・米・蘭 4カ国連合軍が下関を占拠した際には

和議交渉を任され

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         奇兵隊

ここ一番の決断、解決のときには 必ずこの男が必要とされた

長州征伐(四境戦争)の際には総指揮官として幕府軍と交戦 勝利する

その後 肺結核のため療養していたが

慶応3年4月14日 享年32歳 ついに力尽きた

高杉さんは「明日をも知れぬ命だ 大いに遊ぼう・・・」 と

良く皆を連れて遊郭に行っていたらしい

ちなみに 大政奉還は慶応3年10月14日

龍馬さんの暗殺は 慶応3年11月15日

日本の夜明けを待たず 激動の最中に行ってしまった

高杉晋作の詠んだ詩に

 「おもしろき ことのなき世を おもしろく・・・

2_2 

       高杉 晋作

彼を看病していた野村望東尼が

       ・・・ すみなすものは 心なりけり」 と

下の句をつけたと言われているが

本当かどうかはわからない 

少なくとも全てをやり切った 高杉さんの人生を表す言葉として

        「おもしろいのぉ・・・」

                               Photo_10 犬援隊

 

 

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龍馬暗殺のシナリオ

2012-11-22 07:31:05 | 歴史

11月15日(木) 

今年もまたこの日が来てしまった

やはり今日もこんな感じでやらせていただきます

そうです 龍馬さんが生まれた日でもあり 暗殺された日なんです

龍馬さんの暗殺には いくつもの説がある

当時の龍馬さんは倒幕派はもちろん幕臣を含め

邪魔者は龍馬さんただ一人だったと言うこと

整理をしてみると

ここまで来ると 皆 開国には異論は無いはず

残るは倒幕か 無血の改革か

岩倉・大久保・長州・陸援隊 他 は明らかに倒幕である

無血と言えば 勝先生・西郷・海援隊?・・・

龍馬さんは後藤象二郎(土佐藩)を通じて大政奉還をなしとげた

それによってこれまでのストーリーが覆されたのは やはり倒幕派であろう

そこで怪しい陰に外国人が浮かんでくる

そもそも政権闘争の裏には外国の代理戦争があった・・・

(イギリス×フランス)

利権争いだねぇ 

龍馬さんの発想は イギリスの国家体制そのものなんだから

龍馬さんと深くかかわった人物とは

Photo

         グラバー

長崎にあるグラバー邸は有名だが その他に

Photo_4  Photo_5 

          パークス                   アーネストサトウ

彼らは龍馬さんを通じていろいろな画策ができた人物である

彼らの真の目的は・・・

日本における新政権樹立 しかも倒幕だねぇ

大政奉還によって覆されては困るのではないか

だって無血じゃ武器が売れないもんねぇ

今までの経緯から倒幕派の主だった人物は必ず彼らと接触している

そして龍馬さんのまわりで不穏な動きをしている 「伊東甲子太郎」

暗殺二日前に龍馬さんのいる近江屋へ 

新撰組に狙われていることを伝えている

伊東甲子太郎は新撰組に罪をきせようとしているようではないか・・・

誰に頼まれているか?

岩倉・大久保と伊東の関係から臭うのだが・・・

そして 当日何故? あっさり龍馬さんはやられてしまったか

海援隊と陸援隊の隊長があっさりやられてしまうのはおかしい

龍馬さんは三日前に薩摩藩の「吉井幸輔」くんからも

危険を伝えられ 近江屋から移動することをすすめられている

吉井は薩摩藩 何かを察知していたのでは・・・ 

吉井は龍馬さんとは仲が良いはず

龍馬さんはそれなりに危機感は絶対あったのだ

しかも ピストルをもっていたにちがいない  でも何故やられた?

当日 現場に駆け付けたのは

Photo_7  Photo_8

          谷 干城                        吉井 幸輔

Photo_13  Photo_14

        田中 光顕                       白峰 駿馬

他 数名いたが 二日間生きていたと言う中岡さんから得た証言は

あやふやで、たいした内容のものではなかった

しかも 谷 干城は今井信郎が暗殺を証言したことを

「おまえごときの  売名行為・・・」とののしっている

終始 新撰組の仕業と目の敵にしている

さらに 陸奥宗光(海援隊)は 事件前三日前に龍馬さんから

情報交換のような不思議な手紙を受けている   

陸奥は事件後 紀州藩のしわざとして 新撰組とも壮絶な斬り合いを

している

陸奥は紀州藩の仕業と思っているが

なぜ伊東甲子太郎の証言を信じ 新撰組の仕業とするか・・・

伊東甲子太郎は龍馬暗殺 三日後に新撰組に暗殺されているが

ちなみに 谷・田中・陸奥 他 彼らはすべて

新政府(明治政府)の要人となっている

田中光顕は陸援隊副隊長 陸奥宗光は海援隊副隊長

後藤象二郎(土佐藩)もそうだが 皆 龍馬さんについての

回想録が無いのは

大きな組織が動いていたから 口をつぐんでしまったのではないか

もしかすると龍馬さんと中岡さんをやったのは

油断するほど身近な人物だったのでは・・・

龍馬さんをやり 真実を知った中岡さんも葬り

ストーリーをつくった手先の伊東甲子太郎も削除した大きな組織とは?

龍馬さん暗殺 約一ヶ月後に王政復古の大号令で

まやかしの錦の御旗を振りかざした あの人物ではないか

恐らく 西郷さんも絶対に知っとった

だから 新政府樹立後 非情な大久保とも対立するんだと

思うよ~

チチとハハは  またお酒がすすんでいるようだ

やるか!

20127212 1 犬援隊

 

 

 

 

 

 

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宮澤賢治と新たな出発

2012-09-02 10:40:07 | 歴史

8月27日(月) 

今日は引越しの日

人(犬)生初の 1年に2度の引越しとなる

仙台西部地区から東部地区へ移ることになるが

冬場の雪はどうなんだろうねぇ

そして何とハハが大好きな宮澤賢治ィの誕生日なんよ~ん

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1896年(明治29年)の この日に今の岩手県花巻市で生まれた

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誕生2ヶ月前の 6月15日には東北三陸地震による津波で

大きな被害を受けた時である

今日はまたもこんな感じで・・・

賢治の生きた時代は 世界中で戦争がおき

地震・津波・不景気・・・天災、貧困で苦しみ悲しむ人々が多くいた時代

そんな人々を見ながら宮澤賢治の世界観がつくられていったのだろう

日本のレオナルドダビンチ(とチチとハハは思ってる)とも言える

賢治が係わった農業 ・ 芸術 ・ 詩と童話 ・ 宇宙と科学 ・ 

信仰と宗教 すべてが賢治の描くドリームランド 「イーハトーブ」の

世界につながっているのかも知れない

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       銀河鉄道の夜                    注文の多い料理店

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     セロ弾きのゴーシュ                    風の又三郎

1931年(昭和6年) 病気がちだった賢治は療養生活中に

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・」を手帳に書きとめている

そして1933年(昭和8年) 9月21日 逝去 享年37

まだまだ若い賢治の最後の年となる この年の3月3日には

昭和三陸沖地震が発生し津波による甚大な被害を受けている

1 2

驚くことに 1923年(大正12年) 1月 妹の病気悪化のため帰郷し

8ヶ月後の9月1日には関東大震災が発生している

賢治の人生に触れ、単なる偶然とは言い切れない

何かを感じざるを得ない 不思議な縁ともいうべきか

因縁でもあるような気がする

チチとハハはもう少し涼しくなったら また 花巻から遠野へ

1泊旅行でもしたいなぁ~と・・・

とにかく今日は宮澤賢治とともに出発、門出の日となりました 土佐ぁ

2012881  ごめんなすってぇ 

Photo_9 イーハトーブ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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岡田以蔵とは・・・

2012-02-17 15:39:36 | 歴史

2月14日(火)

バレンタインデーのこの日は岡田以蔵の誕生日です

この人が誕生していなければ僕の名前も以蔵ではなかったし

人噛み以蔵? は存在しなかったであろう

今回は久しぶりにこんな感じで・・・

岡田以蔵は1838年2月14日 (旧暦 天保9年1月20日)に

土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれた

その地には以蔵を含め、七軒の家が並んでいたので

七軒町と呼ばれていた

それにちなんで土佐勤王党の密書や文書の中には「七以」と出てくるが

どうやらこれは以蔵を示す暗号だったようだ

以蔵は1856年安政3年9月に武市半平太と江戸に出て

江戸の三大道場である「士学館」で剣術を学んでいる

12527

  士学館(中央区銀座1-25-27 桃井道場跡)

 

丁度同じ時に龍馬さんが桶町千葉道場で二度目の剣術修行のため

江戸に来て、武市と築地の土佐藩邸中屋敷で一緒になっている

 

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     桶町千葉定吉道場跡        土佐藩邸中屋敷跡

   (中央区八重洲2-8)          (中央区役所)

 

この時に以蔵と龍馬さんは交流をもったのでは・・・

でも今では、じぇんじぇん情緒がないじゃないですかぁ

 

1861年文久元年に結成された、土佐勤王党にその後加盟するが

血盟書の写しからは、以蔵の名前が削られている

翌1862年文久2年の土佐勤王党と相反した土佐藩参政 吉田東洋の

暗殺以降は、その犯人を捜していた井上佐市郎をはじめとし、天誅と称した

暗殺を繰り返し、京都では「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられていた

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          吉田 東洋

 

1863年文久3年には龍馬さんから頼まれ、幕府から

神戸海軍操練所の運営を任されようとしていた勝先生の

護衛をしている

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  神戸海軍操練所跡(神戸市中央区新港町周辺)

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     勝 海舟(勝 麟太郎)

 

以蔵にとっては一番輝いていた時ではなかったか・・・

その腕を見込んで勝先生は以蔵をジョン万次郎の護衛に

つけたというが定かでない

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     ジョン万次郎(中浜 万次郎)

 

勝先生は武市の以蔵に対する扱いを思い、龍馬さんと同じく武市から

離れるように促すが、頑固な以蔵を引き止めることはできなかった

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          坂本 龍馬

 

1863年文久3年 会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が

長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放したクーデター事件

「八月十八日の政変」以来、土佐勤王党の勢いは衰え

土佐藩では同士がことごとく捕らえられ、武市を除いて厳しく

拷問を受けた

武市はこのままでは以蔵が全てを自白するだろうと思い

以蔵の毒殺を図ったが未遂に終わった

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   武市 半平太(武市 瑞山)

 

武市の裏切りを知った以蔵はこれまで拷問に耐えてきたが

ついに屈し、自分の罪及び天誅に関与した同士の名前を白状し

1865年6月4日 (旧暦 慶応元年5月11日)打ち首となった

頑固で一途だった性格が災いしてか

信じていた人に裏切られた結果であった

その時の辞世の句が

 「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ(は) 澄み渡るべき(空)」

自分のやってきたことを理解し、安泰の世を願ったのだろうか

 

 

土佐を感じて・・・

「よさこい節」

高知の城下に来てみや

じんばも ばんばも よう踊る

鳴子両手に よう踊る~ よう踊る

1.土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た

                             よさこい よさこい

2.御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜

                             よさこい よさこい

3.言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎより

                             よさこい よさこい

 

そして僕のお酒 「夜さ恋」

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Jpeg 以蔵

 

 

 

 

 

 

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そして今日は龍さんの・・・

2011-11-16 19:54:03 | 歴史

11月15日(火)

またこの日が来てしまった

そうです 龍馬さんの誕生日であり、暗殺された日

この日が休日であれば京都霊山護国神社で龍馬祭に参加するのだが

仙台からは一層遠くなってしまった

チチとハハは横須賀の「龍馬におまかせ!」で「夜さ恋」を飲みながら

皆んなと龍馬さんを偲び語りあいたいのだろうが・・・

龍馬暗殺の場所 「近江屋」は河原町にある京阪交通社の前に

その碑はあるが・・・

 

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僕が生まれる前に、すぐ近くの木屋町でチチとハハはよく飲んだらしい

 

2 1_2

この静かな川沿いが何とも情緒があり飲まずにいられないらしい

龍馬さんも高杉さんも新撰組もここを歩いて飲みまくっていたのだろう

それにしても何とも不穏な動きをしている伊東甲子太郎が気になる

今は亡き倒幕派の公家や薩摩藩はどう思っているのだろうか?

龍馬さんが生きていたらTPPはとっくに参加しているのだろうか?・・・

余談だが国会議事堂 中央広間の四隅に銅像がある

 

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伊藤博文、板垣退助、大隈重信   四隅なのに3対?

残す一角には誰が?・・・

いずれも、近代日本の建国と発展に貢献した偉人達である

ここに岩倉・大久保・西郷さんはいない

まして龍馬さんや高杉さんは・・・

2_2 完全にいってしまっている

        高杉晋作

余談だがここで高杉さんの一句

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

これに福岡の野村望東尼(女流歌人)が続けて

「すみなすものは 心なりけり」

つまりこの世を面白いと感じるか、面白くないと感じるかは

心の持ち方次第であると言う意味

病床にあった高杉さんはそれを聞いて「おもしろいのぉ」と言ったあと

息を引き取ったと言われているが・・・

本当に面白いと思ったかは定かでない

高杉さぁ~ん 貴方かなり遊んだはずじゃないですかぁ

震災のあった今年もあと僅か 来年は「龍年」

もっと平穏で大らかに生きたいものだが・・・

 

 

Photo  海援隊

 

 

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日本の夜明け・・・

2011-07-01 02:02:36 | 歴史

1869年6月27日(明治2年5月18日)は箱館戦争終結の日

本当の意味での日本の夜明け・アジアにおける唯一「近代国家の幕開け」の

日になるんです

またまたこんなお話で・・・ あっちっちな梅雨なもんで

慶応3年11月15日(1867年12月10日)に龍馬さんが暗殺されてから

ものすごい勢いで時代が動いていった。

慶応3年12月7日(1868年1月1日)には、龍馬さん暗殺は

いろは丸賠償金の恨みを持つ紀州藩だと疑い、海援隊の陸奥宗光を中心に

15・6人で天満屋に奇襲をかけ、紀州藩士 三浦休太郎を護衛していた

新撰組とも壮絶な斬り合いをした。

Photo_3     Photo_5

         海援隊                      新撰組

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 西部劇にあこがれた陸奥宗光(陸奥 陽之助)  (鞍馬天狗?)

慶応3年12月9日(1868年1月3日)には「王政復古の大号令」により

江戸幕府の廃止とともに明治新政府の樹立が宣言された。

慶応4年1月3~(1868年1月27日)の「鳥羽・伏見の戦い」をかわきりに

戊辰戦争が始まった。

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 錦の御旗

これはあかんと思う!

そして明治元年4月11日(1868年5月3日)には勝先生と西郷さんによって

江戸城の明け渡し(江戸城の無血開城)が行われた。

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   西郷隆盛         勝 海舟

その後の徳川家への処置を不満とした榎本武揚は

軍艦8隻で品川沖を脱走し、仙台を経て蝦夷へ向かった

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     榎本武揚                     蝦夷へ向かう旧幕府 Photo_5

榎本脱走艦隊(左から美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸) くぅ~!

 

その間 上野戦争(彰義隊)・会津戦争(白虎隊) 等を経て

箱館戦争に至った。

明治元年12月15日(1869年1月)には蝦夷地を平定し

旧幕府軍は榎本武揚を総裁とする箱館政権(蝦夷共和国)を樹立した。

Photo_6   Photo

         五稜郭                        箱館政権幹部

何と僕のハハの誕生日ではないですかぁ

「五稜郭」に本陣を置くが、それも虚しく新政府軍の猛攻撃におされていった。

旧幕府軍にいた「鬼の副長」といわれた新撰組の土方歳三も

最後には仏のように優しかったとさ・・・

Photo_7   Photo_2

     土方歳三

そして、1869年6月27日に「五稜郭」を開城  

旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争は終結した。

本当の意味での「日本の夜明け」なんよ~ん

1869年8月6日(明治2年6月29日)戊辰戦争での朝廷側の戦死者を

慰霊するため、大村益次郎により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として

創建されたのが、今の「靖国神社」

龍馬さんは祀られているが、新撰組や彰義隊は祀られていない。 トホホ

しかし、幕末維新によって多くの尊い人材を失ったことを

嘆いてつくった神社であることは間違いない。

皆んな 日本の未来を考えていたのにねぇ

「荒城の月」の歌が身にしみる・・・

 

Photo_11 旭日旗  Jpeg_3 以蔵

 

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澄み渡る空?

2011-06-05 17:59:25 | 歴史

6月4日 (1865 慶応元年5/11)は岡田以蔵の命日です。

そうです。 僕の名前はここから生まれたのです。

人斬り以蔵にちなんで「人噛み以蔵」とは僕のことです。

今回は、岡田以蔵の話を少しさせて下さいまし。

岡田以蔵は土佐に生まれ、龍馬さんの2歳年下になります。

が嫌いな武市さんに誘われて

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    武市半平太

「あっ土佐!勤王党」に入りましたが名簿には載っていません。 Why?

その後、武市さんに頼まれて京都で天誅三昧・・・闇討ちだね!

そんな物騒な時、龍馬さんは神戸海軍操練所ができる前に

1863 3月(文久3年)

岡田以蔵を勝先生の護衛につけたんだねぇ・・・

龍馬さんは武市さんと考えが違ったから

以蔵を心配して、武市さんから離したかったのかもしれない・・・

ジョン万次郎さんの護衛も勝先生に頼まれたりしたり ラジバンダリ・・・

1863 9月(文久3年8月18日)

八月十八日の政変 以降は土佐勤王党も失速し

1864 6月頃 京都で捕まっちゃったんだもんねぇ~ 

勤王党メンバーは皆んな厳しい拷問にあったけど武市さんだけは

大丈夫だったみたい・・・

岡田以蔵の辞世の句に

「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ (は)澄み渡るべき (空)」

とあるが、君とは誰のことだろう?

天皇? 龍馬さん? 武チィ~?・・・

大政奉還・王政復古の大号令まであと2年のこと

今の時代のごたごたにも似てるような・・・

岡田以蔵の純粋孤独で寂しげなイメージが今の人の心にも

共感を得るものがあるのかもしれないなぁ。

岡田以蔵の墓は高知にありますが、今でも多くの人が

献花に訪れるそうです。

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僕は現在のあきれたごたごたをよそに

違いが分かりづらい新しいお布団にすっぽり入り、

スイカを食べる夢を見るのです。

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はっきり言って眠いっす。

Jpeg 以蔵

 

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