天佑堂鍼灸院日記

楽しい体のプロデュース
刺すハリ治療から刺さないハリ治療へ

瞑想と身体

2006年10月24日 10時54分04秒 | 精神世界
最近は瞑想や気功といったことをやる時間がすくなくなった。
それとともに身体がずいぶん世俗的な感じになったなと思う。
瞑想をしていると身体が気体やあるいは細かい粒子のように感じられることが多い。
日常の生活でばたばたしていると身体は固まっていきどろどろとした液体か固体にちかい状態になるように感じる。
老化のせいもあるのだろうが身体がかたくなっている。
身体が硬くなると精神もかたくなってくる。
頑固で融通がきかない、怒りっぽい、不寛容、そのような性質が現われてくる。
硬い精神はさらに身体を硬くさせる。
瞑想は身体と精神の硬さを取り除いてくれる。
しかしいくら瞑想しても自己の執着を取り除かないかぎり、身体の硬さはまた現われてくるようだ。瞑想してもゴミのように身体の一部に残っている硬さを感じる。
私の場合は左の背中にそれがある。
それが私の執着であり欠点と密接に結びついているようだ。
執着を手放すとそれはなくなる。
あきらかに小さくなっていく。
執着が強くなるとそれは大きくなる。
かってこれがほとんどなくなりかけた時期があった。
体調がわるく明日目がさめたら死んでいるのではないかと思っていた時期である。
エゴや執着を持つには体力がいるようである。
それは精神や身体を消耗するからだ。
消耗する体力も気力もなければエゴや執着も持ち得ないことがわかった。
身体はぼろぼろであったが妙な清清しさがあった。
もう全ての思いが消えていきそうに感じた。
だがある一瞬恐さを覚えた。
全部エゴをすてると自分がなくなるのではないか。
瞑想も気功もしたくなくなった。
実際やめた。
それから体調がなぜか回復していった。
なぜかエゴも大きくなっていくのを感じた。
体調が良くなるにつれエゴも大きくなれるようである。
死ぬ時にはおそらく全ての思いを捨てて行かなければならないのだろう。
治療家であることを選択し続ける自分もまたエゴの現われかもしれないと最近思う。
自分の過去の体験やある種の能力にしがみついているだけかもしれないと思うこともある。
過去から自由にそして自分の能力にも知識にも執着せずに生きていくべきなのかもしれない。
実績ができるとどうしても満足とともにエゴが肥大するのを感じる。
少しは誇りも感じる。
それをよりどころにしてしまう。
頑丈な鎧を着込んでいるような感じがする。
じつは何も持たないということはとてもすばらしいことなのだろう。
エゴを大きくする要因がないからだ。
「心の貧しい人は幸いである。」というイエスの言葉を思い出す。
「満足している人はみにくい」とクリシュナムルティは言う。
私はまっさらな状態であることができるであろうか?
昨日に対して死ぬことができるであろうか?