前記にて、いかに私が「西本願寺」(本願寺派)がおおらかなお寺と記載しました。
昔の、寺社仏閣は皆、「性善説」でした。しかし、このすさんだ世の中で、仏像泥棒や賽銭泥棒など罰あたりな人間が出てきました。お寺さんも当然自衛します。しかし、心から、参拝参詣される方が、ほとんどです。
このお寺は、平安時代、第50代「桓武天皇」(平安京遷都、延暦13年)の発願により、「最澄」(諡号・伝教大師)は京都西山の地に「久遠寺」を創建しました。紀元800年前後(延暦年間)のことと思われます。この「久遠寺」が西山別院の前身となりますが、やがて廃れ長らく荒れていた模様です。その寺基を、正和3年(1314年)、本願寺第三代宗主、事実上の本願寺創立者「覚如上人」(1270~1351年)が復興されました。以後「久遠寺」は浄土真宗「念仏の道場」となります。
「覚如上人」ご往生の後はご廟所がつくられ、「久遠寺」は本願寺歴代宗主兼帯所として大切にされてきました。ところが室町期に入ると、「応仁の乱」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20130130が勃発。戦国時代には織田信長との抗争が起きるなど、本願寺に対する法難が相次ぎ、「久遠寺」は騒乱の最中再び荒廃していきました。漸く再興の兆しが見え始めたのは、乱世が終焉を迎え、本願寺の寺基が堀川花屋町に定まり、東西本願寺の分立騒動も落ち着いた頃。第十四代寂如上人先導のもと「久遠寺」の寺地は、徐々に整っていきます。
宝暦6年(1756年)、第17代法如上人の時、本願寺旧本堂(阿弥陀堂)が、新たな本堂造営に伴い、西山の寺地に移築されました。これを機会に、諸堂が次々と建立され、やがて一時は本願寺筆頭別院に列せられるほど、当寺院は興隆しました。
堂内のご本尊です。(合掌)
大正時代、現中央仏教学院の元となる学林が設けられました。その流れを汲み、現在では「浄土真宗」本願寺派僧侶を育成する「得度習礼・教師教修研修道場」と、宗教的情操教育を主眼とする「西山幼稚園」が境内に併設されています。
覚如上人最大のご功績は、本願寺教団を創設されたことにあります。
「覚如上人」は「親鸞聖人」の曾孫に当られ、幼少より容姿端麗、学才に秀でていたといわれます。また、父「覚恵上人」、本願寺第二代「如信上人」、そして「歎異抄」の作者と伝えられる河田の唯円房など、親鸞聖人面授の方々より、他力念仏の深い教化を受けました。
一方その頃、「親鸞聖人」のみ教えは全国に弘まりつつありましたが、同時にみ教えを自己流に解釈し誤った言動をするものも増えていったようです。年若い「覚如上人」はそのような事情を肌で感じ、「親鸞聖人」のみ教えを正しく伝える必要性を実感されたのではないでしょうか。やがて、その思いは本願寺教団の創設へと向かわれます。
「覚如上人」は一体どのようなご事跡を遺されたのか、これより辿ってみます。
この桜真っ盛りの「親鸞聖人」のもとで、子供たちが、鬼ごっこをして遊んでいました。
なお、真宗十派とは、蛇足ながら。
本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)、高田派(専修寺)、仏光寺派(仏光寺)、興正派( 興正寺)、木辺派(錦織寺)、出雲路派(毫摂寺)、誠照寺派(誠照寺)、三門徒派(専照寺)、山元派(證誠寺)の十派に拡がります。
※一部、「本願寺西山別院」様の資料を参考させて頂きました。唐突に、参拝し、本堂にご案内頂いて有難うございました。たまたま、訪れて、ポケットカメラで申し訳有りません。
西京区川島北裏町29
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