かなり以前に「東寺」を記載しました。しかし西寺」は現存しません。
初心に帰り、平安京遷都時のと現在のものと比べた地図を見てから、消え去った「西寺」跡が有ります。「平安京」遷都時の簡単な地図は前記に記載しましたhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110910
延暦13年(794年)代50第「桓武天皇」はわずか10年間で「長岡京」から「和気清麻呂」の進言により「平安京」に遷都しました。「東寺」は現在でも素晴らしい姿で残っています。前記に記載しました。・http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110913
しかし「西寺」は跡かたもなく有りません。その理由もこの「東寺」での記載に詳細に記載し、参照願います。
ただ「西寺」は広々とした、公園に石碑のみ寂しく有ります。
空海(没後、弘法大師)の「東寺」は残り、「守敏」(しゆびん)の「西寺」はこのようにただの石碑だけです。「守敏」も嘆いているかもしれません。
町名だけ残っています。
南区唐橋西寺町
(たわごと) ASEMで憤慨しました。
「野田総理」昨日のアジア欧州会議(ASEM)での、沖縄県・尖閣諸島の発言で少し見直しました。「日本はいかなる紛争や主義主張の違いも、国際法に従い平和なアプローチで克服している事を重視している」と。
蛮国中国は、「明の時代から中国のものと」訳の分からない発言です。その時代は中国ではなかっでは無いか。明のその前の王朝・元の蛮行は。
文禄11年・1274年(文禄の役)と弘安4年・1281年(弘安の役)いわいる「元寇・元軍の日本への襲来」で元軍は、我が国の人達にどのような蛮行を行ったのかを御存じかと思います。
まず、元軍は「対島」を襲撃して、その島の人達を捕え、なんと野蛮な事に、綱が少ないために、この島の人達の手のひらに穴をあけてじゅじゅ繋ぎにして捕えたのです、このような蛮行が有った事を、我が日本国民は知っているのかと思います。それでも、先般の、あの日本企業や日本人への野蛮な行為でも日本国や日本人は冷静に対応しています、勿論、中国から来られた観光客等に野蛮な行為は一切していません。(大人の日本国です)
しかし、いっかんして日本は国際的に「尖閣諸島」は日本国のもので何ら問題ないと冷静に発信し続ける事が必要かと。これは政権が変わっても同じ事です。「元寇」についてもっと言いたい事が有りますが、冷静にこのへんで矛を収めます。少し熱くなりました。
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