「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは? (msn.com)
「日航ジャンボ機墜落事故」が起きた翌日(1985年8月13日)の現場の様子(写真:Haruyoshi Yamaguchi/アフロ)
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8/13/2024
520人の命を奪った航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」は、1985年8月12 日に起きました。事件や事故が起きた直後と時が過ぎた後では、その見え方が違ってきます。新たな証言や関連資料が出てきたり、時間の経過がそれまでの社会通念や固定観念などを拭い去ることがあるからです。
本稿は元日航取締役(技術担当)の松尾芳郎氏への、2020年以降の取材をベースとした木村良一氏の著書『日航・松尾ファイル -日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』より一部抜粋・再構成のうえ、事故が起きた原因への数々の疑問を提示します。
当時の技術部長による手記
航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」のあるファイルを手に入れた。入手のいきさつは後で説明するが、「手に入れた」というよりも「託された」のだと思っている。もちろん、このファイルが外部に出るのは初めてのことである。
【写真を見る】事故後に展示された日航123便の後部圧力隔壁
ファイルは1985(昭和60)年8月12日の墜落事故の発生時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者の松尾芳郎によって書かれ、まとめ上げられた。松尾は事故当時54歳だった。
墜落事故の機体(型式B‐747SR‐100、国籍・登録記号JA8119)が7年前に大阪国際空港(伊丹空港)で起こした「しりもち事故」のときには松尾は技術部長という要職にあり、後部圧力隔壁の修復を含めた機体の修理をアメリカの航空機メーカー、ボーイング社に「すべて任せるべきだ」と進言した人物である。後にこの圧力隔壁の修理ミスが墜落事故の原因に結び付くことになる。
ファイルには松尾が警察と検察に受けた事情聴取の内容が克明に記されている。松尾は群馬県警察特別捜査本部の取り調べが終わると、取り調べの内容やその様子をノートに書き上げ、その日のうちに宿泊先の前橋市内のホテルからファクシミリで東京・丸の内の日本航空の本社に送った。いまと違いパソコンや携帯電話はなく、ファックス、固定電話、郵便が伝達手段だった時代である。
日航ジャンボ機墜落事故の取材でも、新聞社やテレビ局は墜落現場の山中から原稿や写真、映像、音声を送るのにかなり苦労した。無線機を使って送稿、送信しようとしても電波の届きが悪かった。中継の電送車やヘリコプターを配置したが、それでも思うようには送れなかった。
ファイルには墜落事故に関する日航の資料はもちろんのこと、墜落事故に対する松尾自身の意見や考え方、見解も書かれている。日航の内部文書であると同時に松尾の個人的資料でもある。ファイルの大半は松尾の手書きである。
日航123便の後部圧力隔壁(写真は2006年4月19日撮影、書中ではモノクロで掲載:産経新聞社提供)
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松尾は慶應義塾大学工学部機械工学科を卒業して1954(昭和29)年4月に日航整備会社(1963年に日本航空に吸収合併される)に入社し、入社の翌年にはアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校工学部に留学し、復職後は一貫して技術・整備畑を歩んだ日航生え抜きの航空技術者(航空エンジニア)である。
1930(昭和5)年9月30日生まれだから卒寿の90歳を軽く超えている。だが、そんな高齢とはとても思えない活躍ぶりで、IT(情報技術)の知識を駆使して運営するWebサイト(TOKYO EXPRESS)に自らの航空論文を掲載し、時間を見つけては好きなゴルフに打ち込む日々を送っている。
松尾に対する本格的な取材は2022年の春から始めた。新型コロナウイルス感染症が流行を繰り返すなかで、通常だったら高齢の松尾に対する取材は難しいだろう。だが、幸いなことに松尾はパソコンを使う能力にも長けていた。ファイルを繰り返し読みながら、メールで何度もやり取りすることができた。筆者は基本的にメールでの取材は避けているが、今回はメールという現代のツールがとても役に立った。
日航123便の後部胴体の一部(写真は2006年4月19日撮影、書中ではモノクロで掲載:産経新聞社提供)
警察や検察による苛烈な取り調べ
ファイルを読み込むと、任意の事情聴取にもかかわらず、警察や検察が松尾の刑事責任を厳しく追及する様子がよく伝わってくる。群馬県警の取り調べでは「お前」「あんた」と呼ばれ、まるで殺人事件の容疑者のように何度も怒鳴られ、日航の刑事責任を容認するよう強要された。群馬県警の取調官に刑事責任があることを認める供述調書を強引に取られそうになったこともあった。
松尾に対する群馬県警の取り調べは、事故原因を特定した運輸省(現・国土交通省)航空事故調査委員会の事故調査報告書が公表された4カ月後の1987(昭和62)年10月29日から始まった。ファイルにはたとえば、こんなくだりがある。
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〈「警察をなめるな」「俺の言うことがわからないのか」「こんなことでは逮捕勾留しての取り調べもあり得る」〉(1987年11月25日付)
〈「お前は諸規定を自分の都合の良いように説明している」「この調子で警察の言うことを理解しない態度を続けると取り調べはかなり長くなるぞ」「技術部としての責任を認めるべきだ」〉(同年12月9日付)
〈相手(群馬県警)側は時間切れをチラつかせて回答を急がせ、自分たちの意図する方向に調書を作ろうとする態度が見える。まったく油断できない〉(1988年4月27日付)
人権を無視した取り調べ、事情聴取である。松尾に対する事情聴取が始まる前の1987年3月には、群馬県警の取り調べを受けていた元運輸省職員が自殺している。群馬県警の事情聴取は聴取相手を自殺に追い込むほど過酷なものだった。それでも松尾は自分や日航に過失のないことを群馬県警の取調官に繰り返し説明し、決して自らの主張を曲げなかった。
日航、運輸省、ボーイング社の関係者とともに業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検されたが、結果は全員が不起訴で終わっている。群馬県警の取り調べがいかに理不尽だったかがよくわかる。
それにしてもどうして群馬県警はここまで刑事立件にこだわり、やっきになったのか。検察(検察は前橋地検と東京地検の合同捜査)の事情聴取も甘くはなく、厳しいものだった。
修理ミスを認めたボーイング社
警察や検察が松尾の取り調べを始める前にボーイング社は「事故の原因は自社の修理ミスにある」と認めた。ところが、警察と検察は「日航が修理中及び修理終了直後の領収検査で修理ミスを見逃した」「その後の定期検査でも修理ミスによって発生する亀裂(クラック)を見落とした」と判断し、非情な取り調べを続けた。なぜだろうか。捜査の土台となった航空事故調査委員会の調査は的確だったのか。ファイルを読んで感じる大きな疑問である。
1978(昭和53)年6月2日のしりもち事故の後、日本航空はJA8119号機に仮の修理を施し、大阪・伊丹空港から東京・羽田空港に飛ばした。圧力隔壁などが壊れていたので与圧せずに通常より低い高度で飛んだ。
羽田空港に着陸すると、機体を日航のハンガー(格納庫)に運び込み、ボーイング社の修理チームを待った。この空輸には当時、整備本部の技術部長だった松尾もコックピット(操縦室)のオブザーバー・シート(補助席)に座って同乗している。
松尾の進言によって日航はボーイング社の航空技術を信頼し、機体の修理をすべて任せた。ボーイング社の航空技術は世界最高の水準にあると言われていたし、機体はボーイング社が製造したものだった。日航が修理を委託するのは当然だった。
初歩的で単純な修理ミス
しかし、ボーイング社は後部圧力隔壁の修理で、1枚の中継ぎ板を2枚に切断して上部半分と下部半分の接続部の一部にそれぞれ差し込み、結果的にリベットが1列打ちと同じ状態となり、隔壁の強度が落ちた。初歩的で単純なミスだった。
何度も飛行を繰り返す間に金属疲労から多数の亀裂が生じ、隔壁は7年後の飛行で破れた。それが1985(昭和60)年8月12 日に起きた、520人の命を奪った航空史上最悪の日航ジャンボ機墜落事故である。
墜落事故の概要をもう少し説明してみよう。乗客乗員524人を乗せた日航123便(JA8119号機)は、羽田空港を離陸して12分後に「ドーン」という異常音とともに客室内の与圧空気が圧力隔壁の裂け目から一気に吹き出した。
旅客機は地上とほぼ同じ気圧を保って飛行するために客室内は与圧されている。つまり、航空機は風船のように膨らんだ状態で飛ぶ。客室と機体尾部の非与圧空間とを仕切っているのが、大きなお椀の形をした後部圧力隔壁(直径4.56メートル、深さ1.39メートル)だ。
圧力隔壁の裂け目から機体尾部の非与圧空間に吹き出した与圧空気は、上部の垂直尾翼を吹き飛ばすとともに機体をコントロールする4系統すべての油圧装置(ハイドロリック・システム)を破壊した。
機体は操縦不能となった。ドーンという異常音で始まる隔壁の破断から機体尾部の破壊まで1秒もかかっていない。破断、破壊は瞬間的に起きていた。それだけ与圧空気の力は強く、すさまじかった。
コックピットの機長や副操縦士たちは何が起きたかわからず、32分間、機体を激しく上下左右に揺さぶられながら迷走飛行を強いられた末、午後6時56分過ぎ、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。
なぜ世界最高の高度な技術を持つボーイング社の修理チームが初歩的な修理ミスを犯したのだろうか。圧力隔壁の修理はしりもち事故で壊れた下半分を新品と交換して既存の上半分に接合するもので、ボーイング社の修理チームにとっては簡単な作業だった。板金加工並みの単純な仕事である。
羽田空港の作業現場でアメリカ連邦航空局(Federal Aviation Administration=FAA)の認定資格を持つ、ボーイング社の技術者(エンジニア)が作業員(メカニック)に出した作業指示・記録書(Field Rework Record=FRR)は間違ってはいなかった。だが、作業員は指示通りに修理をしなかった。なぜ指示通りに作業をしなかったのだろうか。
修理ミスを犯した背景の説明はなし
日本航空はボーイング社を信頼して契約を結んで修理を依頼した。ボーイング社にとって日航は顧客である。日航は大切なお得意さまだ。それにもかかわらず、日航は裏切られた。もちろん日航に安全運航上の義務や責任はあるが、日航・松尾ファイルを読み進むと、ジャンボ機墜落事故の責任は全面的にボーイング社にあることがわかってくる。
日航は本当に加害者なのか。被害者ではないのか。どうして日航はボーイング社に対し、訴訟を起こさなかったのだろうか。
ボーイング社はジャンボ機墜落事故の1カ月後にしりもち事故の修理ミスが事故原因であることを認めた。JA8119号機だけの固有の問題にとどめたかったからだろう。ただし、修理ミスが事故原因だと認めてもボーイング社はその修理ミスがどうして起きたかについて背景を含めこの40年近く、何も明らかにしていない。
問題の修理ミスは修理作業の過程でどのように起きたのだろうか。後部圧力隔壁の上半分と下半分をつなぎ合わせる際、接合面の一部分が不足して1枚の中継ぎ板を使う指示が出された。だが、作業員はこの中継ぎ板を2つに切り分けて使用した。そのために強度不足が生じた。なぜそんな作業をしたのか。ボーイング社は当然、修理ミスが起きた原因を究明・検証したと思うが、どうしてその内容をつぶさに日本側に伝えなかったのか。
ボーイング社だけではない。アメリカの司法当局も日本の警察や検察の国際捜査共助の求めに応じなかった。元首相の田中角栄を逮捕したロッキード事件のときには、アメリカは日本の求めに応じて嘱託尋問まで行った。それなのになぜ、日航ジャンボ機墜落事故では日本側の捜査共助の要請を断ったのだろうか。政治・外交レベルでの日本とアメリカの関係はどのようなものだったのかも考える必要がある。
ここまでざっと考えただけでも疑問が次々と湧いてくる。