答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』(西部邁)を読む

2018年02月10日 | 読む(たまに)観る

 

わたしは「本の帯」を捨てる人である。その本がどのようなものであれほぼ例外なく、本が手に入ってまずすることは、帯を外してくしゃくしゃっと丸めゴミ箱に捨てることだ(さすがに、友人が著した書についていた帯は捨てるのが忍びなく、そのままにしてますが)。

さて、西部邁さんの遺作『保守の真髄』である。いつものように帯に手をかけ一瞬躊躇、「さて・・・」と2~3秒考えたあと帯を外すのはやめておくことにした。一面識もない御仁とはいえ、つい20日ほど前に自裁した人の遺作だ。しかも、自裁を選択する確信を持って著述したという意味で真の遺作だ。なおかつ、その思想が少なからずわたしに影響を与えているであろうその人が笑顔で写った帯だ。くしゃくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てるのは、いくらなんでも気がひける。「冷たい人ね」と言われたことは数々あるが、そんな振るまいができるほど冷たくもないしドライにできてもいない。

ということで、帯をつけたまま『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』(西部邁)を読む。

 

保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱 (講談社現代新書)
西部邁
講談社

 

 情報や技術におけるシステミズムが支配的となり、人々がまるでロボットやサイボーグのように働く現代にあっては、このような死活の覚悟というものは不可能なのであろうか。それを不可能と諦めるものたちをマス(大量人)と呼んできたわけだから、問われるべきは、人間がマスマンになるのは避けえざる成り行きなのか、ということについてだ。

 ここで不可避の事態にディステニィ(運命)とフェイト(宿命)の別があることに注目せざるをえない。前者の運命は法則的な必然にかられて進む事態のことを指すが、後者の宿命のほうはそれを避けようとする努力にもかかわらずその努力を無効に終わらせる(予測不能の)強い社会力学が隠伏するという形でのアブサーディティ(不条理)がはたらいていた、という顛末のことを指す。で、宿命にあっては努力が実を結ばなかったことについてのペーソス(悲哀)の感情が伴う。そうした悲哀の感情こそが人間の生涯や社会の時代を物語として構成する決定的な要素なのだと思われる。

 よく人間の感情のことを総まとめにして喜怒哀楽などといわれるが、語り継ぐに最も値するのは「哀しみ」の感情ではないだろうか。人は必ず死ぬ。時代は必ず変わる。その避けようのない行程の中で、何かを求めて何事も得ずに死んでいく人々の厖大な思い出の数々、それが歴史を支えるのである。情報・技術のシステムがそれらの思い出をローラーにかけて粉々にし、人生の凹凸を平坦に均す時代であればこそ、心あるものは思い出の襞の一つひとつにあえて分け入っていかなければ、「紊乱の時代」を超えることなどできはしない相談なのだ。(P.253~254)

 

ふ~。

今さらながら、そして如何にも、ではあるけれど、この人が著したものをもう2~3冊読んでみようかなどと思いつつ本を閉じる冬雨の朝。

 

 

 

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