買ったはいいがその厚さにおじけづいて、ひと文字も読みだせずにいた『新復興論』(小松理虔)を読みはじめたのは、朝まだきに目が覚めたからだった。
時間はある。
よしっ、あいつを読むぞ。
起動のキッカケは、たいていの場合、そのような他愛のないものだ。
新復興論 (ゲンロン叢書) | |
小松理虔 | |
株式会社ゲンロン |
読みはじめるなり、すぐに引きこまれた。
「どうしてこんなおもしろいものをほっぽっておいたのだろう?」と苦笑いしつつ、「それが積ん読というもんだ」と開きなおって読みすすめる。
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放射線技師や物理学者のように、誰もが正しく放射能を捉えられるわけではない。私たち福島県民は必要に迫られて放射性物質について色々詳しく調べたかもしれないが、それと同等の知識を別の誰かに求めるのは酷というものだ。放射能に関する不安が「情緒的問題」であることを受け止めたうえで、情報発信のあり方を見直すことからしか問題は解決しないように思う。
多くの識者が指摘するように、正しい情報を発信するというのは大前提だろう。ただ、これだけに囚われると硬直化してしまう。(P.058)
正しい情報だけでは人は動かない。人の心が動くのは「おいしい」や「面白い」や「楽しい」と相場が決まっている。(P.058)
ほとんどの消費者は、科学的なデータを専門家のように理解して商品を買っているわけではない。ぼんやり大丈夫だと思っているから買っているのではないだろうか。不安だと思っている人の大半も、実は「なんとなく」不安だったりする。「なんとなく不安」は情緒的な問題なのだから、情緒的な体験がきっかけになって「なんとなく安心」に変わり得る。(P.059)
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楽しくなければ活動は長続きしない。復興のため、福島の漁業のためなどと大義を掲げていたら、いつかその活動はつまらなくなり、やらされるものになってしまう。福島県は、震災後、急速に「まじめなこと」をしなければいけなくなった。学生たちは復興に動員され、いつの間にかふるさとへの思いを搾取されながら、「復興」というよく分からないものに向き合わされている。
(略)楽しくなければ誰も関わってくれない。おいしくなければ口にしてもらえない。面白くなければ興味すら持ってもらえない。そのようなポジティブな動員でなければ、廃炉を見届けるだけの持続性も生まれない。(略)
今この狭いフクシマに閉じ込められていたのでは、時間的にも、空間的にも外部に声を伝えることはできない。ふまじめな動機こそ、今このフクシマを突破できる力になるはずだと、2013年の私たちは心のどこかで直感していたのではないか。(P.084)
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ふむふむナルホド、へ~そうなんだ、と読みすすめるうちに、あっというまに100ページ以上まで進んだ。
『新復興論』という名の本を読んでいながら、われとわが身、わたしとわたしの環境の情報発信のあり方について思いはめぐり、「まじめ」に「ふまじめ」を考える、弥生3月二日目の朝。
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