答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

イッツ・ア・TTPMワールド2019

2019年04月30日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

今年度に入り、いくつかの企業を訪れた。どこも、それぞれの分野で先進企業だとされているところだ。もちろん実際の見聞と聞き取りの結果で判断しても各社ともそうであり、いかにTTPM(イテキニクッテネル)の実践者であるわたしだとて、「こりゃおいそれとはマネできないな」と感じたことだった。とはいえそれはそれとして、わたしがもっとも感じ入ったのは、その部分(いわゆる情報化施工)ではなく、そのなかの一社の組織内にただよう良質な「空気」だった。

ひと言であらわすと、ふんい気がよいのである。

結局のところ、もっともパクってマネたいと思ったのは、そこのところだった。

ハードは金さえ出せば揃えられる(実際にそんな思い切った投資ができるかどうかというのは別として)。それを使いこなすには困難がともなうにしても、それを切り拓いた人たちのような労苦はない。パイオニアが悪戦苦闘のうえに生み出した産物を模倣するのは、その数倍も易しい(だとしても、結局はマネできないのがよくあるパターンだったりするのはおいといて)。学ぶべきだと思い定めた対象のようにはなれなくとも、自らの「言語」への「翻訳」と自らの組織への「土着化」というプロセスを踏みさえすれば(それがまたとんでもなく困難だということもおいといて)、そしてあきらめさえしなければ、「ある程度」はなんとかなる。

しかし、その良質な「空気」は、マネようとしてもおいそれとマネができるものではない。

一千万円のレーザースキャナとか一千ウン百万円のICT建機とか、そこまで巨額ではないにしても、ウン十万円のアプリケーションだとか、そういう具体的なものがないからだ。

なにせ相手は「空気」である。

だからこそ模倣したい。

だからこそ見習いたい。

そのためにはどうしたらよいのか。

「まずはカタチから」だろう。

いやいやそれは「仏つくって魂入れず」だろう、皮相の模倣から本質へたどり着くことはできないよ、とお思いのソコのアナタは、まことにもって正しいのかもしれない。しかしわたしは、「仏つくって魂入れず」ならぬ「仏(像)をつくったら魂はあとからついてくる(かもしれない)」、という戦術を今にいたるまで一環して採用しつづけてきた。

凡才にはそれしか方策が見当たらなかったからだ。

そこからしか突破口を見つけることができなかったからだ。

「翻訳」と「土着化」のプロセスさえあれば、

「固有(のようなもの)」を身につけることができ得るのを体験的に知ったからだ。

さて、どうしてくれようか・・・


とはいえその行先は、今あらたに目指すものではなく、これまで指標としてきたものと同じかもしくはその延長線上にある。企業人としてのわたしの老い先は短いが(たぶん)、この取り組みの行く末は長い(たぶん)。

とりあえずは、ふたたびみたびよたびとテッテイテキニパクッテマネル。

もちろんその対象はくだんの一社だけではなく、訪問させていただいた数社すべての「わたしとわたしの環境」にマッチングするであろうネタをパクッテマネル。そして必要とあらば、それらをフュージョンさせる。

イッツ・ア・TTPMワールド2019、はじまりはじまり。

 

 


 

 

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ブログを書く日々 2019晩春

2019年04月29日 | オヤジの情報発信修業

その内容は置いとくとして、とにもかくにも54日間連続で更新をつづけていた当ブログだが、ちょっとばかり油断をした土曜日、とうとう更新がとぎれてしまった。

そうなるとおもしろいもので、次の日にはもう、更新しようという意地も意欲もまったくなくなり、「まあ、ながいあいだやってりゃあそんなこともあるさ」とほとんどあきらめかけていた気持ちをなんとか立て直して、きのうの稿をアップロード、ギリギリセーフだ。

いかんせん、根が怠惰にできているゆえに、気を許せばだらだらずるずるとどこまでも怠けてしまう危険性がいつも潜んでいる。それがわたしの「ブログを書く」日々である。

そんなこんなをつづけながら、かれこれ11年という月日が過ぎた。

われながらよくもったなというのが実感だ。サイト開設当初は、「なにがなんでも5年」という目標でつづけた。11年が経過してみればたかだか5年にすぎないのだが、そのときには、自分が本当にそんなことをできるのか、半信半疑だった。目標の5年が過ぎるころになると、ある程度のコツもつかめたし書くことにも慣れた。「次は10年だ」というほどの気負いはなくなったが、「つづけなければならない」という意思は保ちつづけていた。

そして今だ。

近ごろでは、これからは「やめる」を意識しながらつづけていくことが必要だろう、と思いはじめている。

「つづける」という選択はする。

それはしかし、「やめる」を前提にした「つづける」だ。

これまでは、「つづける=やめない」だったが、これからは「やめるまでつづける」だ。

自らの手で幕を下ろすまで「つづける」だ。

だからといって、「ほぼ毎日である必要はない」というスタンスは採用しない。「ほぼ毎日」はこれまでどおりだ。そうでないと、根っこの部分で怠惰な心性がうずまいているわたしのことだ。ずるずるとジ・エンドというザマになりかねない。それだけはなんとしても避けたい。だからこれからも「ほぼ毎日」更新する。よかったら、今しばらくお付き合い願いたい。


 

 

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ある情報発信

2019年04月28日 | オヤジの情報発信修業

寿建設社長ブログ(4月25日)に載っていた福島民報読者投稿欄の小文。

https://ameblo.jp/kotobuki5430511/entry-12456679161.html

・・・・・・・
先日の「あぶくま抄」に、県庁裏の天神橋橋脚耐震補強工事のことが書かれていた。私はたまに、あの橋上を歩くことがあり、工事の様子を興味深く見てきた。
大きな川の流れ止めずに、足場となる頑強な作業橋を設け、一つの工場のように巨大なクレーンや更迭(文章ママ)、溶接用ボンベなどが立ち並ぶ。私は作業する人々が粛々と働く姿を見下ろしてきた。
真冬日も休んでいなかった。そんな苦労を知らず、私たちは当たり前のように橋を往来してきた。
ある時、堤防で作業関係者らしい人と出会い、「こんにちは」とあいさつしたら、温かなあいさつが返ってきた。「寒い中、大変ですね」と言うと、「皆さんにお世話になって、仕事を頂いていますから」とのことだった。
家族と離れ、知らない土地で謙虚に真面目に働いていることがうかがえた。「きっとこの職場は、いい職場なんだろうな」と、寒風の中、心はほのぼのとなって帰ってきた。安全に、無事に工事が終了することを祈った。
・・・・・・・

あるときは、

「今という時代の土木技術者にとって情報を発信するということはモノづくりと同列でなければならない」

またあるときは、

「なんだかよくわからないものから脱却するためには自ら情報を発信しなければならない」

と、どこからも誰からも頼まれてもいないにもかかわらず、同業者に対してそう説きつづけて十年以上が過ぎた。「情報を発信せよ」というわたしの言葉に呼応するのは簡単だが、それをやりつづけるのにはかなりの困難がともなうということを承知しつつ、バカの一つ覚えのように言いつづけてきた。
そんなわたしが、

「あゝ・・・」

「そこか・・・」

感じ入ったのは以下の部分だ。

・・・・・・・

ある時、堤防で作業関係者らしい人と出会い、「こんにちは」とあいさつしたら、温かなあいさつが返ってきた。「寒い中、大変ですね」と言うと、「皆さんにお世話になって、仕事を頂いていますから」とのことだった。

・・・・・・・

「情報発信」とかまえるとハードルは高い。

だが、地域の人や通りすがりの人と交わすあいさつや短い言葉のやりとりもまた、立派な「情報発信」なのだと気づかされた。もちろん、投稿の主さんの心を打ったのは、そのときその場の言葉のやり取りだけではなく、それまで彼女が見てきた現場の掲示物その他の「伝える姿勢」が下地となってあることはまちがいがない。とはいえ、くだんの言葉のやりとりがなければ、わざわざ稿を投じるまでの想いを持つに至ったかどうか。


気づいてみれば今さらではある。

辺境の土木屋61歳と4ヶ月、

まだまだだな。

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オジさん、あがく。

2019年04月26日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

きのうは愛車二代目マルモッタン号に4人が乗り、峠越えでお隣りの県へ。

一夜明けた今朝は、一日じゅうパソコンとにらめっこしていたせいで、歯が疼き目は眩んでいる。

それでもやらなければならない。なんとなれば、おじさんにはおじさんの、爺さんには爺さんの役割があるからだ。「いやいやソレはもっともだけど、ソノ分野は範囲外ではないのかい?」とおっしゃる向きもいるだろう。だが、わたしは明確にそれを否定する。

おじさんだから・・

あるいは、

爺さんだから・・

と嘆く前に、あきらめる前に、あがいてみるべきだ。

おじさんだから適応できない、あるいは、爺さんだから適応できないのではなく、あたらしいことにチャレンジしようとしないから適応できない。つまり、あたらしいことにチャレンジできないおじさんだから、もしくは、あたらしいことにチャレンジできない爺さんだから適応できないのだ。たしかに、年寄りになればなるほど「あたらしいこと」への適応力は鈍る(あくまで一般的には、です)。しかしそれは、「やらない」あるいは「やりたくない」ことの免罪符とはなり得ない。なぜならば、そもそも仕事というものがそうであるからだ。仕事を覚えるプロセスには変化がつきものだ。仕事のやり方を進化させる過程でもそれは同様だ。であれば、加齢やそれにともなう脳と身体の劣化を言い訳にしてそれを放棄するのは、ココロもまた劣化していることの証明に他ならない。たしかに、脳や身体は劣化する。だからといって、ココロが萎えてしまっては、年寄りの年寄りたる意義がなくなってしまう。

あたらしいことにチャレンジしつづけるおじさんは、そして、あたらしいことにチャレンジしつづける爺さんは、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた過去から得た「引き出し」の蓄積と、その繰り返しからでしか生まれない「経験と勘」がある分、強いのだし、若い人には見え難いものが見えてくる。

とりあえずはいくつになってもあがく。

歯は疼き目は眩む。

肩は痛いし首も痛い。

それでも、わが身を叱咤激励しながらあがく。

そのうえで、年寄りは年寄りの役割を選択すればよいのだ。


と、気づいてみると、不特定多数の高齢技術者に向けて書いていたつもりの文章が、いつのまにかその対象はあきらかに自分自身になっていた。一夜明けてもまだ興奮冷めやらぬオジさんなのである(今日も行くケドネ)。

 

それはさておきなにはともあれ、あつかましい一方的な願い事をオープンマインド全開で受け入れてくれた先方さんには感謝感謝なのであります。ありがとうございます(って、さておいてないじゃないか ^ ^)。


さて、行くとするか。



 

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結婚について

2019年04月25日 | ちょっと考えたこと

昨夜のこと、「結婚について」語った。女房殿とである。いやほとんど一方的にわたしがしゃべっていたのだから、正しく表現すると「女房殿に」である。その数日前、ある未婚者に「結婚しないのか?」と問い、「しないといけないですか?」と面倒くさそうに逆質問をされ、「別に、したくないんだったらしなくてもいいんじゃないか」と返事をしたことが、そのベースにあった。
語ったのはこんな内容だ。

そりゃ赤の他人だった人といっしょに暮らして、子どもが生まれて、その子どもを育てていくうちには、めんどくさいことやつらいことがたくさんあって、どちらが多いかといえば楽しいことよりしんどいことのほうが多いのかもしれないが、
娘1号と
娘2号と
息子1号と
彼彼女らが存在しているという事実をとってみただけでオレたちがいっしょになった意味はあったのだし、かてて加えて、
孫1号と
孫2号と
彼らがこの世に生きているというその事実は、オレたちが結婚していなければ今ここにあり得ない。
たしかにそれは、「結婚」という行為や形態の一側面をあらわしているにすぎないんだろうけれど、
それでじゅうぶんじゃないか。

生み、育て、育ちを助け、その繰り返しのなかから多くのことを学び、自分たちも成長し、成熟していく。
それはけっして自己満足であってはならないし、彼彼女らがどう考えているかを無視している分、手前勝手な言い草なのかもしれないが、そう思うのだ。
楽あり苦あり、「苦楽を共にする」とは単純な表現だが、なかなかに奥深い。当事者は大真面目で泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりをしているが、はたからみれば珍道中以外のなにものでもないだろう旅だ。それをして、「めんどくさい」と言われれば、「たしかにそのとおりです」と答えるしかないが、そうそう捨てたものではない。
オジさんはそう思う。

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雨の夜に

2019年04月24日 | ちょっと考えたこと

主体的に関わろうとすればときとしてつらい。

主体的に関わるという行為は、その結果起こったことや起こるかもしれないことを、自分で背負いこむことでもあるからだ。

一方、「主体的に関わろうとしない人」は他人のせいにする。お気楽なものだ。

かといって、「主体的に関わろうとする人」が「主体的に関わろうとしない人」に比べて格段にデキがよいかというと、おもしろいことにそれがそうでもない。もちろん、わたしに言わせれば、人間としてのデキは圧倒的に前者に軍配があがるのだが、主体的に関わろうとするかそうでないかは、わたしがどう思おうと、渡る世間が評するところの人間の出来不出来とは別の次元のものらしい。

そして、「主体的に関わろうとする人間」はよく失敗をする。アクティブな分、踏み出すという母数が多くなるため、ミスを犯すという子数がその分だけ増えてしまう(それはオマエが粗忽なだけじゃねえかよ、という指摘は甘んじて受ける。当たらずといえども遠からずだ)。で、その失敗を「主体的に関わろうとしない人」がソレ見たことかと嘲笑う。


このあと十数行書いてキーボードを打つ手を止める。

そして、しばし天井をあおぐ。

ふ〜、いけねえいけねえヤバイヤバイ。

とんでもなくネガティブ思考にからめとられていたことをちょっとばかり反省。

いや大いに反省。

なにより言い訳めいたことを書きすすめた自分に反省し、ポジティブな終結を図ろうとしたが、どうにもうまくいかない。そうとなれば即断即決、その十数行をデリートキーの一撃で抹殺した。

あしたはあらたな学びを求めて隣県の先達を訪れる。どうせ学ぶならあかるくたのしくポジティブにだ。その前の夜だもの、ネガティブであってよいはずはない。とはいえ、ポジティブに針が振れすぎて、呑みすぎには要注意だ。

ちなみに、念のためにひと言申し添えておくが、仕事上の何がしかがキッカケでそうなったのではないので悪しからず。

では。



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2019年の初睡蓮 ~ モネの庭から(その350)

2019年04月23日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

フジの花が咲くとクマバチが大量に寄ってくる。なにせその羽音はあの大音量だし、図体がまたデカイときている。太鼓橋を渡る人たちが首をすくめておっかなびっくり通るのもとうぜんだ。しかし、このクマバチというやつ、どうやら人間にはまったく興味がないようで、ただひたすらフジの花びらに顔をつっこんでは離れを繰り返しているだけだ。

それがわかるとどおってことはない。

むしろそのいかにも凶暴そうな風体が、かわいらしげにさえ見えてくる。

何ごとも気の持ちようなのである。

そんな太鼓橋から池の奥をのぞむ。

 



 

 

2019初睡蓮だ。

例年のようにまずは赤から。うん、めでたしめでたし・・・と言いたいところだが、池のなかには無粋なオヤジが。






他のお客さんとの会話を聞くと、どうやらテレビ関係者のようだ。ソロリソロリと動いてはいるが、とうぜんのこと、水は濁る。池を愛でにやってくるお客さんにとって濁りは致命的だ。ましてや池の中に無粋なおっさんがいるなどと・・・、もちろん許可をとったうえで入っているのだろうが、許可するほうも悪いし、開園時間中に池の中に入って撮影するほうもあつかましい。なによりお客さんに失礼だ。業務の片手間に池をのぞくわたしのような者のことなぞはどうでもよいが、わざわざ足を運び入園料を払って庭に来てくれるお客さんのことを考えたら、どうすればよいかは簡単なことだ。現に庭師たちが池に入るのは、お客さんがいないときに限っているのだし。

たしかに、池の中でなければ撮れない映像はあるだろう。だがそれは、テレビ局側の手前勝手な理由だし、初睡蓮をPRしてほしいからといってそれを許すのはいかがなものか。お客さんは汀の植え込みにさえ入ることができないのだ。少なくとも開園中であれば、一般のお客さんと同じ条件で撮るべきだろうとわたしは思う。

な~んてことをぶつくさ独りごちながら池のまわりを歩いた。

ともあれ、2019年の初睡蓮だ。

 

 

 

 

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定例会のアジェンダ

2019年04月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

こんなのをつくって掲示してみた。

 

 

ネタ元はここだ。

 

予定通り進まないプロジェクトの進め方
前田考歩,後藤洋平
宣伝会議

 

少しアレンジしてある。「定例会」とは週末の会議と月初の会議を指す。「アジェンダ」なんて横文字を使っているところが少しばかり姑息だが、そこはそれ、愛橋だ。

会を開くたびに、脊髄反射的思いつきで話や質問がアッチへ行ったりコッチへ来たりするわたし自身の交通整理をするのが主たる目的だったが、どうせなら参加者全員に共通認識として持っておいてもらおうと、「アジェンダ」にした。

ついでに現場担当者のセルフマネジメントおよびマネジャーのチェック用にと「現場の段取りシート」というものをつくった(これはまだβ版ですが)。


「信頼せよ、されど検証せよ」

またぞろそんな言葉がぐるぐると、アタマのなかを歩き回っている。

「(自分自身を)信頼せよ、されど(自分自身を)検証せよ」

「(組織のなかの他者を)信頼せよ、されど(組織のなかの他者を)検証せよ」


目指すところはコミュニケーション&コラボレーション。いつになってもそこのところは変わらない。いつになっても変わらないということは、いつになっても達成できてないということの裏返しでもあろうが、これだけは断じて言える。

進化中だ。

退化はしてない。

今日までそして明日から。

 

 

 

 

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上機嫌

2019年04月20日 | ちょっと考えたこと

「最低の上司」とは「いつも不機嫌で声をかけづらい」上司なのだそうな。

ネタ元はここだ。

 

外資系コンサルが教えるプロジェクトマネジメント
山口周
大和書房

・・・・・・

 リーダーがいつも上機嫌であれば、メンバーは悩みごとの相談もしやすいはずです。悩みごとを早めに共有することは大きなトラブルを未然に防ぐことにつながるでしょう。

 あるいはちょっと思いついたアイデアを口に出してみるかもしれません。不機嫌そうなリーダーの前で荒唐無稽なアイデアを口に出せばどんな叱責を受けるかわかりません。

 結局のところ、上機嫌なリーダーが率いるチームではメンバー相互間、あるいはメンバーとリーダーとの間での情報量が増加するのです。

 プロジェクトをあずかるリーダーであれば、いつも上機嫌でいることを心がけましょう。

(Kindleの位置No.1826あたり)

・・・・・・

 

今日もまたココロがイタイ。

「なんだか近ごろのオレの顔、以前にも増して不機嫌そうだよな」と自覚していたからだ。

そんなもんだから、毎日の朝会にのぞむにあたっては、「への字」に結んでいる口を意識したそのときは、にわかに口角を引き上げたあといったんクシャクシャっと顔を崩すという「ひとり顔面マッサージ」を施すようにしていた。

そんなところへもってきて、くだんのような文章を読んでしまったのだ。

ココロがイタイのも、むべなるかな。

イタくて笑ってしまうのまたしかりだ。

今に始まったことではない。このテーマに関してはずっと意識して考えてきたことだ。ここでも触れたことがあるはずだ。あれはたしか内田樹さんだったはず・・・と、「上機嫌」というキーワードでブログ内検索をかけてみると、何度かそれについて書いていた。ときには玄侑宗久さん、ときには齋藤孝さん、そして内田樹さん、それぞれが書いたテクストに触発され、「不機嫌な自分」あるいは「不機嫌そうに見える自分」をどうにかしようと試みている。

↓↓

上機嫌のすすめ

「上機嫌の作法」(齋藤孝)を読む不機嫌なわたし

「上機嫌を技として身につける」、ってどういうふうにだ?

上機嫌に働く

 

それでいてもなお、この期におよんでなお、「ココロがイタイ」などと口走るのは、「あいもかわらず代わり映えがしない」ということの証左に他ならない。ああ・・・

などと考えていると、「実行できない反省などやめてしまえ」と別のわたしが叱る。

まったくそのとおりだ。


かくして、「ロード・オブ・ザ・正しいオジさん」はつづいていく

たぶん死ぬまでだ。

トホっ。



 

 

 

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あたりかまわずマウンティング

2019年04月19日 | ちょっと考えたこと

おもしろい表現に出会った。

「あたりかまわずマウンティング」という言葉だ。

出典はここ。

 

予定通り進まないプロジェクトの進め方
前田考歩,後藤洋平
宣伝会議

 

・・・・・・

たいていの場合、人は先のことを見ようとせずに、目の前のタスクのことに終始する「木を見て森を見ず」の行動、あるいは「あたりかまわずマウンティング」の行動をとってしまいがちです。これらの行動は、プロジェクトそのものの空中分解につながりかねません。

「木を見て森を見ず」や「あたりかまわずマウンティング」と書きましたが、これは多くの場合、良かれと思っての行動です。さらに言えば、自ら課題を発見し、率先してこれにあたるという、リーダーシップの発露と表裏一体の行動です。ただこれが、時と場合を間違えると、せっかくのリーダーシップが、全体からすると単なるはた迷惑になってしまう。それがプロジェクトマネジメントというものの繊細さだ、とも言えます。(P.055)

・・・・・・

マウンティングとは・・、言わずもがなだが確認しておこう。

・・・・・・

(以下『大辞林第三版』より)

マウンティング[mounting]

サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。動物社会における順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする。馬乗り行為。

・・・・・・

いつのころからかそれが転じて、人間関係で自分が優位であることを示そうとする行為もマウンティングと呼ぶようになった。

それにしても、「あたりかまわずマウンティング」とは言い得て妙だ。

言い得て妙すぎて、胸のあたりがイタくなり、辛くていたたまれなくなるわたしがいる。

いかに著者が「自ら課題を発見し、率先してこれにあたるという、リーダーシップの発露と表裏一体の行動」と評価してくれようと、それが「あたりかまわずマウンティング」の免罪符となるわけはもなく、スキあらば「あたりかまわずマウンティング」しまくっていた過去を帳消しにしてくれるわけでもない。もちろんこの文脈では、「せっかくのリーダーシップが、全体からすると単なるはた迷惑になってしまう」が主眼であり、むしろ「リーダーシップの発露と表裏一体の行動」だからこそ、その行為は「イタイ」のだとも読みとれる。

いやいやいくらなんでも、今のわたしが「しまくっている」わけではないし、それほど愚かなわけでもない。反省すべきところは反省し、その反省にもとづいてわがふりをあらためた(つもりだ)。

そう、「つもり」だ。

とはいえそれは、あくまでもわたしの「つもり」であって、実際がどうなのか、本人が思っているほどあらたまってはいないのかもしれない。何度も引いて恐縮だが、それこそ自ら課題を発見し、率先してこれにあたるという、リーダーシップの発露と表裏一体の行動」として、ついついマウンティング(のようなもの)になっている場合が多々あると、自分自身で思い当たらないでもない。

「なんだい、やってるんじゃねえかよ!ww」と笑わないでほしい。

こうやって書いているあいだにつらつら思い起こしていると、たしかにやってはいる。それはマチガイのないところだと認める。だが・・・

少なくとも「あたりかまわず」ではない。

いや、「あたりかまわず」ではないと思う。

いやいや、「あたりかまわず」ではなくしたい。

いやいやいや・・・・・


 

おもしろい表現に出会った。

「あたりかまわずマウンティング」という言葉だ。

胸がイタイ。

イタすぎて笑った。

 


 

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