答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

道の選択

2024年08月07日 | ちょっと考えたこと

道はたくさんあります。
そして、どの道を選ぶかは人それぞれです。

たとえばAとB、ふたりの人間がいて、おなじ環境おなじシチュエーションに置かれていたとして、おなじ道を歩くとはかぎりません。そこには必ず、〈選択〉という行為があり、選ぶ主体の好みや考え方などが反映されます。

「いや、オレには選択肢はなかった」
とおっしゃる人は数多いかもしれません。
たしかに、選ばざるを得なかったというのは、世の中の多くの局面であり得ることです。しかし、そこにも必ず〈選択〉という行為はあったはずです。そしてその行動の主体は、まぎれもないその人自身なのです。であれば、最後は自身が〈選択〉をしている。少なくとも、その理を無視して、そうせざるを得なかったことに大きく影響をおよぼした他人や環境に責任を押しかぶせるのが、筋ちがいであることは承知しておくべきです。

いやいや、「だから結果はすべて〈自己責任〉なのだ」という論を展開したいのではありません。たしかに、責任を自己に収れんする態度や心持ちは重要です。自分の選択を他者の責のみのせいにするという行為をつづけていると、脳と心は徐々にその考えにむしばまれ、侵略されていくからです。
しかしぼくは、多くの場合でいわゆる〈自己責任論〉には与しない。そうであるからこそ、他者に対しては、「自分でやったことはどこまでいっても自分の責任でしかないでしょうよ」という姿勢でのぞむべきではないと思うからです。

しかし、〈選択〉したという事実から目をそむけてはなりません。たとえ否応なしに選ばざるを得なかったとしても、そこには自分の関与があった。これは事実です。それを承知して、そこを起点として考え、行動し、先へ進む。もちろん、進まないという手もあるでしょう。〈沈黙〉や〈停止〉が〈行動〉を意味する場合もないではありません。

といっても、悩みのすべてをひとりで抱えこんで、ひとりで選んでひとりで決めろと言っているわけではありません。誰かに相談するのもよし、誰かに応援を求めるのもよし。人がひとりで生きているものではない以上、むしろそうする方がよい結果につながることも多くあります。
ただ、「自分がなぜそれを選択したのか」は自分以外の誰かに探してもらうものではありません。自分を悩ますその物事の起点にあった自分の〈選択〉は、自分の行動と思考をたどり、自分自身で見つけ出さなければ意味がないのです。

身も蓋もない言い方をしてしまいますが、そうしたならば、その先にはいつかきっと必ずよいことが待っているはずだと、ぼくは断言することができません。
ただ、行き場がわからずに暗中を模索しているときに、「なぜオレはそれを選んだのか」というところへ立ち戻り、そこを起点としてまわりの状況や人との関係性を再考し、その考察の結果にもとづいて行動することは、たとえ問題の本質的解決にはつながらなくとも、その先、自分のとるべき態度や行動が何かを教えてくれることにはなるはずです。

まずはそこから。
そして次にすることは、その〈選択〉が自利を優先したものであったか、「他人のため」だったかを思い起こすことです。「他人のため」だとしたらそれでよし。自利を優先させていたとしたら、選び直すという〈選択〉を考えるべきです。どうしてかというと、その悩みや挫折を救うには、自分優先にもとづいた考えや行動はほとんど役に立たないからです。人は他者のために何かをするときにパワーが外向きになり、パフォーマンスが最大化します。あたりまえです。「他人のため」を考える、あるいは実行するとき、アタマのなかには他者や他者たちとの関係性が常にあるからです。逆に、「自分のため」はどうしても内向きになってしまいがちなため、出力が弱くなります。パフォーマンスも上がりません。

そうすると、道は自ずと限定されてくるはずです。
だとしても、「沈む瀬」が「浮かぶ瀬」に変わるような劇的で一発逆転的な道がすぐに見つかるはずもありませんが、その先に「浮かぶ瀬」を見つけるための道筋は見えてくるのではないでしょうか。いや、きっと見えてくるとぼくは思います。


コメント
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